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展示期間:平成31年4月~

南関東の赤い土器

東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)
東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)

弥生時代後期(約1,800年前)、長野県北半部の千曲川流域では、赤い壺や高坏などが流行します(箱(はこ)清水(しみず)式土器)。県南の天竜川流域に比べ赤い土器がひじょうに多いことから、この地域を「赤い土器のクニ」と呼ぶことがあります。
県外にも赤い土器があり、今回、南関東の赤い壺(久ヶ原(くがはら)式土器)を東京都大田区立郷土博物館からお借りしました。展示室で両地域の土器を比べてみましょう。例えば、模様に注目してみると、箱清水式土器では櫛のような道具で直線や波線を描いています。一方、久ヶ原式土器には縄文が使われています。さらによく観察するとさまざまな違いが発見できることでしょう。この時代、それぞれの「おクニ」で土器の顔つきも違っていたのです。
ちなみに箱清水式土器の赤色はベンガラ(酸化第2鉄を精製)を使っています。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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展示期間:令和元年10月~

大塔合戦

大文字の旗
大文字の旗

【小笠原氏と国人】 
 小笠原氏は鎌倉時代甲斐国小笠原荘に所領を得た長清を祖とします。鎌倉時代に信濃国ともののしよう伴野荘(佐久市)を得てから信濃国に足がかりをつくります。南北朝時代以後、信濃国の守護となった家柄です。
 おおとうかつせん大塔合戦(1400年)は、信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人(じざむらい地侍)衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、長秀はほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。

【大塔合戦】
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗します。これをだいもんじいつき大文字一揆といいます。「大文字の旗」は、もともとこうさか香坂氏のぼだいじ菩提寺であるまきのしま牧島のこうぜんじ興禅寺(長野市信州新町)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



展示期間:平成31年4月~

中山道長窪宿高札にみる江戸時代の輸送

中山道長窪宿高札(当館蔵)
中山道長窪宿高札(当館蔵)

 街道の風景のコーナーでは、長和町にある中山道長窪宿(長久保宿)に掲げられていた高札を展示しています。幅178.4㎝、高さ47.2㎝、厚さ5.2㎝、重さ21.5㎏もある重厚な高札で、正徳元年(1711年)に幕府から宿駅(宿場)に設置された問屋(といや)(輸送に関わる人馬の調整役)に出された覚(通達)が記されています。内容は、①馬一疋(匹)が運ぶ荷物の重量は約150㎏、人ひとりが運ぶ荷物の重量が約19㎏と、運ぶ荷物の重量規定②宿駅に常備する人馬は25人25疋に限るなど、街道で利用できる人馬数の規定③人員と馬の料金における罰則などです。
 江戸時代には徳川家康によって全国に拡充された伝馬制度(公用の荷物輸送制度)により公用・私用の荷物輸送が次第に盛んになっていきます。そのなかで、荷物の過積載や人馬供出の負担による人々の疲弊や料金の不正徴取など荷物輸送に関わる問題が発生しました。この状況下で出されたのが今回の高札に書かれた通達でした。重厚で立派な高札からは、輸送者の疲弊や不正を考慮しながら伝馬制度を維持しようとした幕府の姿勢を感じ取ることができます。



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展示期間:平成31年3月~

蚕と桑からの産物


近代資料として「蚕と桑からの産物」の掛図(複製)パネルを展示しています。
これは、上田蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)の授業で使われた掛図です。
養蚕や製糸の専門科目で用いられたものだと思われ、大変緻密に描かれています。
図の枠の下部には「Ueda Imperial College」の表記があり、特注品として教官と業者・職人が協働で作り上げられたことがうかがえます。
図をたどっていくと、蚕と桑が様々なものに利用できることを改めて理解できます。
それぞれの絵の下部には英語で名称が記されています。日本語は一切使われていません。
当時の養蚕業・製糸業によって生産された製品が世界に流通していたことから、上田蚕糸専門学校では英語を用いた国際的な授業をおこなっていたと考えられます。



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展示期間:平成31年4月~

南関東の赤い土器

東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)
東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)

弥生時代後期(約1,800年前)、長野県北半部の千曲川流域では、赤い壺や高坏などが流行します(箱(はこ)清水(しみず)式土器)。県南の天竜川流域に比べ赤い土器がひじょうに多いことから、この地域を「赤い土器のクニ」と呼ぶことがあります。
県外にも赤い土器があり、今回、南関東の赤い壺(久ヶ原(くがはら)式土器)を東京都大田区立郷土博物館からお借りしました。展示室で両地域の土器を比べてみましょう。例えば、模様に注目してみると、箱清水式土器では櫛のような道具で直線や波線を描いています。一方、久ヶ原式土器には縄文が使われています。さらによく観察するとさまざまな違いが発見できることでしょう。この時代、それぞれの「おクニ」で土器の顔つきも違っていたのです。
ちなみに箱清水式土器の赤色はベンガラ(酸化第2鉄を精製)を使っています。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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展示期間:令和元年10月~

大塔合戦

大文字の旗
大文字の旗

【小笠原氏と国人】 
 小笠原氏は鎌倉時代甲斐国小笠原荘に所領を得た長清を祖とします。鎌倉時代に信濃国ともののしよう伴野荘(佐久市)を得てから信濃国に足がかりをつくります。南北朝時代以後、信濃国の守護となった家柄です。
 おおとうかつせん大塔合戦(1400年)は、信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人(じざむらい地侍)衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、長秀はほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。

【大塔合戦】
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗します。これをだいもんじいつき大文字一揆といいます。「大文字の旗」は、もともとこうさか香坂氏のぼだいじ菩提寺であるまきのしま牧島のこうぜんじ興禅寺(長野市信州新町)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



展示期間:平成31年4月~

中山道長窪宿高札にみる江戸時代の輸送

中山道長窪宿高札(当館蔵)
中山道長窪宿高札(当館蔵)

 街道の風景のコーナーでは、長和町にある中山道長窪宿(長久保宿)に掲げられていた高札を展示しています。幅178.4㎝、高さ47.2㎝、厚さ5.2㎝、重さ21.5㎏もある重厚な高札で、正徳元年(1711年)に幕府から宿駅(宿場)に設置された問屋(といや)(輸送に関わる人馬の調整役)に出された覚(通達)が記されています。内容は、①馬一疋(匹)が運ぶ荷物の重量は約150㎏、人ひとりが運ぶ荷物の重量が約19㎏と、運ぶ荷物の重量規定②宿駅に常備する人馬は25人25疋に限るなど、街道で利用できる人馬数の規定③人員と馬の料金における罰則などです。
 江戸時代には徳川家康によって全国に拡充された伝馬制度(公用の荷物輸送制度)により公用・私用の荷物輸送が次第に盛んになっていきます。そのなかで、荷物の過積載や人馬供出の負担による人々の疲弊や料金の不正徴取など荷物輸送に関わる問題が発生しました。この状況下で出されたのが今回の高札に書かれた通達でした。重厚で立派な高札からは、輸送者の疲弊や不正を考慮しながら伝馬制度を維持しようとした幕府の姿勢を感じ取ることができます。



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展示期間:平成31年3月~

蚕と桑からの産物


近代資料として「蚕と桑からの産物」の掛図(複製)パネルを展示しています。
これは、上田蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)の授業で使われた掛図です。
養蚕や製糸の専門科目で用いられたものだと思われ、大変緻密に描かれています。
図の枠の下部には「Ueda Imperial College」の表記があり、特注品として教官と業者・職人が協働で作り上げられたことがうかがえます。
図をたどっていくと、蚕と桑が様々なものに利用できることを改めて理解できます。
それぞれの絵の下部には英語で名称が記されています。日本語は一切使われていません。
当時の養蚕業・製糸業によって生産された製品が世界に流通していたことから、上田蚕糸専門学校では英語を用いた国際的な授業をおこなっていたと考えられます。



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展示期間:平成31年4月~

南関東の赤い土器

東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)
東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)

弥生時代後期(約1,800年前)、長野県北半部の千曲川流域では、赤い壺や高坏などが流行します(箱(はこ)清水(しみず)式土器)。県南の天竜川流域に比べ赤い土器がひじょうに多いことから、この地域を「赤い土器のクニ」と呼ぶことがあります。
県外にも赤い土器があり、今回、南関東の赤い壺(久ヶ原(くがはら)式土器)を東京都大田区立郷土博物館からお借りしました。展示室で両地域の土器を比べてみましょう。例えば、模様に注目してみると、箱清水式土器では櫛のような道具で直線や波線を描いています。一方、久ヶ原式土器には縄文が使われています。さらによく観察するとさまざまな違いが発見できることでしょう。この時代、それぞれの「おクニ」で土器の顔つきも違っていたのです。
ちなみに箱清水式土器の赤色はベンガラ(酸化第2鉄を精製)を使っています。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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展示期間:令和元年10月~

大塔合戦

大文字の旗
大文字の旗

【小笠原氏と国人】 
 小笠原氏は鎌倉時代甲斐国小笠原荘に所領を得た長清を祖とします。鎌倉時代に信濃国ともののしよう伴野荘(佐久市)を得てから信濃国に足がかりをつくります。南北朝時代以後、信濃国の守護となった家柄です。
 おおとうかつせん大塔合戦(1400年)は、信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人(じざむらい地侍)衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、長秀はほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。

【大塔合戦】
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗します。これをだいもんじいつき大文字一揆といいます。「大文字の旗」は、もともとこうさか香坂氏のぼだいじ菩提寺であるまきのしま牧島のこうぜんじ興禅寺(長野市信州新町)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



展示期間:平成31年4月~

中山道長窪宿高札にみる江戸時代の輸送

中山道長窪宿高札(当館蔵)
中山道長窪宿高札(当館蔵)

 街道の風景のコーナーでは、長和町にある中山道長窪宿(長久保宿)に掲げられていた高札を展示しています。幅178.4㎝、高さ47.2㎝、厚さ5.2㎝、重さ21.5㎏もある重厚な高札で、正徳元年(1711年)に幕府から宿駅(宿場)に設置された問屋(といや)(輸送に関わる人馬の調整役)に出された覚(通達)が記されています。内容は、①馬一疋(匹)が運ぶ荷物の重量は約150㎏、人ひとりが運ぶ荷物の重量が約19㎏と、運ぶ荷物の重量規定②宿駅に常備する人馬は25人25疋に限るなど、街道で利用できる人馬数の規定③人員と馬の料金における罰則などです。
 江戸時代には徳川家康によって全国に拡充された伝馬制度(公用の荷物輸送制度)により公用・私用の荷物輸送が次第に盛んになっていきます。そのなかで、荷物の過積載や人馬供出の負担による人々の疲弊や料金の不正徴取など荷物輸送に関わる問題が発生しました。この状況下で出されたのが今回の高札に書かれた通達でした。重厚で立派な高札からは、輸送者の疲弊や不正を考慮しながら伝馬制度を維持しようとした幕府の姿勢を感じ取ることができます。



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展示期間:平成31年3月~

蚕と桑からの産物


近代資料として「蚕と桑からの産物」の掛図(複製)パネルを展示しています。
これは、上田蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)の授業で使われた掛図です。
養蚕や製糸の専門科目で用いられたものだと思われ、大変緻密に描かれています。
図の枠の下部には「Ueda Imperial College」の表記があり、特注品として教官と業者・職人が協働で作り上げられたことがうかがえます。
図をたどっていくと、蚕と桑が様々なものに利用できることを改めて理解できます。
それぞれの絵の下部には英語で名称が記されています。日本語は一切使われていません。
当時の養蚕業・製糸業によって生産された製品が世界に流通していたことから、上田蚕糸専門学校では英語を用いた国際的な授業をおこなっていたと考えられます。



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展示期間:平成31年4月~

南関東の赤い土器

東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)
東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)

弥生時代後期(約1,800年前)、長野県北半部の千曲川流域では、赤い壺や高坏などが流行します(箱(はこ)清水(しみず)式土器)。県南の天竜川流域に比べ赤い土器がひじょうに多いことから、この地域を「赤い土器のクニ」と呼ぶことがあります。
県外にも赤い土器があり、今回、南関東の赤い壺(久ヶ原(くがはら)式土器)を東京都大田区立郷土博物館からお借りしました。展示室で両地域の土器を比べてみましょう。例えば、模様に注目してみると、箱清水式土器では櫛のような道具で直線や波線を描いています。一方、久ヶ原式土器には縄文が使われています。さらによく観察するとさまざまな違いが発見できることでしょう。この時代、それぞれの「おクニ」で土器の顔つきも違っていたのです。
ちなみに箱清水式土器の赤色はベンガラ(酸化第2鉄を精製)を使っています。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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展示期間:令和元年10月~

大塔合戦

大文字の旗
大文字の旗

【小笠原氏と国人】 
 小笠原氏は鎌倉時代甲斐国小笠原荘に所領を得た長清を祖とします。鎌倉時代に信濃国ともののしよう伴野荘(佐久市)を得てから信濃国に足がかりをつくります。南北朝時代以後、信濃国の守護となった家柄です。
 おおとうかつせん大塔合戦(1400年)は、信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人(じざむらい地侍)衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、長秀はほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。

【大塔合戦】
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗します。これをだいもんじいつき大文字一揆といいます。「大文字の旗」は、もともとこうさか香坂氏のぼだいじ菩提寺であるまきのしま牧島のこうぜんじ興禅寺(長野市信州新町)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



展示期間:平成31年4月~

中山道長窪宿高札にみる江戸時代の輸送

中山道長窪宿高札(当館蔵)
中山道長窪宿高札(当館蔵)

 街道の風景のコーナーでは、長和町にある中山道長窪宿(長久保宿)に掲げられていた高札を展示しています。幅178.4㎝、高さ47.2㎝、厚さ5.2㎝、重さ21.5㎏もある重厚な高札で、正徳元年(1711年)に幕府から宿駅(宿場)に設置された問屋(といや)(輸送に関わる人馬の調整役)に出された覚(通達)が記されています。内容は、①馬一疋(匹)が運ぶ荷物の重量は約150㎏、人ひとりが運ぶ荷物の重量が約19㎏と、運ぶ荷物の重量規定②宿駅に常備する人馬は25人25疋に限るなど、街道で利用できる人馬数の規定③人員と馬の料金における罰則などです。
 江戸時代には徳川家康によって全国に拡充された伝馬制度(公用の荷物輸送制度)により公用・私用の荷物輸送が次第に盛んになっていきます。そのなかで、荷物の過積載や人馬供出の負担による人々の疲弊や料金の不正徴取など荷物輸送に関わる問題が発生しました。この状況下で出されたのが今回の高札に書かれた通達でした。重厚で立派な高札からは、輸送者の疲弊や不正を考慮しながら伝馬制度を維持しようとした幕府の姿勢を感じ取ることができます。



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蚕と桑からの産物


近代資料として「蚕と桑からの産物」の掛図(複製)パネルを展示しています。
これは、上田蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)の授業で使われた掛図です。
養蚕や製糸の専門科目で用いられたものだと思われ、大変緻密に描かれています。
図の枠の下部には「Ueda Imperial College」の表記があり、特注品として教官と業者・職人が協働で作り上げられたことがうかがえます。
図をたどっていくと、蚕と桑が様々なものに利用できることを改めて理解できます。
それぞれの絵の下部には英語で名称が記されています。日本語は一切使われていません。
当時の養蚕業・製糸業によって生産された製品が世界に流通していたことから、上田蚕糸専門学校では英語を用いた国際的な授業をおこなっていたと考えられます。



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展示期間:平成31年4月~

南関東の赤い土器

東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)
東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)

弥生時代後期(約1,800年前)、長野県北半部の千曲川流域では、赤い壺や高坏などが流行します(箱(はこ)清水(しみず)式土器)。県南の天竜川流域に比べ赤い土器がひじょうに多いことから、この地域を「赤い土器のクニ」と呼ぶことがあります。
県外にも赤い土器があり、今回、南関東の赤い壺(久ヶ原(くがはら)式土器)を東京都大田区立郷土博物館からお借りしました。展示室で両地域の土器を比べてみましょう。例えば、模様に注目してみると、箱清水式土器では櫛のような道具で直線や波線を描いています。一方、久ヶ原式土器には縄文が使われています。さらによく観察するとさまざまな違いが発見できることでしょう。この時代、それぞれの「おクニ」で土器の顔つきも違っていたのです。
ちなみに箱清水式土器の赤色はベンガラ(酸化第2鉄を精製)を使っています。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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展示期間:令和元年10月~

大塔合戦

大文字の旗
大文字の旗

【小笠原氏と国人】 
 小笠原氏は鎌倉時代甲斐国小笠原荘に所領を得た長清を祖とします。鎌倉時代に信濃国ともののしよう伴野荘(佐久市)を得てから信濃国に足がかりをつくります。南北朝時代以後、信濃国の守護となった家柄です。
 おおとうかつせん大塔合戦(1400年)は、信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人(じざむらい地侍)衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、長秀はほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。

【大塔合戦】
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗します。これをだいもんじいつき大文字一揆といいます。「大文字の旗」は、もともとこうさか香坂氏のぼだいじ菩提寺であるまきのしま牧島のこうぜんじ興禅寺(長野市信州新町)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



展示期間:平成31年4月~

中山道長窪宿高札にみる江戸時代の輸送

中山道長窪宿高札(当館蔵)
中山道長窪宿高札(当館蔵)

 街道の風景のコーナーでは、長和町にある中山道長窪宿(長久保宿)に掲げられていた高札を展示しています。幅178.4㎝、高さ47.2㎝、厚さ5.2㎝、重さ21.5㎏もある重厚な高札で、正徳元年(1711年)に幕府から宿駅(宿場)に設置された問屋(といや)(輸送に関わる人馬の調整役)に出された覚(通達)が記されています。内容は、①馬一疋(匹)が運ぶ荷物の重量は約150㎏、人ひとりが運ぶ荷物の重量が約19㎏と、運ぶ荷物の重量規定②宿駅に常備する人馬は25人25疋に限るなど、街道で利用できる人馬数の規定③人員と馬の料金における罰則などです。
 江戸時代には徳川家康によって全国に拡充された伝馬制度(公用の荷物輸送制度)により公用・私用の荷物輸送が次第に盛んになっていきます。そのなかで、荷物の過積載や人馬供出の負担による人々の疲弊や料金の不正徴取など荷物輸送に関わる問題が発生しました。この状況下で出されたのが今回の高札に書かれた通達でした。重厚で立派な高札からは、輸送者の疲弊や不正を考慮しながら伝馬制度を維持しようとした幕府の姿勢を感じ取ることができます。



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展示期間:平成31年3月~

蚕と桑からの産物


近代資料として「蚕と桑からの産物」の掛図(複製)パネルを展示しています。
これは、上田蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)の授業で使われた掛図です。
養蚕や製糸の専門科目で用いられたものだと思われ、大変緻密に描かれています。
図の枠の下部には「Ueda Imperial College」の表記があり、特注品として教官と業者・職人が協働で作り上げられたことがうかがえます。
図をたどっていくと、蚕と桑が様々なものに利用できることを改めて理解できます。
それぞれの絵の下部には英語で名称が記されています。日本語は一切使われていません。
当時の養蚕業・製糸業によって生産された製品が世界に流通していたことから、上田蚕糸専門学校では英語を用いた国際的な授業をおこなっていたと考えられます。



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展示期間:平成31年4月~

南関東の赤い土器

東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)
東京都立田園調布高等学校内遺跡出土弥生土器
(大田区立郷土博物館蔵)

弥生時代後期(約1,800年前)、長野県北半部の千曲川流域では、赤い壺や高坏などが流行します(箱(はこ)清水(しみず)式土器)。県南の天竜川流域に比べ赤い土器がひじょうに多いことから、この地域を「赤い土器のクニ」と呼ぶことがあります。
県外にも赤い土器があり、今回、南関東の赤い壺(久ヶ原(くがはら)式土器)を東京都大田区立郷土博物館からお借りしました。展示室で両地域の土器を比べてみましょう。例えば、模様に注目してみると、箱清水式土器では櫛のような道具で直線や波線を描いています。一方、久ヶ原式土器には縄文が使われています。さらによく観察するとさまざまな違いが発見できることでしょう。この時代、それぞれの「おクニ」で土器の顔つきも違っていたのです。
ちなみに箱清水式土器の赤色はベンガラ(酸化第2鉄を精製)を使っています。



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屋代木簡の世界

15号木簡保存処理後
15号木簡保存処理後

開催期間:平成30年9月~

 1994年の発掘調査で千曲市屋代遺跡群の流路と溝から、飛鳥から奈良時代の木製祭祀具や木簡を含む大量の木製品が出土し、その後全て当館で保存処理が行われました。特に木簡130点は長野県宝に指定され、代表的な資料については、木簡を廃棄する際の刃物の痕跡も含め、非常に精巧な複製が行われています。また、人形、蛇形、馬形等の木製の形代は様々な願いを込めて流路等に実際に流された実物資料であり、水辺の祭祀の実態を今に伝えてくれます。今回はこのうち信濃国司が更科郡司等に下した「国符木簡」(複製)や形代の代表的な資料を展示し、屋代遺跡群木簡の世界を描き出します。

【主な展示資料】
・長野県宝〔複製〕木簡
・屋代遺跡群15号木簡(国符)、81号木簡(九九算)
・木製祭祀具 人形、蛇形、馬形、刀形、斎串



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展示期間:令和元年10月~

大塔合戦

大文字の旗
大文字の旗

【小笠原氏と国人】 
 小笠原氏は鎌倉時代甲斐国小笠原荘に所領を得た長清を祖とします。鎌倉時代に信濃国ともののしよう伴野荘(佐久市)を得てから信濃国に足がかりをつくります。南北朝時代以後、信濃国の守護となった家柄です。
 おおとうかつせん大塔合戦(1400年)は、信濃支配を強めた小笠原長秀に対する国人(じざむらい地侍)衆の反発が原因と言われます。長秀は国人の頑強な抵抗を受け、長秀はほうほうの体で京へ逃げ帰り、守護職をも解任される、という事態に至ったのです。守護が地元の衆から追放される、という出来事は前代未聞でした。この戦いは単に守護を国人が追いだした、という意味を持つだけではありません。大塔合戦は室町幕府と鎌倉府の対立とその後の関東における内乱のはじまり、そして応仁の乱へと続く全国内乱への序章とみるのが現在の通説となっています。

【大塔合戦】
 信濃の国人たちは、横のつながり(一揆)の連合組織をつくり長秀に対抗します。これをだいもんじいつき大文字一揆といいます。「大文字の旗」は、もともとこうさか香坂氏のぼだいじ菩提寺であるまきのしま牧島のこうぜんじ興禅寺(長野市信州新町)にあったものです。この旗は大文字一揆の旗印として伝えられています。原本は江戸時代以降のある時期に大日方家に伝わり、その後歴史館に寄贈されました。平成9年には全国でもきわめて珍しい国人一揆の旗として県宝に指定されています。



展示期間:平成31年4月~

中山道長窪宿高札にみる江戸時代の輸送

中山道長窪宿高札(当館蔵)
中山道長窪宿高札(当館蔵)

 街道の風景のコーナーでは、長和町にある中山道長窪宿(長久保宿)に掲げられていた高札を展示しています。幅178.4㎝、高さ47.2㎝、厚さ5.2㎝、重さ21.5㎏もある重厚な高札で、正徳元年(1711年)に幕府から宿駅(宿場)に設置された問屋(といや)(輸送に関わる人馬の調整役)に出された覚(通達)が記されています。内容は、①馬一疋(匹)が運ぶ荷物の重量は約150㎏、人ひとりが運ぶ荷物の重量が約19㎏と、運ぶ荷物の重量規定②宿駅に常備する人馬は25人25疋に限るなど、街道で利用できる人馬数の規定③人員と馬の料金における罰則などです。
 江戸時代には徳川家康によって全国に拡充された伝馬制度(公用の荷物輸送制度)により公用・私用の荷物輸送が次第に盛んになっていきます。そのなかで、荷物の過積載や人馬供出の負担による人々の疲弊や料金の不正徴取など荷物輸送に関わる問題が発生しました。この状況下で出されたのが今回の高札に書かれた通達でした。重厚で立派な高札からは、輸送者の疲弊や不正を考慮しながら伝馬制度を維持しようとした幕府の姿勢を感じ取ることができます。



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展示期間:平成31年3月~

蚕と桑からの産物


近代資料として「蚕と桑からの産物」の掛図(複製)パネルを展示しています。
これは、上田蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)の授業で使われた掛図です。
養蚕や製糸の専門科目で用いられたものだと思われ、大変緻密に描かれています。
図の枠の下部には「Ueda Imperial College」の表記があり、特注品として教官と業者・職人が協働で作り上げられたことがうかがえます。
図をたどっていくと、蚕と桑が様々なものに利用できることを改めて理解できます。
それぞれの絵の下部には英語で名称が記されています。日本語は一切使われていません。
当時の養蚕業・製糸業によって生産された製品が世界に流通していたことから、上田蚕糸専門学校では英語を用いた国際的な授業をおこなっていたと考えられます。




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