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古文書目録名一覧

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県立歴史館収集文書(雑)

資料No(記号) 全県〔0〕/0-99-3
説明(解題) 県立歴史館で購入した流出史料文書のうち、家文書や個人収集資料として一群をなさない単体文書を便宜的にこの分類に収めた。おもに信濃国関係の一紙文書・軸装などが含まれる。

 1 平成27年度県外古書店より購入した文書。史料の性格は『長野県立歴史館研究紀要』22号(20
   16年)の福島正樹による史料紹介を参照。 
 2・3 平成27年度に県外古書店より購入した史料群。
  慶長5年(1603)6月2日、および7日付で、仙石秀久が北六左衛門に宛てて出した知行宛  行状。仙石秀久は豊臣秀吉の最古参の家臣与力(家臣)のひとり。秀吉配下の古参家臣のなかで  若年ながら頭角を現したが、天正14年(1586)、秀吉の九州征討戦の過程での敗戦により失脚。  所領を没収されたが、天正18年の小田原攻めで奮戦し、その功を認められ信濃国佐久郡を与えら  れ小諸城主となった。
   本文書は、復活後の小諸城主時代のもので、関ヶ原合戦直前のもの。北六左衛門が仙石秀久に  妻子を差し出して味方に付くことを示したことに対し、秀久が北氏にたいし、まず200貫文、   5日後にさらに100貫文を宛行ったものである。関ヶ原合戦直前の緊迫した情勢の中で、秀久が  家臣の知行宛行いに腐心していた様子がうかがことができる。
   なお、宛行われた200貫文は妻子を小諸城下に引っ越しさせたことに対するものであったこと  が知られる。当時進展していた家臣団の城下集住に関する史料として理解することが出来る。
  知行を宛行われた北六左衛門については現在のところ未詳。「為知行遣分事」で書き出す文書  の形式は、小諸城主時代の慶長年間の知行宛行状に共通するものである。
 4 松本藩士木下秀勝の子として明治2年(1869)に生まれた自由民権運動家で初期社会主義者で  ある木下尚江の自画像で、県外古書店より購入したもの。木下は「信陽日報」の記者、弁護士な  どの活動もおこない、松本キリスト教の洗礼を受け、キリスト教人道主義者として日露戦争非戦  論を唱えた。軸装された書翰の宛名から、本史料は高崎在住のキリスト教者住谷天来にあてたも  のと推測される。住谷は内村鑑三らと交遊した「万朝報」記者で、のち郷里の群馬県にかえり伊  勢崎教会、甘楽教会の牧師となっている。キリスト教徒、非戦平和主義者として活動していたこ  とから、木下との交流が生まれた。木下の自画像は知られていないが、自画像の書名に「病野   老」とあることから病を得た晩年のものと見られる。切手の印字が「12.3.7」となっている。ま  た自画像も3月7日付となっている。木下は昭和12年(1937)に癌を発症しその年の11月に没して  いることから、昭和12年の作品と推定しておきたい。
 5 開館時収集資料のうち。文久元年から2年にかけて道中宿駅の対応について抜き書きしたもの。   筆者は松本能真。
 6 仁科記は開館時収集資料のうち。仁科神明宮の由緒を記した巻物。
 7 開館時収集資料のうち。佐久間象山の漢詩「修類藁」の写。
8 平成9年度夏季企画展「殖産興業と万国博覧会」に展示するために購入した第3回内国勧業博覧会   錦絵。370mm×750mm
9-1 二郎三郎・姫如が金福聚院へ田地を売り渡したことを示す売券。田地は依重名の内から得分   の一部を抜き出し留保した上で売り出した抜地である。一段につき三斗の得分があった。二郎   三郎等は2貫500文で抜地を売り渡し、毎年30文の御年貢を納めて知行するよう記している。 
 9-2 信濃守護家出身の小笠原貞慶書状の正文である。内容は、「この度の種々奉公の心懸けは比   類がない。また、府中打入の供を致すとの由、神妙である、これにより竹渕100貫の地を約束   する」というもので、府中・竹渕(松本市)の地名がみえる。天正10年(1582)に貞慶が徳川   家康の力を得て深志(松本)城を奪回した時のものと考えられる。江戸時代の聞書の『二木家   記』『箕輪記』で箕輪衆が小笠原氏に協力したことは知られているが、この文書により、この   記述が歴史的に裏付けられる。
9-3 信濃国の国人、木曽義昌の朱印状で、大槻清左衛門尉に宛てたものである。「郷村を穿鑿した上で一騎前に宛て行うと(上位者が)仰せ出されました」という奉書形式のものである。同様の文書は三村織部佐にだされている。この文書により箕輪地域が木曽義昌により具体的に支配された時期があることが正文により明らかになる。
9-4 天正11年に「窪分定納十五貫文を宛て行う。向後は武具・馬具で馳走するように」という軍役を求めた木曽義昌の朱印状である
10 市河文書(本間美術館所蔵 重要文化財)の一通だったがいずれかの時期に散佚したものを平  成29年度に当館で購入したもの。本文書は、二宮氏泰が信濃の武士市河甲斐守頼房に対して、合  戦の労をねぎらい、あらたに信濃国守護代として二宮式部を任じたことを報告し更なる忠節を求
 めた文書である。
 11 南安曇郡役所に関わる行政簿冊。町村合併による役場建設・改称などに関する書類。とくに郡  役所の平面図・立面図などが添付されており興味深い。
 12 切支丹高札で、伊那郡葛島村(駒ヶ根市)で作成されたもの。
 13 「木曽願書」は幸若舞をテキストにした奈良絵巻。 本絵巻の料紙は金泥で草花の下絵が施さ  れた美しいものである。挿絵は四枚でいずれの場面にも義仲が描かれたものである。当館には木  曽義仲合戦図屏風がやはり奈良絵本の貼絵(12枚)の状態で残っている。しかしその場面で義  仲と確認できる画面はわずか1場面であることから、本絵巻はきわめて特徴的なものでいわば   「木曽義仲絵巻」といってよいものである。時代は、筆致・本文の書風などから奈良絵本全盛期  の寛文・延宝期を下らないものであろう。史料の劣化があり写真対応となっている。 
14・15 信濃国埴科郡五加村 坂口式三郎関係史料。
16 「夜の鶴」は「十六夜日記」などで知られる阿仏尼の作である。阿仏尼は鎌倉時代の貴族藤原為 相の母で冷泉家の家業である。本書は歌学をまとめた歌学書である。この原本は知られず、残さ れる写本は、(1)冷泉家所蔵本および(2)蓬左文庫本の2系統が知られる。(2)は奥書に戦 国時代、戦国大名武田信虎の所望で冷泉家の当主為和が原本をもとに写し取った旨が記されるもの(1次写本)である。本書は後者に位置づけられる。「為和(花押影)」と奥書にあることから、蓬 左文庫本を写し取った2次転写本ではないことは明らかで、むしろ本書は原本の花押を臨書して写 しとった1次転写本の可能性が高く、花押影が掲載される意味でも貴重な1冊である。
17 武田晴信感状は天文24年(1555)第2回川中島合戦に関わる武田晴信(信玄)が発給した感状 である。これまで知られているなかで、このときの合戦の感状は十三通ある。蘆川氏は、高井郡井 上衆のひとりで、「文禄三年定納員数目録」では蘆川藤蔵が百石高の地侍としてみえる。また、天 正12年(1584)には高井郡中條銚子塚(小布施町)に蘆川囚獄が所領を与えられていることが分 かっている。時代的に見てこの文書の受給者は「蘆川囚獄」にあたるのではないか。「との」付で あること、また書止文言が「如件」となっているからも、蘆川氏が軽輩の士であることがわかり、 この文書は当時の書札に合致している正文であることがわかる。
18 永禄4年(1558)3月30日、三好長慶邸に将軍足利義輝が御成した際の記録。蔵書印から真田 藩家老飯島勝休の手沢本であったことがわかる、出所の明瞭な写本である。当館所蔵飯島勝休史料 の欠本を補うものである。当時、幕府の実権を握っていた三好氏は、将軍の力を凌駕していたが、 家格の上では将軍の家臣細川氏の陪臣であり、異例中の訪問であった。式三献の料理作法で献上物 の互酬がおこなわれた。当時、三好家には小笠原長時が滞在していた。また、足利義輝の奉公衆に 小笠原稙盛がおり、将軍の御成に近侍していたことが記されている。長時は京都滞在中に、この稙 盛を通じて将軍家との交渉をおこなっていた。稙盛もまた長時を「御屋形様」と称し、同族の主と して位置づけていた。この史料からは、永禄4年時、京都周辺が、阿波三好氏周辺の勢力で圧倒さ れていたことがうかがえる
19 当館で収集された戦後労働改革に関わる紙芝居コレクション。第2次世界大戦後改革のなかで労 働問題の改善は大きな柱の一つとして位置づけられた。昭和22年(1947)に発足した労働省の下部 組織として労政局、労働基準局、女性局(婦人少年局→婦人局)、職業安定局、職業能力開発局がお かれた。特に、労働組合の保護、女性の解放という観点では改革の大きな柱となった問題は、国民 への積極的な啓蒙が課題となった。婦人労働問題、年少労働問題、そして一般の婦人問題に関する 施策のため婦人少年局が設けられ、山川菊栄が初代局長となっている。山川がとくに国民への啓蒙 活動のために積極的に活用したのが、メディアとしての新聞、幻灯機や紙芝居であった。本史料群 は労働関係の民主化をうたう戦後改革において、とくに女性や年少者の生活がどう変わるべきかを 現場においてわかりやすく説明した実際の資料である。

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