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動物装飾付き土器(県宝)


開催期間:平成30年9月~

 平成30年は、県内の縄文文化が高く評価されたニュースが続きました。5月、長野・山梨両県にまたがる八ヶ岳周辺の黒曜石に関わる縄文遺跡・遺物が、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」に選定されました。9月には、諏訪地区を中心とした縄文時代中期の土器158点が「信州の特色ある縄文土器」として県宝指定に向け審議会の答申を受けました。
 当館では、日本遺産に関連し国宝土偶2点「縄文のビーナス」「仮面の女神」の精巧な複製品をごらんいただけます。また、新しい県宝の一つ、諏訪市穴場遺跡の動物装飾付釣手土器(複製品)を展示しました。縄文時代中期(5,000年余前)、ヘビを思わせる装飾が香炉の把手に乗っています。県宝の富士見町札沢遺跡品(当館蔵)とそろい踏みです。派手で抽象化された穴場遺跡例がやや新しい段階です。違いを見比べてみてください。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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大塔合戦から川中島合戦へ

大文字の旗 当館蔵 県宝 複製
大文字の旗 当館蔵 県宝 複製

開催期間:平成30年9月~

 大塔合戦(おおとうがっせん)とは、応永7(1400)年、信濃守護小笠原長秀と信濃の国人衆が善光寺平南部で争った合戦です。信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、ほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗しました。これを大文字一揆(だいもんじいっき)といいます。「大文字の旗」は、もともと香坂氏の菩提寺である牧島の興禅寺(信州新町、香坂氏の菩提寺)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に前所有者であった大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



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信州の通船


開催期間:平成30年9月~

 陸上交通の中馬(ちゅうま)が発達し、商品経済が進展してきた江戸時代後期の信濃。千曲川や犀川、天竜川を利用し、川船で荷を大量に運ぶ通船に取り組む個人や藩が現れました。今回は、千曲川通船を中心にその姿の一端を紹介します。
 千曲川で通船を正式に実現したのは、1790(寛政2)年の太左衛門船です。西大滝村(飯山市)の齊藤太左衛門は、通船5艘、西大滝と福島(須坂市)の区間を許可されました。船の長さは10間4尺(19.3m)、乗員は船頭と舳乗(へさきのり)を含めた6人で、綱手4人は上りには綱を引いて船を引き上げました。
 1816(文化13)年、松代藩でも領内(川田・福島間)で通船を始めました。帆を用い、のちには松代・飯山間を下り1日、上り4日で運航しました。船荷は、塩・米・茶・木綿・油・菜種・紙・肴などです。 
 善光寺町後町の商人である小野厚連(こうれん)は、丹波島(長野市)から新潟湊(新潟市)までの通船を企てました。信越国境は急流が多く、船の難所です。多額の工事費がかかるため、川田宿問屋の西沢又右衛門らの力を借りました。写真は、1839(天保10)年に又右衛門が川浦役所(新潟県上越市)へ提出した千曲川筋略絵図面です。
 運賃を記した史料や荷物を確認した証明書等も展示します。



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長野県の誕生


開催期間:平成30年9月~

 近代資料として「五榜の掲示」を展示しています。
 これは、慶応4(1868)年3月15日に、太政官(明治新政府)が旧幕府の高札を撤去し、その代わりに民衆に対して出した五つの高札です。
前日の3月14日には、明治政府の国策の基本方針を示した「五箇条の御誓文」が公布されています。
 高札は法令や禁令を板の札に墨書し、町や村の人目につきやすい場所に掲示されたものです。
 五榜の掲示はその名のとおり、五つの内容から成りますが、写真はその内の第一札です。
慶応4年の太政官からの公布の後に、明治4(1871)年ごろになって長野県庁から改めて出されたものです。
 近世と近代の境目に出され、近世の雰囲気を色濃く残している五榜の掲示は、明治初期の政府や県からの地域への情報伝達の様子の一端を伺い知ることができる資料だといえるでしょう。
 五榜の掲示は、最後の高札となりました。



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動物装飾付き土器(県宝)


開催期間:平成30年9月~

 平成30年は、県内の縄文文化が高く評価されたニュースが続きました。5月、長野・山梨両県にまたがる八ヶ岳周辺の黒曜石に関わる縄文遺跡・遺物が、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」に選定されました。9月には、諏訪地区を中心とした縄文時代中期の土器158点が「信州の特色ある縄文土器」として県宝指定に向け審議会の答申を受けました。
 当館では、日本遺産に関連し国宝土偶2点「縄文のビーナス」「仮面の女神」の精巧な複製品をごらんいただけます。また、新しい県宝の一つ、諏訪市穴場遺跡の動物装飾付釣手土器(複製品)を展示しました。縄文時代中期(5,000年余前)、ヘビを思わせる装飾が香炉の把手に乗っています。県宝の富士見町札沢遺跡品(当館蔵)とそろい踏みです。派手で抽象化された穴場遺跡例がやや新しい段階です。違いを見比べてみてください。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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大塔合戦から川中島合戦へ

大文字の旗 当館蔵 県宝 複製
大文字の旗 当館蔵 県宝 複製

開催期間:平成30年9月~

 大塔合戦(おおとうがっせん)とは、応永7(1400)年、信濃守護小笠原長秀と信濃の国人衆が善光寺平南部で争った合戦です。信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、ほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗しました。これを大文字一揆(だいもんじいっき)といいます。「大文字の旗」は、もともと香坂氏の菩提寺である牧島の興禅寺(信州新町、香坂氏の菩提寺)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に前所有者であった大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



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信州の通船


開催期間:平成30年9月~

 陸上交通の中馬(ちゅうま)が発達し、商品経済が進展してきた江戸時代後期の信濃。千曲川や犀川、天竜川を利用し、川船で荷を大量に運ぶ通船に取り組む個人や藩が現れました。今回は、千曲川通船を中心にその姿の一端を紹介します。
 千曲川で通船を正式に実現したのは、1790(寛政2)年の太左衛門船です。西大滝村(飯山市)の齊藤太左衛門は、通船5艘、西大滝と福島(須坂市)の区間を許可されました。船の長さは10間4尺(19.3m)、乗員は船頭と舳乗(へさきのり)を含めた6人で、綱手4人は上りには綱を引いて船を引き上げました。
 1816(文化13)年、松代藩でも領内(川田・福島間)で通船を始めました。帆を用い、のちには松代・飯山間を下り1日、上り4日で運航しました。船荷は、塩・米・茶・木綿・油・菜種・紙・肴などです。 
 善光寺町後町の商人である小野厚連(こうれん)は、丹波島(長野市)から新潟湊(新潟市)までの通船を企てました。信越国境は急流が多く、船の難所です。多額の工事費がかかるため、川田宿問屋の西沢又右衛門らの力を借りました。写真は、1839(天保10)年に又右衛門が川浦役所(新潟県上越市)へ提出した千曲川筋略絵図面です。
 運賃を記した史料や荷物を確認した証明書等も展示します。



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長野県の誕生


開催期間:平成30年9月~

 近代資料として「五榜の掲示」を展示しています。
 これは、慶応4(1868)年3月15日に、太政官(明治新政府)が旧幕府の高札を撤去し、その代わりに民衆に対して出した五つの高札です。
前日の3月14日には、明治政府の国策の基本方針を示した「五箇条の御誓文」が公布されています。
 高札は法令や禁令を板の札に墨書し、町や村の人目につきやすい場所に掲示されたものです。
 五榜の掲示はその名のとおり、五つの内容から成りますが、写真はその内の第一札です。
慶応4年の太政官からの公布の後に、明治4(1871)年ごろになって長野県庁から改めて出されたものです。
 近世と近代の境目に出され、近世の雰囲気を色濃く残している五榜の掲示は、明治初期の政府や県からの地域への情報伝達の様子の一端を伺い知ることができる資料だといえるでしょう。
 五榜の掲示は、最後の高札となりました。



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動物装飾付き土器(県宝)


開催期間:平成30年9月~

 平成30年は、県内の縄文文化が高く評価されたニュースが続きました。5月、長野・山梨両県にまたがる八ヶ岳周辺の黒曜石に関わる縄文遺跡・遺物が、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」に選定されました。9月には、諏訪地区を中心とした縄文時代中期の土器158点が「信州の特色ある縄文土器」として県宝指定に向け審議会の答申を受けました。
 当館では、日本遺産に関連し国宝土偶2点「縄文のビーナス」「仮面の女神」の精巧な複製品をごらんいただけます。また、新しい県宝の一つ、諏訪市穴場遺跡の動物装飾付釣手土器(複製品)を展示しました。縄文時代中期(5,000年余前)、ヘビを思わせる装飾が香炉の把手に乗っています。県宝の富士見町札沢遺跡品(当館蔵)とそろい踏みです。派手で抽象化された穴場遺跡例がやや新しい段階です。違いを見比べてみてください。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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大塔合戦から川中島合戦へ

大文字の旗 当館蔵 県宝 複製
大文字の旗 当館蔵 県宝 複製

開催期間:平成30年9月~

 大塔合戦(おおとうがっせん)とは、応永7(1400)年、信濃守護小笠原長秀と信濃の国人衆が善光寺平南部で争った合戦です。信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、ほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗しました。これを大文字一揆(だいもんじいっき)といいます。「大文字の旗」は、もともと香坂氏の菩提寺である牧島の興禅寺(信州新町、香坂氏の菩提寺)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に前所有者であった大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



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信州の通船


開催期間:平成30年9月~

 陸上交通の中馬(ちゅうま)が発達し、商品経済が進展してきた江戸時代後期の信濃。千曲川や犀川、天竜川を利用し、川船で荷を大量に運ぶ通船に取り組む個人や藩が現れました。今回は、千曲川通船を中心にその姿の一端を紹介します。
 千曲川で通船を正式に実現したのは、1790(寛政2)年の太左衛門船です。西大滝村(飯山市)の齊藤太左衛門は、通船5艘、西大滝と福島(須坂市)の区間を許可されました。船の長さは10間4尺(19.3m)、乗員は船頭と舳乗(へさきのり)を含めた6人で、綱手4人は上りには綱を引いて船を引き上げました。
 1816(文化13)年、松代藩でも領内(川田・福島間)で通船を始めました。帆を用い、のちには松代・飯山間を下り1日、上り4日で運航しました。船荷は、塩・米・茶・木綿・油・菜種・紙・肴などです。 
 善光寺町後町の商人である小野厚連(こうれん)は、丹波島(長野市)から新潟湊(新潟市)までの通船を企てました。信越国境は急流が多く、船の難所です。多額の工事費がかかるため、川田宿問屋の西沢又右衛門らの力を借りました。写真は、1839(天保10)年に又右衛門が川浦役所(新潟県上越市)へ提出した千曲川筋略絵図面です。
 運賃を記した史料や荷物を確認した証明書等も展示します。



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長野県の誕生


開催期間:平成30年9月~

 近代資料として「五榜の掲示」を展示しています。
 これは、慶応4(1868)年3月15日に、太政官(明治新政府)が旧幕府の高札を撤去し、その代わりに民衆に対して出した五つの高札です。
前日の3月14日には、明治政府の国策の基本方針を示した「五箇条の御誓文」が公布されています。
 高札は法令や禁令を板の札に墨書し、町や村の人目につきやすい場所に掲示されたものです。
 五榜の掲示はその名のとおり、五つの内容から成りますが、写真はその内の第一札です。
慶応4年の太政官からの公布の後に、明治4(1871)年ごろになって長野県庁から改めて出されたものです。
 近世と近代の境目に出され、近世の雰囲気を色濃く残している五榜の掲示は、明治初期の政府や県からの地域への情報伝達の様子の一端を伺い知ることができる資料だといえるでしょう。
 五榜の掲示は、最後の高札となりました。



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動物装飾付き土器(県宝)


開催期間:平成30年9月~

 平成30年は、県内の縄文文化が高く評価されたニュースが続きました。5月、長野・山梨両県にまたがる八ヶ岳周辺の黒曜石に関わる縄文遺跡・遺物が、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」に選定されました。9月には、諏訪地区を中心とした縄文時代中期の土器158点が「信州の特色ある縄文土器」として県宝指定に向け審議会の答申を受けました。
 当館では、日本遺産に関連し国宝土偶2点「縄文のビーナス」「仮面の女神」の精巧な複製品をごらんいただけます。また、新しい県宝の一つ、諏訪市穴場遺跡の動物装飾付釣手土器(複製品)を展示しました。縄文時代中期(5,000年余前)、ヘビを思わせる装飾が香炉の把手に乗っています。県宝の富士見町札沢遺跡品(当館蔵)とそろい踏みです。派手で抽象化された穴場遺跡例がやや新しい段階です。違いを見比べてみてください。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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大塔合戦から川中島合戦へ

大文字の旗 当館蔵 県宝 複製
大文字の旗 当館蔵 県宝 複製

開催期間:平成30年9月~

 大塔合戦(おおとうがっせん)とは、応永7(1400)年、信濃守護小笠原長秀と信濃の国人衆が善光寺平南部で争った合戦です。信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、ほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗しました。これを大文字一揆(だいもんじいっき)といいます。「大文字の旗」は、もともと香坂氏の菩提寺である牧島の興禅寺(信州新町、香坂氏の菩提寺)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に前所有者であった大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



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信州の通船


開催期間:平成30年9月~

 陸上交通の中馬(ちゅうま)が発達し、商品経済が進展してきた江戸時代後期の信濃。千曲川や犀川、天竜川を利用し、川船で荷を大量に運ぶ通船に取り組む個人や藩が現れました。今回は、千曲川通船を中心にその姿の一端を紹介します。
 千曲川で通船を正式に実現したのは、1790(寛政2)年の太左衛門船です。西大滝村(飯山市)の齊藤太左衛門は、通船5艘、西大滝と福島(須坂市)の区間を許可されました。船の長さは10間4尺(19.3m)、乗員は船頭と舳乗(へさきのり)を含めた6人で、綱手4人は上りには綱を引いて船を引き上げました。
 1816(文化13)年、松代藩でも領内(川田・福島間)で通船を始めました。帆を用い、のちには松代・飯山間を下り1日、上り4日で運航しました。船荷は、塩・米・茶・木綿・油・菜種・紙・肴などです。 
 善光寺町後町の商人である小野厚連(こうれん)は、丹波島(長野市)から新潟湊(新潟市)までの通船を企てました。信越国境は急流が多く、船の難所です。多額の工事費がかかるため、川田宿問屋の西沢又右衛門らの力を借りました。写真は、1839(天保10)年に又右衛門が川浦役所(新潟県上越市)へ提出した千曲川筋略絵図面です。
 運賃を記した史料や荷物を確認した証明書等も展示します。



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長野県の誕生


開催期間:平成30年9月~

 近代資料として「五榜の掲示」を展示しています。
 これは、慶応4(1868)年3月15日に、太政官(明治新政府)が旧幕府の高札を撤去し、その代わりに民衆に対して出した五つの高札です。
前日の3月14日には、明治政府の国策の基本方針を示した「五箇条の御誓文」が公布されています。
 高札は法令や禁令を板の札に墨書し、町や村の人目につきやすい場所に掲示されたものです。
 五榜の掲示はその名のとおり、五つの内容から成りますが、写真はその内の第一札です。
慶応4年の太政官からの公布の後に、明治4(1871)年ごろになって長野県庁から改めて出されたものです。
 近世と近代の境目に出され、近世の雰囲気を色濃く残している五榜の掲示は、明治初期の政府や県からの地域への情報伝達の様子の一端を伺い知ることができる資料だといえるでしょう。
 五榜の掲示は、最後の高札となりました。



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動物装飾付き土器(県宝)


開催期間:平成30年9月~

 平成30年は、県内の縄文文化が高く評価されたニュースが続きました。5月、長野・山梨両県にまたがる八ヶ岳周辺の黒曜石に関わる縄文遺跡・遺物が、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」に選定されました。9月には、諏訪地区を中心とした縄文時代中期の土器158点が「信州の特色ある縄文土器」として県宝指定に向け審議会の答申を受けました。
 当館では、日本遺産に関連し国宝土偶2点「縄文のビーナス」「仮面の女神」の精巧な複製品をごらんいただけます。また、新しい県宝の一つ、諏訪市穴場遺跡の動物装飾付釣手土器(複製品)を展示しました。縄文時代中期(5,000年余前)、ヘビを思わせる装飾が香炉の把手に乗っています。県宝の富士見町札沢遺跡品(当館蔵)とそろい踏みです。派手で抽象化された穴場遺跡例がやや新しい段階です。違いを見比べてみてください。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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大塔合戦から川中島合戦へ

大文字の旗 当館蔵 県宝 複製
大文字の旗 当館蔵 県宝 複製

開催期間:平成30年9月~

 大塔合戦(おおとうがっせん)とは、応永7(1400)年、信濃守護小笠原長秀と信濃の国人衆が善光寺平南部で争った合戦です。信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、ほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗しました。これを大文字一揆(だいもんじいっき)といいます。「大文字の旗」は、もともと香坂氏の菩提寺である牧島の興禅寺(信州新町、香坂氏の菩提寺)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に前所有者であった大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



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信州の通船


開催期間:平成30年9月~

 陸上交通の中馬(ちゅうま)が発達し、商品経済が進展してきた江戸時代後期の信濃。千曲川や犀川、天竜川を利用し、川船で荷を大量に運ぶ通船に取り組む個人や藩が現れました。今回は、千曲川通船を中心にその姿の一端を紹介します。
 千曲川で通船を正式に実現したのは、1790(寛政2)年の太左衛門船です。西大滝村(飯山市)の齊藤太左衛門は、通船5艘、西大滝と福島(須坂市)の区間を許可されました。船の長さは10間4尺(19.3m)、乗員は船頭と舳乗(へさきのり)を含めた6人で、綱手4人は上りには綱を引いて船を引き上げました。
 1816(文化13)年、松代藩でも領内(川田・福島間)で通船を始めました。帆を用い、のちには松代・飯山間を下り1日、上り4日で運航しました。船荷は、塩・米・茶・木綿・油・菜種・紙・肴などです。 
 善光寺町後町の商人である小野厚連(こうれん)は、丹波島(長野市)から新潟湊(新潟市)までの通船を企てました。信越国境は急流が多く、船の難所です。多額の工事費がかかるため、川田宿問屋の西沢又右衛門らの力を借りました。写真は、1839(天保10)年に又右衛門が川浦役所(新潟県上越市)へ提出した千曲川筋略絵図面です。
 運賃を記した史料や荷物を確認した証明書等も展示します。



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長野県の誕生


開催期間:平成30年9月~

 近代資料として「五榜の掲示」を展示しています。
 これは、慶応4(1868)年3月15日に、太政官(明治新政府)が旧幕府の高札を撤去し、その代わりに民衆に対して出した五つの高札です。
前日の3月14日には、明治政府の国策の基本方針を示した「五箇条の御誓文」が公布されています。
 高札は法令や禁令を板の札に墨書し、町や村の人目につきやすい場所に掲示されたものです。
 五榜の掲示はその名のとおり、五つの内容から成りますが、写真はその内の第一札です。
慶応4年の太政官からの公布の後に、明治4(1871)年ごろになって長野県庁から改めて出されたものです。
 近世と近代の境目に出され、近世の雰囲気を色濃く残している五榜の掲示は、明治初期の政府や県からの地域への情報伝達の様子の一端を伺い知ることができる資料だといえるでしょう。
 五榜の掲示は、最後の高札となりました。



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動物装飾付き土器(県宝)


開催期間:平成30年9月~

 平成30年は、県内の縄文文化が高く評価されたニュースが続きました。5月、長野・山梨両県にまたがる八ヶ岳周辺の黒曜石に関わる縄文遺跡・遺物が、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」に選定されました。9月には、諏訪地区を中心とした縄文時代中期の土器158点が「信州の特色ある縄文土器」として県宝指定に向け審議会の答申を受けました。
 当館では、日本遺産に関連し国宝土偶2点「縄文のビーナス」「仮面の女神」の精巧な複製品をごらんいただけます。また、新しい県宝の一つ、諏訪市穴場遺跡の動物装飾付釣手土器(複製品)を展示しました。縄文時代中期(5,000年余前)、ヘビを思わせる装飾が香炉の把手に乗っています。県宝の富士見町札沢遺跡品(当館蔵)とそろい踏みです。派手で抽象化された穴場遺跡例がやや新しい段階です。違いを見比べてみてください。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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大塔合戦から川中島合戦へ

大文字の旗 当館蔵 県宝 複製
大文字の旗 当館蔵 県宝 複製

開催期間:平成30年9月~

 大塔合戦(おおとうがっせん)とは、応永7(1400)年、信濃守護小笠原長秀と信濃の国人衆が善光寺平南部で争った合戦です。信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、ほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗しました。これを大文字一揆(だいもんじいっき)といいます。「大文字の旗」は、もともと香坂氏の菩提寺である牧島の興禅寺(信州新町、香坂氏の菩提寺)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に前所有者であった大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



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信州の通船


開催期間:平成30年9月~

 陸上交通の中馬(ちゅうま)が発達し、商品経済が進展してきた江戸時代後期の信濃。千曲川や犀川、天竜川を利用し、川船で荷を大量に運ぶ通船に取り組む個人や藩が現れました。今回は、千曲川通船を中心にその姿の一端を紹介します。
 千曲川で通船を正式に実現したのは、1790(寛政2)年の太左衛門船です。西大滝村(飯山市)の齊藤太左衛門は、通船5艘、西大滝と福島(須坂市)の区間を許可されました。船の長さは10間4尺(19.3m)、乗員は船頭と舳乗(へさきのり)を含めた6人で、綱手4人は上りには綱を引いて船を引き上げました。
 1816(文化13)年、松代藩でも領内(川田・福島間)で通船を始めました。帆を用い、のちには松代・飯山間を下り1日、上り4日で運航しました。船荷は、塩・米・茶・木綿・油・菜種・紙・肴などです。 
 善光寺町後町の商人である小野厚連(こうれん)は、丹波島(長野市)から新潟湊(新潟市)までの通船を企てました。信越国境は急流が多く、船の難所です。多額の工事費がかかるため、川田宿問屋の西沢又右衛門らの力を借りました。写真は、1839(天保10)年に又右衛門が川浦役所(新潟県上越市)へ提出した千曲川筋略絵図面です。
 運賃を記した史料や荷物を確認した証明書等も展示します。



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長野県の誕生


開催期間:平成30年9月~

 近代資料として「五榜の掲示」を展示しています。
 これは、慶応4(1868)年3月15日に、太政官(明治新政府)が旧幕府の高札を撤去し、その代わりに民衆に対して出した五つの高札です。
前日の3月14日には、明治政府の国策の基本方針を示した「五箇条の御誓文」が公布されています。
 高札は法令や禁令を板の札に墨書し、町や村の人目につきやすい場所に掲示されたものです。
 五榜の掲示はその名のとおり、五つの内容から成りますが、写真はその内の第一札です。
慶応4年の太政官からの公布の後に、明治4(1871)年ごろになって長野県庁から改めて出されたものです。
 近世と近代の境目に出され、近世の雰囲気を色濃く残している五榜の掲示は、明治初期の政府や県からの地域への情報伝達の様子の一端を伺い知ることができる資料だといえるでしょう。
 五榜の掲示は、最後の高札となりました。




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