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「楽しいイベント」やります! 森将軍塚まつり・11月3日(土・祝)は入館料無料!

イベント

森将軍塚まつりが11月3日(土・祝)に科野の里歴史公園(千曲市屋代)において開催されます。県立歴史館では、次のイベントを企画しておりますので、ぜひお出かけください。なお、当日県立歴史館は観覧料を無料としております。
■まが玉をつくってみよう!(雨天時には中止になる場合があります)
時間  ※各回開始30分前より先着順で整理券を配布します。
     10:00~11:30
     11:30~13:00
     13:00~14:30
     14:30~16:00
場所  県立歴史館屋外東側・特設会場
材料費 まが玉キット 200円
■プラ板マスコットづくり
時間  10:30~15:00(受付終了14:50)
場所  県立歴史館1階 エントランス
材料費 1枚 100円
■ 縄文人になろう!
時間  10:00~15:00
場所  県立歴史館2階 常設展示室入り口 
■ 黒曜石展関連イベント
○ 葦木ヒロカさん「黒耀石の世界」コンサート
時間  13:10~13:45
場所  森将軍塚まつり野外ステージ
○ トークショー
時間  14:00~15:00
場所  県立歴史館講堂
※くわしくはチラシPDFファイルをご覧ください。お問い合わせは、026-274-3991(総合情報課)まで。

「楽しいイベント」やります! 森将軍塚まつり・11月3日(土・祝)は入館料無料!
[ 2018-10-19 ]

コッキー、ヨッキー、セッキーがお待ちしています。

お知らせ

当館では、秋季企画展「最古の信州ブランド黒曜石-先史社会の石材獲得と流通-」を11月25日(日)まで開催中です。今年5月に日本遺産に認定された「星降る中部高地の縄文世界-数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅-」の構成文化財も展示しています。ぜひご覧ください。
この企画展に伴い、黒曜石の石器をモチーフに当館オリジナルキャラクター「コッキー」「ヨッキー」「セッキー」が登場。1階受付のミュージアムショップでは、オリジナルカンバッチを販売しております(1つ100円)。10月20日(土)の国際交流子どもサミットや21日(日)の国際シンポジウムに合わせて、英語バージョンもご用意しております。当館にお越しの際はぜひお買い求めください。

コッキー、ヨッキー、セッキーがお待ちしています。
コッキー、ヨッキー、セッキーがお待ちしています。
[ 2018-10-17 ]

新・旧県宝のそろい踏み~縄文時代の動物装飾付釣手土器~

お知らせ

 9月、主に諏訪地区の縄文土器158点が「信州の特色ある縄文土器」として県宝に指定されました(9月27日告示)。新たに県宝になった土器は、各市町村の博物館などでみることができます。
 これにあわせて当館常設展示室では、諏訪市穴場遺跡の動物装飾付釣手土器(複製品)を新たに登場させました(写真左)。縄文時代中期(約5,000年前)、ヘビ?を思わせる装飾が3匹、香炉の釣手の上に乗っています。また、器の両側の縁では2匹がとぐろを巻いています。すでに県宝になっている富士見町札沢(ふださわ)遺跡出土品(約5200年前:当館蔵:写真右)と並んで展示しました。
 札沢例は、器全体がとぐろを巻く親ヘビと見ることも可能です。そこへ、三角頭の子ヘビ?(ツチノコのような形)3匹が上端に並んで乗っており、最後の一匹が下から登って来る途中のようにみえます(1枚目写真)。最後の一匹は、2枚目の写真と同じ角度でみると、器の向こう正面にちょうど顔がのぞき、4匹そろってこちらを見ているように配置されています。縄文人の絶妙でオシャレな感性を味わってみてください。
 一方、時期が新しい穴場例は、釣り手部分の装飾が華美になります。札沢例では三角頭だったヘビ?が、鼻先の平らな何者かに変化しています。体の装飾も派手で、ドラゴン?あるいはイノヘビ?(イノシシとヘビが合体?)へ進化したように感じられます。
 みなさんはどんな動物、精霊を想像されるでしょうか。常設展示室で、両者の変化をじっくりと見比べてみてください。

新・旧県宝のそろい踏み~縄文時代の動物装飾付釣手土器~
新・旧県宝のそろい踏み~縄文時代の動物装飾付釣手土器~
[ 2018-10-11 ]

古文書公開日記15-軍馬を送る-

お知らせ

 1937(昭和12)年に「久保田俊彦先生追悼謝恩会」が開催されました。久保田俊彦の名を聞いて、上諏訪村角間(諏訪市)出身の歌人島木赤彦の本名と分かる方はきっと短歌をたしなまれる人ではないでしょうか。しかし島木赤彦13回忌の記念事業で、追悼短歌が広く募集されたことはあまり知られていないでしょう。短歌の選者は、正岡子規の門下であり赤彦とともに結社「氷むろ」(のち「比牟呂」)を立ち上げた森山汀川(諏訪郡落合村出身)です。今回整理したのは、森川が選者となった赤彦追悼のために投稿された100通以上の葉書(短歌)です(3-28 森川汀川蔵島木赤彦追悼短歌)。アララギ派歌人ゆかりの富士見野公園(富士見町)に追悼歌碑を建立することが発議され、昭和12年10月24日に信濃教育会・諏訪教育会と合同で挙行されました。この事業の賛同者は、北は北海道はいうまでもなく樺太、南は南洋諸島・南米、大陸には中国・満州、朝鮮、台湾からと幅広い地域の賛同者がありました。赤彦や汀川が教員だったことも反映して県内小学校教員の投稿も目立っています。
 面白いのは投稿された短歌が時局の世相を反映したものが多いということです。とくに同年7月の日中開戦直後でもあることから、「馬廠陥落」「石家荘占拠」といった戦争関連の題が多くみられ当時の世相を伝えています。
 写真の題は「秋日和この頃つづき献納の 馬糧の草のよく乾きたり」です。良質の馬の多い信州からは多くの軍馬が徴用され大陸へ送られました。その様子がよく分かる歌ではないでしょうか。

古文書公開日記15-軍馬を送る-
[ 2018-10-06 ]

ウーリーちゃんを捜せ ~ライバル現る?~

お知らせ

 一昨年から、常設展示室の阿久ムラに居ついたイノシシの幼児“ウーリーちゃん”。ムラの周囲に広がるススキの原をウロウロしていたら、なにやら、今まで阿久ムラでは会ったことのないお友だちと遭遇。
 さて、この後ろ姿(左写真)は?
 良く見ると、工事休館前まで、竪穴建物の柱につり下げられていた野ウサギ(右写真)ではありませんか。縄文人に捕まって食べられてしまう寸前!という設定で長年展示されていましたが、来館者に「ホンモノ?」「(つり下げられていて)かわいそう」「毛がふわふわ」などと言われ、なでられ・いじられ・引っ張られ、回されたりして、痛々しかったので野に放ってあげました。
 なんとなく、ウキウキしているように見えますが・・・いかがでしょう。
どこにいるのか、常設展示室で探してみてください。愛称もつけてあげてください。

ウーリーちゃんを捜せ ~ライバル現る?~
ウーリーちゃんを捜せ ~ライバル現る?~
[ 2018-09-20 ]

古文書公開日記14-信濃の桶茶-

お知らせ

 昨年寄贈を受けた伊那郡石曽根村(現在の飯島町)飯島家文書のなかに面白い史料がありました。タイトルは「七十之日記」です。江戸時代後期の飯島家の当主為仙(ためのり)が七十歳になる文政九(一八二六)年の正月に思い立って書き始めた日記です。日々の記録の中に、跡取りや、飯田に住む娘と孫娘たちとの交流を書き記しています。特に注目したいのは、七十歳の為仙が、すでになくなってしまった風習や言葉遣いなどを懐かしみ、しばしば記録に残していることです。例えば、こんなくだりがあります。「(文政九年七月十八日)我が若かったころは午前10時ごろと午後2時頃、耕作に出た男どもが田畑の畦に打ち寄せあい休んでいると女の人が柴茶をこく煎じてきて、小さい茶振り桶を携えてそこにお茶を汲み大きな茶筅で泡をたて、茶碗にこぼれるほど入れたものを2・3杯ずつ飲んだものだ。家の中でもこのように汲んでいたのを五十年ほど前にこの風習はなくなってしまった。信濃の桶茶といって他国にも知られていたが、この里だけでなくよそでも絶えてしまったそうだ」という文章から、南信地域には桶茶と呼ばれるものがあったようです。これは、抹茶ではないが、煎茶を茶筅でかき回して泡を立ててそれをいただいたものだということが分かります。
 この文章から南信地域には、茶筅で大きな桶を振りまわして泡をたてるお茶があったことを知ることができます。一般にこのようなお茶を「振り茶」といいます。「振り茶」といえば、ソフトクリーム状に盛り上がった、沖縄の伝統茶「ぶくぶく茶」を思い出します。
 『長野県史』民俗編によると、南信とくに飯田より南の地域には「お茶を食べる」という方言があったことが分かります。信濃の「桶茶」と「お茶を食べる」。関係があるのかないのか、大変興味をそそられます。

古文書公開日記14-信濃の桶茶-
古文書公開日記14-信濃の桶茶-
[ 2018-09-17 ]

古文書公開日記13-松本藩鷹待役と青木昆陽-

お知らせ

 先日、県外の古書店から松本藩の鷹待(たかまち)に関わる家の史料約70点を購入しました。鷹待とは鷹の巣のある山から鷹を捕獲する役で、殿様の免許がいる職でした。捕獲した鷹を調教し殿様の鷹狩りに伺候するのが鷹匠(たかじょう)です。今回はその整理のなかで見つかった1通の嘆願書を紹介しましょう。
 松本藩領安曇郡小室(おむろ)村(現在の松本市梓川)の左五兵衛の家は小笠原秀政の時代に鷹待免許の朱印状を拝領して以来、先祖代々その役を勤めた家柄だったといいます。ところが、寛政のころ与惣右衛門は同村で同役を仰せつかっていた与惣右衛門と口論となり、その後なぜか左五兵衛の家の免許が取り消されてしまったという事件が起きました。
左五兵衛はかつて、1741(寛保元)年に幕府御書物御用達の青木昆陽(文蔵)が信州へ古文書調査をおこなった際に、先祖の朱印状を文蔵に渡したと述べています。そして昆陽は江戸へこれを持参しています。ちなみに青木昆陽といえばサツマイモの栽培で有名ですが、昆陽は将軍吉宗の命で全国の古文書の収集・調査に当たったアーキビストの先駆者です。
左五兵衛はこの嘆願書のなかで、自分の家が鷹待役であるという経歴は、昆陽はおろか、「御上様御存被遊」と将軍まで知っていることなのに今回その役目を取り上げられるのは心外だ、と述べています。この嘆願書は、不当な決定をなんとか覆していただきたいという訴えを村役人を通じて上申したものなのです。
 なお、昆陽が借用した朱印状なのですが、昆陽が調査史料を編集した史料集「信州古文書」には残念ながら掲載されていません。『信濃史料』(巻22、8頁)にはそれと思われるものが翻刻されていますが、今回購入した文書のなかには含まれていません。
これらの文書70点は整理が終わり次第、公開の予定です。

古文書公開日記13-松本藩鷹待役と青木昆陽-
[ 2018-09-14 ]

河童だより13 河童のモデル「すっぽん」

お知らせ

 江戸時代にはさまざまなタイプの河童の絵が描かれていますが、多くの河童には背中とお腹に甲羅がついています。しかし、描かれた河童の甲羅には、亀甲模様があまり見られません。このことから、甲羅も皮膚で覆われているスッポンの姿が大きく影響していると思われます。スッポンは、もともと日本に生息していたカメの一種です。「和漢三才図会」(1712年)に登場するスッポンは、中国の川の神である河伯に仕えている存在とされています。水の神と深い関係がある河童とも通じるものがあります。このようなことからもスッポンの姿が河童の姿のモデルとされたのかも知れません。

河童だより13 河童のモデル「すっぽん」
すっぽん(和漢三才図会より)
[ 2018-07-19 ]

河童だより12 河童ほど有名になれなかった「山童」

お知らせ

 河(川)に住む子どものような生き物なので「河童」という呼び名がついたとも考えられていますが、山に暮らす子どものような生き物である「山童(やまわろ)」が「和漢三才図会」(1712年)に紹介されています。山童は、九州の山奥にいて、姿は10歳くらいの子どものようで、全身に柿褐色の細い毛が生えています。足が長く、腹が短い、人の言葉を話す、食べ物を与えれば喜んで食べ、手伝いをし、力は強いなどと紹介されています。子どものような大きさで、全身が毛に覆われている点などは「和漢三才図会」の河童(川太郎)の絵に共通する部分がたくさんあります。しかし、残念ながら山童は河童ほど有名にはなれませんでした。山よりも水との結びつきの方が強かったからなのかも知れません。

河童だより12 河童ほど有名になれなかった「山童」
山童(和漢三才図会より)
[ 2018-07-17 ]

河童だより11 中国の河童?「水虎」

お知らせ

 「河童」のことを「水虎(すいこ)」と呼ぶ場合もあります。本来の水虎は中国の川に生息する想像上の動物で、日本の河童とは違うものと『和漢三才図会』(1712年)には書かれています。「大きさは3、4歳の子どもほどで、全身が鯉のような鱗に覆われて固く、矢も刺さらない。膝に虎の爪のようなものがあり、水の上に出している。これに、子どもが悪戯をするとかむ」と紹介されています。子どものような大きさであったり、水中に生息していたり、河童の仲間と思われたのか、中国の文化への憧れからなのか、江戸の知識人は、河童のことを好んで水虎と呼んでいました。

河童だより11 中国の河童?「水虎」
水虎(和漢三才図会より)
[ 2018-07-15 ]

河童だより10 河童だけではない不思議な生物−信濃奇勝録−

お知らせ

 『信濃奇勝録』(全5巻)は、江戸時代末期に、佐久郡の井出道貞が信濃国各地を調査した結果をまとめたものです。残念ながら河童は登場しませんが、不思議な生き物がいくつも紹介されています。
 一巻には、いわゆる「つちのこ」が「野槌(のつち)」として紹介されています。木曽の馬籠と妻籠と間の山中に、8月頃時々出現するされ、形は「蛇の如く中太らか」とあります。大きなものは「長さ一尺二三寸太さ一尺廻り」と書かれおり、「敢て害をなす事なしといへり」とあることから、毒はなくマムシのように危険なヘビとは考えていなかったようです。
 三巻には立科山(蓼科山)に生息する雷獣(らいじゅう)が紹介されています。「この山に雷獣ありて住む故に雷岳という。その姿は子犬のようで、毛はムジナに似て、目のまわりは黒い。鼻つらは細く、下唇が短く、尾も短い。足の裏は皮が薄く、小児の足のようだ。つめは5本あってワシのようであり、冬は穴を掘って土中に入るので、千年モグラとも呼べる。常には軟弱にして人にもなれ、雨が降ろうとするときは勇ましく、接することが難しい」とあります。人になれる子犬のような姿には、恐ろしい幻獣のイメージは見られません。

河童だより10 河童だけではない不思議な生物−信濃奇勝録−
野槌(信濃奇勝録より)
河童だより10 河童だけではない不思議な生物−信濃奇勝録−
雷獣(信濃奇勝録より)
[ 2018-07-13 ]

河童だより9 不思議の国 信濃

お知らせ

 佐久郡の瀬下敬忠が1753(宝暦3)年に著した『千曲之真砂』には「信濃の国は板東一高き国なり、甲斐よりものぼり、越後よりものぼる、美濃よりものぼるといへり」「この国外より流れ入る水無し、近国の大河、この国を川源とす」と書かれています。信濃には高い山が連なり、そこから流れる水は、やがて大河となって他国を潤すようになります。現代の長野県に対しても、同じようなイメージを持つ人は多いのではないでしょうか。
 日本中の不思議を集めた江戸時代の番付「大日本国中ふ志ぎくらべ」には、行司として「戸隠山」、頭取として「善光寺」があります。また、番付順に「諏訪郡すわ湖の氷」「妻子ははき木」「戸隠山九頭竜神供」「小県郡浅間山のけむり」「諏訪者釘なしの回廊」「水内郡善光寺の通夜」「善光寺りう燈」「戸隠山拝殿ばかりの社」「諏訪毎日雨のふる処」「諏訪社すわの塔のかげ」「犀川まがりばし」「「木曽かけはし」「ねづみ足のつく人」の13箇所が紹介されています。これは、奥州、武州に続いて3番目の多さです。江戸の人びとにとって山深い信濃は、神秘的なイメージがあり、不思議な魅力を感じさせる場所でもあったようです。
 芥川龍之介の小説「河童」や水木しげるのマンガ「河童の三平」に出てくる河童の世界が長野県を舞台にしていることにもつながっているのかも知れません。

河童だより9 不思議の国 信濃
大日本国中ふしぎくらべ 江戸時代 1846(弘化3)年 当館蔵
[ 2018-07-11 ]

河童だより8 河童の妙薬「加減湯」長野県駒ヶ根市に残る河童伝説

お知らせ

 山がちな長野県内では、いくつもの谷筋に水が流れ、人びとは水と深く関わりながら生活をしてきました。そこに情報の広まりとともに河童が入り込み、多くの河童伝承が誕生しました。
 現在の駒ヶ根市の東伊那地区には、次のような伝承が残ります。昔、太田切川が天竜川に合流し、天竜川東岸に突き当たる地点に「下り松の淵」と呼ばれる淵がありました。そこへ、高遠藩の川奉行である中村新六が見回りのため、馬に乗って通りかかりました。河童は馬のシリコダマが大好物です。たまらず馬に飛びつき水に引き込もうとしましたが、驚いた馬が走り出しました。馬のしっぽの毛に絡まってしまった河童は、必死で抵抗しましたが、馬の力にはかなわず、新六の屋敷の馬小屋まで連れてこられてしまいました。捕らえられた河童は「二度とこのような悪戯はしません。お詫びに痛風の薬の作り方をお教えします」と必死に訴えました。河童をかわいそうに思った新六は、河童を許してあげました。河童は屋敷の裏にある池で暮らしながら、約束通り痛風薬の作り方を教え、中村家では戦前まで痛風薬「加減湯」の製造・販売を行っていたそうです。

河童だより8 河童の妙薬「加減湯」長野県駒ヶ根市に残る河童伝説
「つうふうの妙茶」内包紙下書 天竜かっぱ広場おもしろかっぱ館蔵
河童だより8 河童の妙薬「加減湯」長野県駒ヶ根市に残る河童伝説
薬研 天竜かっぱ広場おもしろかっぱ館蔵
[ 2018-07-09 ]

河童だより7 河童とニホンカワウソ

お知らせ

 「河童」という文字の初出は、室町時代の国語辞典『下学集』と言われています。「獺(カワウソ)」の説明として「獺老いて河童という者になる」とあります。カワウソが老いると河童になると考えられていたようです。長野県内では、河童のことを「カワウソ」と呼んでいた地域もあり、カワウソが河童のモデルの一つなのかも知れません。
 ニホンカワウソは、かつて日本全国に生息していましたが、乱獲と開発によって生息数が激減していきました。ニホンカワウソの冬毛は緻密な毛が密集して生えており、保温性に優れ、防寒着としての需要が高く、高価な価格で取引されていたようです。
 昭和の初め頃には狩猟が禁止となりましたが、その後も減り続け、1965(昭和40)年には特別天然記念物に指定されます。1979(昭和54)年6月に高知県で目撃されたのを最後に国内での目撃情報は途絶えます。ついに2012(平成24)年には絶滅種に指定されています。
 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」に展示しているニホンカワウソの剥製は、新潟県柏崎市周辺で捕獲されたものと思われます。この個体はまだ子どもで夏毛です。状態がよく、水辺に生息していた当時の姿をそのまま残しています。泳ぎがうまく、滅多に見ることができなかったニホンカワウソは、当時の人にとって河童と同じような不思議な存在だったのかも知れません。

河童だより7 河童とニホンカワウソ
ニホンカワウソ剥製 柏崎市立博物館蔵
[ 2018-07-07 ]

河童だより6 捕獲・目撃された河童たち

お知らせ

 江戸時代に入ると本草学者たちにより、実在する生き物として河童が紹介されていきました。河童が実在する生き物ならば、捕獲されたり目撃されることもあるはずです。という訳で、さまざまな場所で捕獲・目撃されたとする河童の記録が当時の文献に見られます。長野県内では、伊那郡を中心として奇談が収められている『信濃奇談』に、天正(1573〜1592年)の頃に、羽場村(現在の辰野町)で捕らえられた河童について記述があります。天竜川のほとりに放しておいたウマを河童が川に引きずり込もうとしますが、ウマが暴れ、河童は引きずられて人間に捕まってしまいます。馬屋の柱に縛り付けられた河童を親切な人が逃がしてあげると、その恩に報いるため、川魚などを戸口に置いていくようになったという話です。
 「水虎十式品之図」には、各地で捕獲されたり目撃されたりした河童が描かれている刷り物(印刷物)です。カメに似た河童だけでなく、人やサルに似たものなどその姿は様々です。このような河童の情報は、印刷物となることでさらに多くの人びとの間に広まっていくことになります。

河童だより6 捕獲・目撃された河童たち
水虎十式品之図 江戸時代 1855(安政2)年 国立歴史民俗博物館蔵
河童だより6 捕獲・目撃された河童たち
信濃奇談 江戸時代 1829(文政12)年 当館蔵
[ 2018-07-05 ]

河童だより5 人気商品です。

お知らせ

 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」(7月29日まで開催中)にちなみ、カプセル・トイもニューバージョンが登場しています。「葛飾北斎浮世絵立体図録」です。葛飾北斎の絵が立体作品となったものです。一番人気は、やはり「河童」です。水辺で膝を抱える河童は、さみしそうでもあり、悟りを開いたようでもあります。当館来館の折にはぜひ挑戦してみてください。
 また、当館のミュージアムショップでは、夏季企画展オリジナルのマグネットを販売しています。クリップがついており、工夫次第でいろいろな使い方ができそうです。一つ100円と手ごろな価格も魅力です。また、同じくミュージアムショップでは、夏季企画展図録「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」も販売しています。夏季企画展の展示物の写真や説明だけでなく、豊富なコラムで、人の水への意識の変化と河童との関わりをわかりやすく解説してあります。期間中に売り切れてしまうこともありますので、お早めにお買い求めください。

河童だより5 人気商品です。
カプセルトイの「河童」
河童だより5 人気商品です。
オリジナルマグネット
[ 2018-06-30 ]

河童だより4 河童登場!

お知らせ

 江戸時代に入ると、いよいよ河童の活躍が始まります。水を制御する技術が進むと、水への畏れが薄らぎ、河童が誕生します。最初に「河童」という言葉が現れたのは室町時代の辞書である「下学集」と言われていますが、河童を実在する生き物として世に広めていったのは、江戸時代の本草学者たちでした。本草学とは、もともと中国で生まれた医薬に関する学問でしたが、日本に伝わると、対象を広げ、博物学として発達していきました。本草学者は、百科事典としての本草書を作成する中で、それまで各地に伝わっていた伝承をもとに、河童がどのような生き物であるのかを追究していったのです。そこには、現代の河童のイメージにつながる特徴も記されています。
 江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には、河童が「川太郎(かはたろう)」と紹介されています。西国、九州の谷間、池、川に多く生息し、10歳くらいの子どものようで人の言葉を話す生き物とされ、頭に皿があり、水がなくなると力が出なくなると記されています。また、全身が毛で覆われた「川太郎」の図が紹介されています。描かれた河童としては初期のものと思われます。背や腹には甲羅が見られず、どちらかというと、サルに近い風貌になっています。
 実在する生き物として扱われていた河童なので、この後、捕獲・目撃された河童たちがつぎつぎに登場していきます。

河童だより4 河童登場!
『和漢三才図会』に紹介されている「川太郎」
河童だより4 河童登場!
和漢三才図会 1712(正徳2)年
[ 2018-06-28 ]

河童だより3 河童はウマが大好き!

お知らせ

 河童の大好物といえば「キュウリ」を思い浮かべる方が多いと思いますが、他にも「シリコダマ(肛門の奥にあるといわれる架空の臓器)」や「相撲」、「ウマ」が文献や伝承に登場します。
 県内に数多く残る河童の伝承の中で、最も多く登場するが「ウマ」です。河童はウマを見ると、飛びついて水に引き込もうとします。ほとんどの場合は失敗し、人間に捕まってしまうので、成功率は低いと思われますが、それでも飛びついてしまうのです。
 柳田国男をはじめとする多くの民俗学者が、河童の正体は水神が零落したものであると唱えています。かつて、水神に対する信仰は厚かったのですが、信仰が薄らぐ中で水神は河童へと零落したというものです。その根拠の一つが河童が馬を水に引き込む「河童駒引」です。水神へウマを供えていた習慣のなごりが、河童駒引きへとつながっているというものです。
 今回の展示では、河童が登場する江戸時代以前の人と水との関わりがわかる考古資料も展示しています。その中の一つが水辺の祭祀用のお供えと考えられる「ウマ下顎骨」(飛鳥時代 千曲市屋代遺跡群出土 当館蔵)です。大切なウマをお供えするわけですから、それだけ水に対する思いも強かったことが予想できます。河童が本格的に登場するのは江戸時代以降ですが、それ以前の人と水との関わりについての展示も、河童につながる興味深いものになっています。夏の企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」は7月29日(日)まで開催しております。ぜひお越しください。

河童だより3 河童はウマが大好き!
ウマ下顎骨 飛鳥時代 千曲市屋代遺跡群出土
河童だより3 河童はウマが大好き!
河童駒引イメージ
[ 2018-06-26 ]

河童だより2 河童の顔出しパネルがお待ちしています!

お知らせ

 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」では、河童が活躍し始める江戸時代以降の資料だけでなく、河童が誕生する前の人と水との関わりに関する考古資料など、100点以上を展示しています。資料をじっくり見ていただき、人と水との関わりを象徴する河童の姿を感じ取っていただければと考えています。しかし、見どころは企画展示室の中だけではありません。展示室前には、河童の顔出しパネルが皆さんをお待ちしています。リアルな河童の姿に一瞬とまどいを感じるかも知れませんが、観覧者のみなさまには好評で、連日多くの皆さんが撮影をされています。パネルの背景には、水をイメージした青いシートが敷かれています。
 ぜひみなさんも、夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」にお越しいただき、河童と出会ってください。

河童だより2 河童の顔出しパネルがお待ちしています!
[ 2018-06-21 ]

河童だより1 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」がはじまりました。

お知らせ

 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」が6月16日(土)より開催されています。オープニングでは、河童が薬の作り方を教えてくれた伝承が残る駒ヶ根市の本多教育長様と長野県教育委員会の原山教育長、当館の笹本館長がテープカットを行い、7月29日(日)までの展示がスタートしました。午後には、関西学院大学教授の西山克先生による講演「妖物の誕生」があり、展示と合わせ、大勢のみなさまにご参加いただきました。
 はっきりとしない梅雨空が続きますが、こんな天候こそが「河童日より」です。ぜひ、当館夏の企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」にお出かけください。

河童だより1 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」がはじまりました。
河童だより1 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」がはじまりました。
[ 2018-06-19 ]

夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」 6/16(土)〜7/29(日)

お知らせ

平成30年度夏季企画展
君は河童を見たか!−水辺の出会い−
開催期間:平成30年6月16日(土)〜7月29日(日)

 水は人にとって必要不可欠である一方、災いをもたらす原因でもありました。そのため、水と人の接点となる水辺は、生産の場であると同時に祈りの場でもありました。やがて水を制御できると考えはじめると、圧倒的な力を持つ神ではなく、河童が姿を現します。
 水辺に暮らす河童は、人が暮らす世界と水の世界を往き来し、人に幸を運んできたり、あるいは恐怖を与えてきたりしました。そして、人に寄り添いながら、時代とともに立場を変えていきます。
 本展示では、各時代における河童のイメージを通して、人の水に対する意識の変化を示します。そのことを通して、県内の水にまつわる景観を再認識し、河童ともども水辺への関心が高まることを願います。

○求む!河童情報 メール rekishikankappa@outlook.jp まで

○主な展示史資料
・「蛙状装飾付有孔鍔付土器」中越遺跡出土 縄文時代中期 宮田村教育委員会蔵
・「銅鑵子」長野市松代町大鋒寺蔵
・「寛永年中豊後肥田ニテ捕候水虎之図」 川崎市市民ミュージアム蔵
・「河伯手(河童の手)」 江戸時代 個人蔵
・月岡芳年「錦絵 和漢百物語 白藤源太」 江戸時代 国立歴史民俗博物館蔵
・「『つうふうの妙茶』内包紙下書」 天竜かっぱ広場おもしろかっぱ館蔵
・小川芋銭「河童百図第六十五図 カッパ」昭和12年 牛久市蔵

○講演会「妖物の誕生」
6月16日(土) 13:30〜15:00
講師:関西学院大学文学部教授 西山 克 氏

○関連講座
7月14日(土) 13:30〜15:00
「河童が登場するまで−水と人との関係史−」
講師:寺内隆夫(当館職員)
「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」
講師:溝口俊一(当館職員)

夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」 6/16(土)〜7/29(日)
「銅鑵子」長野市松代町大鋒寺蔵
夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」 6/16(土)〜7/29(日)
夏季企画展ポスター
[ 2018-05-17 ]

古文書公開日誌12 書判と印判の「判物」

お知らせ

5月の連休も終わり、日常生活に戻りました。古文書整理作業もこれからも順調にすすめていきます。
 さて、当館に収蔵される古文書はどういうルートではいってくるかご存知ですか。
 1つは書店から購入する方法です。各月、県外の古書店から「古書目録」が送付されてきます。そのなかで県内関係の古文書をピックアップします。場合によっては、該当する市町村の担当の方に情報を提供し状況を共有しています。
 第2は寄贈・寄託というルートです。個人の所有者の方から寄付されるものが「寄贈」、緊急避難的に史料をお預かりするのが「寄託」。とくに近年では、土蔵を壊した際に古文書が保管できなくなったというお話もたびたび耳にします。「古いものだから」といって焼却したり、ごみとしてしまうと、ご先祖様の大切な記録が永久に失われます。そんなときなどお困りのことがありましたら、捨ててしまう前に当館までご一報いただければ幸いです。地元の教育委員会様と連携しながら適切な解決方法が見出せればと思います(ただし収蔵スペースの問題もあり当館でのお引き受けを確約するものではありませんが)。
 さて5月には飯田藩士杉本家文書(寄託史料)を整理しました。
 系譜によると、杉山家はもともと烏山藩(栃木県)初代堀親良に仕官したといいます。堀家御普請奉行・代官を勤め、その後堀家が飯田に転封になって飯田藩士となった家です。最後は300石高の知行取でした。
 藩士の家の史料は、様ざまな書簡や知行証文、借用証文、家の芸能書(故実書)など多様な史料で構成されています。しかし本史料群には、系譜および歴代藩主より与えられた知行判物しか残っていません。ある段階で家の重要書のみが分けられそれ以外は散逸したのでしょうか。
 この史料は飯田藩主のうち初代を除く代々の藩主からの判物が含まれています。判物とは、将軍や藩主の花押の据えられた文書で知行の給与がおこなわれるものです。また本史料群には同じ家に対して黒印状による知行安堵も見られます。書判の「判物」と印判の「判物」の差は、前者が重臣ランク、後者はそれ以下の武士対象、という言わば「家格の高低」の差によるとされます。杉本家はその中間にあったランクの家といえるのでしょうか。

古文書公開日誌12 書判と印判の「判物」
元文3(1738)年 堀親蔵判物
[ 2018-05-09 ]

ナウマン君復活!

お知らせ

 常設展示室入口のナウマン君(ナウマンゾウのオス模型)が復活しました。
 22歳を過ぎた頃から体調をくずし、首を振ってごあいさつできなくなっていました。この春、二度目の手術が成功し、ようやく元気になりました。春先に見学に来てくれた人たちから「動かなくて残念だな」という声をたくさんいただきましたが、もう大丈夫です。今まで以上に大きく首を振ってごあいさつできるようになりましたので、みなさん、会いに来てください。
 また、縄文時代の竪穴住居の中で、縄文人に捕まって吊されていた、という設定だったキジが移動しました。お気づきになったでしょうか。今年度は自由の身になって、阿久ムラの中のとある場所で、活き活きとムラの様子をうかがっています。どこに居るか探してみましょう。また、一昨年からムラの中をうろうろしているウ〜リ〜ちゃん(イノシシの幼獣=うり坊)も健在です。縄文時代のムラは、動物たちが出入り自由な空間だったことを感じていただければ幸いです。
 ウ〜リ〜ちゃんは、今年度も居場所が時々変わりますので、楽しみにしてください。どこに行ったかは、時々、このブログでご報告します。

ナウマン君復活!
ナウマン君復活!
[ 2018-05-05 ]

古文書公開日記11−宝寿院殺人事件−

お知らせ

 平和な江戸時代の農村。しかし突然、村中を揺るがす事件が起こることもあります。埃だらけの文書のなかから、突如殺人事件の記録が出てきました。
 ときは1724(享保9)年9月。小県郡のある村で事件は起こりました。9月14日の夜半、手塚新町村(上田市)在住の六兵衛がこの村の住民によって不意に打ち殺されたというのです。早速取調がおこなわれました。山伏の宝壽院という下手人がいうには、「自分の村で夏に出火があり、村人が用心していた、秋になり六兵衛が来村し村人に絡んできたので怪しいやつだと思っていた、そしてその日の夜六兵衛が又三郎という男の家に入り込んだのです、又三郎当人は不在で母親だけが寝ていたが、彼女は驚き、私の所へ通報してきた。夜半であったので私も様子をうかがい(翌日役所へ)届け出ようとしたが、もってのほかのことに六兵衛が悪口を浴びせてきて脇差しで抵抗してきたのです。私と打ち合いになりました。そして当たり所が悪かったのか、六兵衛は即死してしまった。六兵衛は当村のあた(仇)であると思ったので打ち殺したが、役人に届け出ず報告が延行してしまったのは当方の不調法です」と弁明しています。これに対し、妻は「夜中であったので寝ていたのでまったくわからない」と答えています。村名主らも「村内外において宝壽院を手伝ったものは壱人もいない、また今後一切この件について難癖をつける者がおりませんことを連印してお誓いします」と述べています。
 これらからは緊迫感の伝わる文書が何通も含まれています。これらは現在整理中ですが、面白い文書だったので紹介しました。これらは「小県郡関係地方(じかた)文書」として近々目録が完成する予定です。

古文書公開日記11−宝寿院殺人事件−
古文書公開日記11−宝寿院殺人事件−
[ 2018-04-14 ]

常設展示室に河童形土偶が登場

お知らせ

 3月の常設展示室リニューアルに合わせ、初めてお披露目する資料を縄文コーナーに登場させました。千曲市屋代遺跡群(高速道地点?区)の地下6mで発見された、縄文中期前葉(約5,500年前)のムラ跡から出土した土偶です。
 そんなに深い所に埋まっていたのだから、完全な形で残っていても良さそうなものですが、すべてバラバラな状態で見つかっています。実は全国的にみても、約20?以下の小形の立像土偶には、完全な形をしたものがほとんどありません。これは、祭りや呪いなどに使われた後、わざと壊してしまったためと考えられています。この点は、丁寧に埋められていた国宝「縄文のビーナス」(複製を展示)などの大形の立像土偶とは明らかに扱い方が違っています。
 さて、屋代遺跡群の土偶を見ると、頭の上が真っ平らか、わずかに凹んでいることがわかります。こうした特徴は、縄文時代中期の長野県北半部〜北陸・新潟方面に多くみられ、現代の考古学者たちは「河童形土偶」と呼び習わしています(縄文人が何と呼んでいたかは不明です)。
 どうして、こんな頭の形をしているのでしょうか。土偶は、精霊(カミ)の姿を表現したものと考えられています。そのため、人間に似せていたとしても人間ではないことを示すため、形やバランスを変えていたようです。頭が平らな方が、何か特別な力が出ると考えたのでしょうか。そのあたりの事情も、今ではわからなくなっています。みなさんも想像をふくらませてみてください。
 河童形土偶は、夏季企画展「君は河童を見たか!」(6月16日〜7月29日)の期間中も常設展示室で展示しています。ぜひ、あわせてご覧下さい。

常設展示室に河童形土偶が登場
[ 2018-03-24 ]

長野県立歴史館「信州を学ぶ」シリーズの発刊

お知らせ

 長野県立歴史館では、「信州を学ぶ」シリーズ第1弾・足元を探る編として、『日常生活からひもとく信州』を発刊します。
 信州の衣食住にかかわる歴史をさまざまな角度からわかりやすく掘り下げた1冊です。
 当館ミュージアムショップでは、3月21日(祝・水)から発売します。
 どうぞお買い求めください。

●編著者:長野県立歴史館
●出版社:信濃毎日新聞社
●種 類:単行本(ソフトカバー)
●頁 数:226ページ

長野県立歴史館「信州を学ぶ」シリーズの発刊
[ 2018-03-10 ]

カプセルトイに新シリーズ「ふにわ」登場!

お知らせ

来館したみなさまに好評な当館1階エントランスのカプセルトイに新シリーズが加わりました。やわらかい埴輪「ふにわ」です。1回200円で、全7種類があります。何とも愛嬌のある表情で、持つと想像以上のやわらかく、こちらの力も抜けそうです。日頃感じている緊張感をほぐしてくれます。お子様にも人気が出そうです。
「ふにわ」以外にも変わらぬ人気を誇る「埴輪と土偶+土器&青銅器」(1回200円)、コップの縁にかけることができる「土偶と埴輪」(1回300円)、子どもたちに人気の「武将甲冑フィギュア」(1回300円)もあります。当館見学の記念にいかがでしょうか。

カプセルトイに新シリーズ「ふにわ」登場!
カプセルトイに新シリーズ「ふにわ」登場!
[ 2018-03-09 ]

河童とヒョウタン

お知らせ

ご存じのとおり、河童の好物といえばキュウリなどのウリ(瓜)です。一方、苦手なのがヒョウタン(瓢箪)です。いずれも、日本列島で古くから食用や道具の材料として重宝されてきた栽培植物で、水や水の神様と関わりの深い使い方もされてきました。
 河童が水分をたっぷりのウリを好むのはわかります。では、なぜヒョウタンが苦手なのかと言うと、その浮力にあるようです。『まんが日本昔ばなし』の「かっぱとひょうたん」では、河童が「田んぼに水を引くかわりに娘を嫁にくれ(水中に引き込む)」と条件を出しますが、機転の利く娘が「嫁入り道具の大きなヒョウタンを運んで」と答えます。河童はどんなに頑張っても浮いてしまうヒョウタンに根負け、自分が田んぼの水を抜いたことを白状して詫び、その後は、無条件で水を引いてくれるようになった、という話です。熊本では、河童はヒョウタンを持った人を見ると逃げる、との話もあります。
 似た話で最も古いのは『日本書紀』仁徳天皇11年(古墳時代)、現在の淀川(大阪府)に茨田堤(まんだのつつみ)を作る際、神のお告げで人柱にされることになった茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)が「真の神なら、ひさご(ヒョウタン)を沈めてみろ」と返答、沈まないのをみて難を逃れた、という話があります。
 水界に引き込まれ(溺れ)ないためのヒョウタン、引き込めない河童=真の神ではない、よって河童はヒョウタンが苦手、ということのようです。
 蛇足ですが、近・現代になって描かれた河童は、そんなことはお構いなしに、ヒョウタン徳利に入ったお酒をたしなむようになります。河童も成長?したのでしょうか。
 前置きが長くなりましたが、県内では、長野市篠ノ井遺跡群の古墳時代の井戸枠のさらに下から、たくさんの土器とともにヒョウタンが出ています。この場合、ヒョウタンが浮いてくることを期待されていないので、井泉の神への捧げものの一つだったのかもしれません。
 ※「君は河童を見たか!−水と人の関係史-」展 6月16日(土)〜7月29日(日)

河童とヒョウタン
井戸底近くまで広く掘削し、井戸枠を取りあげる
河童とヒョウタン
井戸枠をはずすと井戸底からヒョウタンが出土
[ 2018-02-16 ]

古文書公開日記10−古文書愛好会 今日もゆく−

お知らせ

 毎年恒例の古文書愛好会演習の季節です。古文書愛好会は、当館の古文書講座を数年受講された方々で、さらに実力を付けたいという方が中心になって結成された学習サークルです。現在約60名の方が参加されています。そのなかで、冬季に当館の未整理文書群の読み込みをおこない、粗目録を作成し整理する作業が「古文書演習」です。本年度は佐久郡上平尾村森泉家文書、水内郡古山村戸谷家文書、そして埴科郡森村中澤家文書の整理をおこなっています。今年は30名の参加で2月末まで計18日間開催します。いずれも昨年度および今年度に当館へ寄贈された史料です。まったく未見の史料ですので、一通一通何が出てくるかワクワクしながらの作業です。古文書読解は、当時生きていた人びとの「生の文字」を読むものです。そこから江戸時代の人の声やにおいが伝わってきそうです。なのでコピーや写真では分からない発見もしばしばです。
 整理するのは古文書だけではありません。今日も近世後期の和歌結社(サークル)の連歌短冊や、養蚕関係の蚕種紙、和宮降嫁時の助郷役の苦労談などがでてきました。江戸時代の庄屋は地域の文人の集まる場でもありました。中澤家の当主を描いたと思われる肖像画、きっとお酒が好きだったのでしょうね。作業されている最長老のTさんに似ているともっぱらの評判です。
 愛好会にご関心のある方は、事務局(県立歴史館文献史料課)までお問い合わせ下さい。大勢の方に古文書へ興味を持っていただければ幸いです。

古文書公開日記10−古文書愛好会 今日もゆく−
江戸時代の一人酒(森村中澤家文書)
古文書公開日記10−古文書愛好会 今日もゆく−
愛好会の整理作業風景
[ 2018-02-14 ]

復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示

お知らせ

 昨秋の企画展「進化する縄文土器」にあわせ、常設展示室の縄文コーナーも縄文中期の土器が大半を占めていました。ご堪能いただけたでしょうか。1月からは、徐々に縄文人の生活全般がわかる展示に戻していく予定です。
 その第1弾として、1月11日(木)より、長野市松原遺跡出土の「の」字状石製品など、装身具5点を復活させました。当館HPのトップページや「展示のご案内(原始)」に写真を載せていた優品です。待望されていたみなさん、お待たせいたしました。
 松原遺跡の装身具は、縄文時代前期末〜中期初頭(約5,700〜5,500年前)のものです。玦状耳飾(けつじょうみみかざり)は、縄文時代前期に流行した耳飾で、原形は中国大陸にあります。残念ながら上部が割れているので、図を参考にして全体像をご確認ください。素材の石は白っぽい緑泥岩を使っています。残りの4点は、ちいさな孔にひもを通して胸元に下げた垂飾(たれかざり)です。素材の石は、つやのある深い緑色をした蛇紋岩を使っています。新潟県糸魚川市や周辺が原産地で、木を伐りたおす斧(磨製石斧)の材料に使われたひじょうに硬い石です。そんな石を、ギターのピックのようになるまで薄く磨きあげ、形を整えるのは、たいへんな作業だったと考えられます。
 すぐ隣りには、原村阿久(あきゅう)遺跡出土の装身具を展示しています。こちらも縄文時代前期ですが、松原遺跡より古い前期前葉〜後葉(約6,600〜5,800年前)のものです。玦状耳飾は全体に丸い形をしており、流行の違いが感じられます。その他の垂飾品は、丸い石や管状の石に孔を空けただけで、松原遺跡よりも簡素な印象です。
 みなさんは、どちらがお好みでしょうか。常設展示室で品定めをするとともに、縄文人の技術力の高さや、おしゃれの意味(女性に限らず、男性有力者や呪術者だったかも)に思いを寄せててみてください。

復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示
長野市松原遺跡出土の装身具
復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示
原村阿久遺跡出土の装身具
[ 2018-01-17 ]

古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−

お知らせ

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。新年早々新しい購入史料の整理が終わりましたのでご紹介します。今回ご紹介するのは「高島藩医関家文書」10点です。江戸時代の地方の医者の系譜類が残されています。
 関氏は佐久源氏平賀氏の流れで、戦国時代は木曽義昌、ついで諏方頼重に仕えていました。頼重の死後、武田氏の家臣となり50石の地侍として仕官し、江戸時代は高島藩士となります。
 高島藩の医師としての活動が見いだせるのは江戸時代中期1738(元文3)年、盛信の孫盛喜が江戸の医師大澤玄随に学んでからです。盛喜は玄悦を名乗ります。 
 興味深いのは玄悦の経歴です。高島藩士でありながら、玄悦は尼崎藩松平氏の扶持を得ていました。三人口(扶持)という少禄でした。さらに鳥羽藩藩主稲垣氏に召し抱えられ、扶持米も増えました。家の歴史を記した系譜「家乗(かじょう)」によれば鳥羽藩時代には藩主から白無垢着用、帯刀も免許されたと記されています。そしてふたたび諏訪へ戻ることになり、上諏訪へ転居したのが1785(天明5)年でした。諏方氏ゆかりの頼岳寺に祀られました。
 以上の「家乗」の記述からは、武士でありながら医業に携わっていた関家の経歴がわかるのですが、興味深いことは、藩医として各藩のお抱えとして仕官先をたびたび代えていたことです。医業は専門職で、求めに応じて仕官先を転々としたことがわかります。
 まるで江戸時代の「Doctor X」と言えるのではないでしょうか。

古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−
写真1 「系譜」関氏の武士としての出自が記される
古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−
写真2 関玄悦の項
[ 2018-01-11 ]

SJD91総選挙!集計結果

お知らせ

 秋季企画展「進化する縄文土器」で実施した人気投票「SJD91総選挙」(S:進化する、J:縄文、D:土器、91点)には、1,363票もの投票をいただきました(複数回答有効)。ありがとうございました。上位20位までのランキングは以下の通りです。

 1位 群馬県渋川市    道訓前遺跡  40 デカい焼町    150票
 2位 山梨県南アルプス市 鋳物師屋遺跡 68 踊る精霊    142票
 3位 山梨県北杜市    竹宇?遺跡  64 樽子ちゃん     76票
 4位 長野県御代田町    川原田遺跡   36 これぞ焼町      73票
 5位 山梨県南アルプス市  鋳物師屋遺跡  70 お猿さん(土製品) 69票
 6位 新潟県糸魚川市    六反田南遺跡  22 緻密な流線れもよう 62票
 7位 山梨県北杜市     海道前C遺跡  65 端正なお顔     60票
 8位 山梨県笛吹市     一の沢遺跡   57 センスの良い抽象文 59票
 9位 長野県大桑村     大野遺跡    66 デカい顔      55票
 10位 長野県朝日村     熊久保遺跡   39 焼町の逸品     49票
11位 山梨県笛吹市 一の沢遺跡 67踊る縄文人 42票。12位 山梨県北杜市 平林遺跡 63丸い目 39票。13位 山梨県笛吹市 58釈迦堂遺跡 きっちり縦区画 28票。14位 釈迦堂遺跡 きっちり横区画 25票。15位 鋳物師屋遺跡 55 ビールがうまそう 24票。16位 長野県富士見町 藤内遺跡 42 おたまちゃん 23票。17位 富山県砺波市松原遺跡 ヘビ付き有鍔 21票。18位(同数) 長野県中野市千田遺跡 33大きい土器 20票。藤内遺跡 41 シンプルな縦区画 20票。20位(同数)長野県茅野市 棚畑遺跡 50片口 19票。茅野市下ノ原遺跡 8イノシシふち子 19票。

 出だしは「68踊る精霊」が飛び出し、10月には上位5点によるデッドヒートが続き毎日トップが入れ替わりました。10月後半から「40道訓前」がスパートし他を引き離しました。11月後半には68が再び猛追しましたが及ばず、といった状況でした。
 面白かったコメントなどは、今後も随時紹介していきます。また、当館内で結果を貼りだします。?だけでは土器を思い出せない方、ぜひ図録でご確認ください。

SJD91総選挙!集計結果
首位となった渋川市道訓前遺跡出土土器
SJD91総選挙!集計結果
最終投票結果とコメント
[ 2017-12-07 ]

カプセルトイに新シリーズ登場!

お知らせ

当館の1階エントランスの階段横にあるカプセルトイをご存知でしょうか?これまでも「埴輪と土偶+土器&青銅器」シリーズ(1回300円)の人気がありましたが、それに加えて「土偶と埴輪」(1回300円)と「南方熊楠菌類図譜シール」(1回200円)シリーズが新たに加わりました。まずは、「土偶と埴輪」シリーズですが、今までと違うところは、何とコップの縁にかけることができます。写真の遮光器土偶は、ずり落ちないように両面テープでノートパソコンに固定してありますが、工夫次第でいろいろ場所に取り付けることができそうです。もう一つの「南方熊楠菌類図譜シール」シリーズは、一つのカプセルの中になんと20枚ものきのこのシールが入っています。自分の持ち物にどんどん貼れます。
当館の見学の記念に、また、お子様のおみやげにいかがでしょうか。

カプセルトイに新シリーズ登場!
カプセルトイに新シリーズ登場!
[ 2017-12-05 ]

古文書公開日記8−職人の由緒−

お知らせ

 古文書の整理を進めていくと様ざまな史料にであいます。今回は「寛文六年」(1666年)の銘記がある長巻の写しです。これは松本藩の職人の由緒書です。二十八の職人衆の出入免許を獲得した由緒を記したものですが、こうした由緒は後世に造作されたものが多いのです。造作された偽書だから取るにたらないもの、というのはちょっと早計です。むしろそのなかに偽作の作られる歴史的背景が読み取れます。
 この文書の後半には座頭と松本城下本町菓子職人との相論を幕府朱印で裁許した藩役所による裁許状の写しがのこされています。内容は、座頭による悪口喧嘩を停止すること、小商人へ菓子の売場は免許し、神社・寺内は宮司および法主より借り受けること、座頭は家財残らず取り上げ追放のことなどが記されています。裁判の際に、職人の免許の正当性が問われ由緒が必要になったのでしょう。
 2枚目の写真は当館古文書書庫の配置棚です。今回の文書もここに収められますが、スペースが少なくなってきています。最上部の高い棚に収めるには長い脚立が必要です。これもまた気をつかう作業なのです。

古文書公開日記8−職人の由緒−
古文書公開日記8−職人の由緒−
[ 2017-11-30 ]

縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式

お知らせ

 秋季企画展最終日の11月26日(日)、「縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式」をおこないました。優秀作品を描いてくれた6名には檀上で、日本中世史研究の第一人者でもある笹本正治館長から直々に賞状を手渡してもらいました。誰かこの中から、将来の歴史研究者が出てくれたら、「あの時!」を思い出して感動してくれるかもしれません。
 受賞者インタビューでは、一人ひとり客席にむかって「紙一杯に大きく描けました」「難しかったけど○○がうまく描けました」等々、物おじせず、しっかりと話をしてくれました。
 縄文土器写生会には、次のようなねらいがありました。
?走り去るように展示を見る(子どもにありがち)のではなく、展示品を比べて1点だけ選び、じっくり観察し、描くことで、土器に親近感を持ってもらうこと。
?頑張って描くと「ここの模様がうまく描けたよ」とか「難しい所はこうやって描いたんだよ」などと話したいことがたくさん出てきます。発見した点を話すことで、さらに興味を持ってもらうこと。
?表彰というイベントで記憶にとどめてもらうとともに、絵と記念品が家庭に残り、縄文土器と歴史館を思い出してもらうことなどです。
 そのため「勝手にどうぞ」と突き放すのではなく、学芸員や職員がそれとなく寄り添うようにして描いてもらうよう心がけました。
 子どもたちの視点は、頭の固くなった我々にはいい刺激になります。「区画もよう」と「流れるもよう」の違いは、前々回の縄文土器展の写生作品でよく表現されており確信が持てました。次回の展示にあたっては、今回の作品からヒントを得たいと思っています。

縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式
縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式
[ 2017-11-28 ]

デッドヒートが続く、SJD91総選挙!

お知らせ

 秋季企画展「進化する縄文土器〜流れるもようと区画もよう〜」も1ヶ月を切りました。
 本展では、来館者の皆さんによる人気投票を実施しています。「進化する」のS、「縄文土器」のJ、「土器」のD、エントリーされた91点で、「SJD91総選挙」です。企画展示室に入っていただければ、1人で何点選んでも結構です。
 ねらいは、「土器にそれほど関心があるわけではないけど来てみた」という方や、走り抜けるように展示室を去っていく子どもたちに、好きな土器を選ぶことで、1点1点しっかり見てもらうことが一つ。選んだ理由を書いてもらうことで、お気に入りの土器を憶えて帰ってもらうことが一つ。それに加えて、土器の面白さに気づいてくれたらいいなぁ、ということです。
 投票はこちらが思っていた以上に、多くの方が参加してくれています。用紙の裏まで土器?を記入して、びっしりとコメントを書いていただいた例もあり、展示する側の参考にさせていただいています。専門家の人でしょうか、石膏復元がほとんどの標式資料も、意外と票を伸ばしています。
 9月後半は、「区画もよう」の世界が強く、山梨県南アルプス市鋳物師屋遺跡の人体文のついた有孔鍔付土器がトップでした。10月に入ると、同じ鋳物師屋遺跡の猿形土製品、同県北杜市竹宇?遺跡や海道前C遺跡、笛吹市の人体文付き土器等々、毎日首位が入れ替わるデッドヒートでした。ただし、いずれも顔や人体文がついた土器に集中していた感じです。
 10月後半からは、「流れるもよう」の長野県御代田町川原田遺跡、群馬県渋川市の道訓前遺跡、新潟県糸魚川市の六反田南遺跡の土器が追い上げ、11月初めの時点では、鋳物師屋の人体文と、道訓前の焼町式土器の一騎打ちの様相を呈しています。
 みなさんも、ぜひ、1点1点じっくりと鑑賞していただき、好きな土器を選んで投票してみてください。最終結果はこのHPでお知らせいたします。

デッドヒートが続く、SJD91総選挙!
現在首位を走る南アルプス市鋳物師屋遺跡の土器
デッドヒートが続く、SJD91総選挙!
SJD総選挙 投票壺・速報・いただいたコメント
[ 2017-11-02 ]

ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)

お知らせ

 阿久縄文ムラ(常設展示室)のウ〜リィちゃん(イノシシの子どもの剥製)もヒトに慣れてきたという設定で、大胆にもムラの中央にある立石群まで出てきました。
 ところで、縄文土器のもようを見ていくと、もしかしてイノシシ?という造形に出会います。しかも、最初はヘビだったのが、しだいにイノシシに進化・変身する場合もあります。
 そこで、現在おこなわれている秋季企画展「進化する縄文土器」の展示品を見てみると、「いました!」左の写真を見てください。平らで大きな鼻先(↓)を、鍋(土器)の縁から出して、美味しい料理の匂いを嗅いでいるようです。落ちないように、両方の前足を鍋の縁にかけているのもかわいいですね。土器を横から見ると、右の写真。つぶらな丸い瞳の顔がわかります。
 この作り方は、大きな鼻先がなければ、ヘビのもように似ています。例えば、常設展示室にある札沢の動物装飾土器(?71)のように、少し古い時期の土器では、「三角頭に丸い目」と言えばヘビでした。ところが、時代が進むと、ヘビの頭の先端に大きなブタ鼻のようなモノが合成され、ヘビ→イノヘビ→イノシシに進化していきます。どうしてなのかはよくわかっていませんが、中期縄文人の信仰の対象がヘビからイノシシに移った可能性があります。
 さて、この土器、企画展示室入口付近で、皆さんをお迎えしています。茅野市下ノ原遺跡から出土した土器(?8)です。どこにイノシシ?がついているか、じっくりと探してみてください。

ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)
鼻先
ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)
イノシシ
[ 2017-10-05 ]

『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜

お知らせ

 9月16日(土)に始まる秋季企画展「進化する縄文土器」に関連し、「第3会場」とした常設展示室では、すでに展示資料が出そろいました。
 3月からお目見えしていた中信地区の塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡、筑北村東畑(ひがしばた)遺跡に、東信から長和町大仁反(おおにたん)遺跡、岐阜県下呂市から桜洞神田(さくらぼらじんでん)遺跡の土器が加わりました。
 企画展示室では、北陸〜東北信と、中南信〜山梨といった信州を南と北に二分し、その違いをテーマに展示しています。これに対し、常設展示室では、岐阜県〜中・東信といった東西を軸に、さまざまな地域の土器が行き交っていたことをテーマにしています。もちろん南と北も盛んに交流しているのですが、頭の中がごちゃごちゃになるといけないので、企画展示室では、しっかりと本場の土器を見ていただきます。その分、こちらでは他の地域の土器が運びこまれ、まねされるといった複雑な関係を見ていただきます。
 桜洞神田では、地元や多数派の北陸系土器ではなく、遠方から運ばれてきた信州・東海・西日本の土器を展示しています。いずれも、持ち運びに便利な?コンパクトサイズですが、各地の特徴がしっかりと表現された優品です。
 黒曜石原産地に近い東信の大仁反遺跡には、分水嶺を挟んで対峙する西側の勝坂式土器がたくさん持ち込まれています。今回は、浅鉢を作らない焼町の人びと向けに贈られた浅鉢の優品をご覧いただきます。ところが話は複雑で、勝坂式土器の浅鉢とは少し形が違い、台までついています。贈答向けに特注で作ったのか?考えさせられる土器です。
 企画展・常設展の共通券は500円です。企画展300円だけでなく、こちらにもぜひ足を運んでください。損はしないと思いますよ。

『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
下呂市桜洞神田遺跡出土品
『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
長和町大仁反遺跡出土の台付浅鉢形土器
[ 2017-09-13 ]

伊那谷の伝統文化ー大田切人形

お知らせ

 常設展示室内の「近世展示コーナー」の展示替えを行いました。上伊那郡宮田村から大田切人形をお借りして展示しています。

 天保5年(1834)、代々竹本座(大坂)に属する人形遣いの家系に生まれた吉田金吾は吉田国三郎を名乗り、天保12年から文久2年(1862)まで大坂に拠点を置いて人形を操っていました。
 幕末から明治の初め頃、金吾は家族とともに、大坂から大田切村(上伊那郡宮田村)に住み着きました。金吾は人形を操るだけではなく、頭の制作も行い、彼が制作した頭は、大田切だけでなく、黒田・今田(飯田市)、早稲田(下伊那郡阿南町)などにも残っています。

 大田切に定住した金吾は、村人に人形浄瑠璃を教え人形芝居を盛んにしていきました。金吾に指導を受けた村人は、他村に招かれて興行に出かけるようになりました。また、金吾自身は黒田などへも人形浄瑠璃の指導に出かけていました。
 明治16年(1883)に金吾が亡くなった後も大田切の人々は興行を続けましたが、大正末頃興行が不振となり、人形と道具を7・8軒で保管するようになりました。昭和34年以降は全く活動が途絶え、田中・飯島両家から村へ人形・道具類が寄贈されたのです。大田切に残された頭は38点で、吉田金吾が確実に作ったとされるのが8点です。

 寄贈された頭の中に徳島を代表する人形師天狗久(1858〜1943年)が制作した頭が5点含まれていました。天狗久は本名を吉岡久吉といい、昭和18年(1943)に亡くなるまで、徳島市国府町和田の工房で人形の頭を作り続け、優に千を越える頭を作ったと言われています。大きさを見ると金吾が作った頭より1〜2cm大きく作られています。ろうそくの明かりでもはっきり顔が見えるように大きな頭を作って提供したといわれています。

 信州から遠く離れた大坂・淡路・徳島の伝統文化が伊那谷を中心に残されている姿をぜひご覧ください。

伊那谷の伝統文化ー大田切人形
吉田金吾が作った頭「検非違使」(宮田村教育委員会)
伊那谷の伝統文化ー大田切人形
天狗久が作った頭「娘」 (宮田村教育委員会)
[ 2017-09-06 ]

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−

お知らせ

 博物館実習が行われ、古文書の整理実習をおこないました。史料は芦田宿本陣土屋家文書のうちのC群を選びました。選択理由は豊富な近現代史料を含み、江戸時代の崩し字にくらべて比較的読みやすい史料ということ、第2に、対象とした時代(昭和初期)に長野県庁学務課の視学(現在の指導主事)だった土屋傳さんが残した教育行政関係のものが多く含まれており、博物館学や教職を学ぶ学生さんたちにも触れていただきたかったからです。すでに江戸時代の部分は公開されていますが、仮目録だけできているものの電子化されておらず未公開部分が多く残っていました。
 実習生は文書を仮目録にならって整理し、現物とつきあわせながら文字を解読し直します。最初は独特のペン文字に難儀していたようですが、次第に読み込んでいくことができたようです。おかげさまでかなり整理することができました。
 この史料の中には、当時の長野県知事の数々の告辞(卒業式などの祝辞など)を土屋が代理で作成した際の草稿がたくさんあります。時局の進展にともなって、「国家の難局」「銃後」など戦時色の濃い言葉が並んでくることに気づかされます。視学による現場の教師の授業指導書類、教職員の思想動向について県側がかなり神経をとがらせていることをうかがわせる史料も多数あります。今回整理した者は戦前・戦中期の中等教育の指導的な立場にいた側の実態を教えてくれるものです。近日中に公開されることになります。

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
実習生の整理の様子
古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
土屋傳による知事告辞の草稿
[ 2017-08-31 ]

古文書公開日記6−電気のはなし−

お知らせ

 8月になり毎日蒸し暑い日が続いています。いかがお過ごしでしょうか。クーラーの稼働率が高くなる夏は電気の使用量が増えるのでクールビズや省エネなどできる工夫をしたいものです。
 みなさんは信濃電気株式会社という電気会社があったことはご存じでしょうか。今回、この会社が作成した大正期の図面約150点の整理が終わりました。
 近代の長野県は養蚕業が盛んで、各地に製糸場が作られました。山がちで川が多い長野県では、水力を活用した電力会社も設立されました。多くは製糸工場の経営者によって作られました。須坂町にあった製糸会社山丸組は、1912年には県内外に5工場・1514釜、1927年には県内8工場、県外3工場、総釜数約5000釜を誇る日本最大規模の大製糸場でした。その創設者越寿三郎は夜業が増えたことから防犯・防災のため須坂町内に広く電灯を設置するため電灯会社を設立することを企図しました。1903年、こうして信濃電気株式会社は生まれました。米子(須坂市)に水力発電所を設立したことを皮切りに電力供給が進み、1914年(大正4)には東北信地域に402kmの電線路網を広げ、長野県内最大の電力会社になりました。その後も長野地域を基盤とする電力会社長野電灯に電力を供給するなど順調に運営されていきました。しかし昭和恐慌後の養蚕業の打撃とともに経営が悪化し、長野電灯との合併により社は消滅しました。
 今回の図面は須坂・中野・飯山・山ノ内など北信の村の図で、そこには電線架設場所や電灯の位置などを測量技師によって正確に図面上に落としています。この時期は信濃電気の最盛期であり、須坂地域も野口雨情・中山晋平により「須坂小唄」が作られる(1923年)など華やかな時代でした。今回の図面の多くは、電力需要に湧いたそんな時代を象徴するもので、貴重なものといえます。

古文書公開日記6−電気のはなし−
古文書公開日記6−電気のはなし−
[ 2017-08-11 ]

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)

お知らせ

 いよいよ夏休みですね。山へ海へ歴史館へ・・・楽しいことがいっぱい!。動物好きな子は、動物園だけでなく、当館の縄文ムラに来てみてください。探せば探すほど、たくさんの動物、鳥、昆虫がみつかります。
目で探すだけではありません。耳をすますと、いろいろな動物の鳴き声が聞こえます。あるいは竪穴住居の敷物に触っていたら、ホンモノの動物の毛皮だったりします。展示品には動物の骨で作った製品や縄文人が食べ残した骨。よーく見ると、土器のかざりがヘビの形だったり・・・。ぜひ、縄文ムラと展示コーナーで、どんな生き物が何匹いるか数えてみてください。
 縄文時代と同じように、「昭和のころまでは、こんな風に家の近くにいろいろないきものがいたんだなぁー」と実感してみてください(「今でもいるよ」との声も聞こえそうですが)。
 近ごろ、数が増えて、人里近くにも出没するようになった動物。そのうちの一種類が鳴いていますが、当ててくれる子どもがなかなかいません。「鳥?」とかん違いされます。さて、どんな動物でしょうか。ヒント、近ごろ増えたといえばシカ、イノシシ、クマ、サル、さて正解は常設展示室で鳴き声を聞いてみてください。
 ちなみに、かわいい!と評判になったウ〜リィちゃん(幼いイノシシの子)も縄文ムラの中をほんの少し移動しました。猛毒のトリカブトの近くです。動物は毒のある草をよく知っているので、噛んだりはしなかったと思います。縄文人も、よ〜く知っていたと思われるので、この草は薬になる。この草は食べられる・・・。トリカブトは毒があるから矢の先(石鏃)につけて・・・なんて風に使っていたかもしれません。

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)
[ 2017-07-28 ]

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−

お知らせ

筑摩郡上生坂村(現在の東筑摩郡生坂村)文書を整理し終わりました。点数は33点ですが、いずれも18世紀前半のものばかりで、当館では比較的古い時代の文書群に位置付きます。文書自体は金子の受取覚や訴訟関係のものなどで構成されています。上生坂村は江戸時代は麻績組に属しており、安曇郡とも接する中山間地でした。生坂煙草と呼ばれる葉煙草や麻の産地でした。今回の整理で興味深かったのはこの地域の絵図面が袋に束ねて収められていたことです。近村の市野川村(現在の麻績村)や麻績町村(同村)の絵図は彩色豊かに描かれています。このなかで唯一異色だったものは、1866(慶応2)年の第二次長州征討(長州藩では四境戦争と呼びます)の配陣図が混入していたことです。文書の持ち主によって描かれたものか収集したものかは不明ですが、絵図面の袋に他の村絵図とともにまとめて入っていたものなので何らかの経緯でこの家にもたらされたのでしょうか。寅六月十四・十五日の打合と記され、小瀬川を挟んで毛利隊と幕府軍が対陣している様子から大竹村(広島県大竹市)の「藝州口の戦い」の様子を描いているようです。長州軍が鉄砲を放ち雷鳴をとどろかしていることなどが見て取れます。彦根藩主井伊直憲、高田藩主榊原政敬などの名前も見えます。小瀬川を渡ろうとする井伊軍は、川岸から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮山から大砲が浴びせられ、小瀬川が血の海になったと伝えられています。幕府方の人名記述が詳細なことから、おそらく幕府方に参加したものによって記されたものでしょう。長州征討が失敗に終わったことから幕府の威信は急速に失墜し翌年の幕府滅亡へとつながりました。幕末の動乱を示す資料といえるのではないでしょうか。

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
[ 2017-07-13 ]

お待たせしました! ナウマン君復活です。

お知らせ

 常設展示室でみなさんをお迎えしていたナウマン君。観覧者がやってくると、まばたきしながら、大きく首を振って歓迎していたのですが・・・。首筋を痛めてしまい、連休明けから6月いっぱい、お休みをいただいておりました。
 「このゾウ動くんだよ」と教えてくれたリピーターの子どもたち、待っても待っても動かないので「あれ?・・・」。がっかりさせてごめんなさい。7月2日・3日に行った手術が成功し、7月4日(火)には元気いっぱい復帰しました。
 ところで、この子の年齢は23歳。復元された体格から男の子。開館当時に出会った子どもたちもりっぱな大人ですね。元気になったナウマン君に、もう一度会いに来てみませんか。そして、いっしょに来たお子さんや家族、恋人・友人、あるいはたまたま居合わせた人に、変わらぬ勇姿を伝えてあげてください。ナウマン君も自慢げにうなずいてくれることでしょう。
 ちなみに動物園で飼育されているアジアゾウの国内最高齢は、昨年、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園で亡くなった花子の69歳。また、北海道で発掘されたナウマンゾウ化石は、少なくとも40歳以上とされています。
 さて、完全復活したわが歴史館のナウマンゾウは、何歳くらいまでみなさんをお迎えできるでしょうか。

お待たせしました! ナウマン君復活です。
7月4日 「元気になったよ!」職員と復活のごあいさつ
お待たせしました! ナウマン君復活です。
2ヶ月ちかく、休養してました。
[ 2017-07-05 ]

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!

お知らせ

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」の見どころ
 「銀座nagano」は、長野県が首都圏、世界とつながっていく拠点として平成26年に開設されたものですが、正式には「銀座nagano しあわせ信州シェアスペース」と呼びます。「nagano」と「信州」。一つの地域を指すのに、なぜわざわざ二つの地名を使うのか、皆さまは首都圏や世界の方々にうまく説明できますか。
 行政単位としての長野県の誕生は明治9年、1876年ですが、名実ともに県の基盤が確立するのは明治33年(1900年)の府県制・郡制の制定を待ってでした。明治33年は、浅井 洌・北村季晴コンビによる「信濃の国」が誕生した年でもあります。そして「信濃の国」は、昭和43年、長野県歌に指定されました。
 「長野県」と「信濃(あるいは信州)」。同一の地域を指しながら、なぜ私たちはこの2つの地名を使い続けているのでしょうか。なぜ、「信濃(信州)」という地名に今もこだわりを持ち続けているのでしょうか。
 幕末の信濃地域は十余の藩と幕府領が複雑に入り込み、統一した社会のかたちをなしていませんでした。また、もともと広い地域です。東西南北で気候も文化も違い、とくに南北では日常生活のなかの習俗や考え方が随分異なっていると言われています。多くの峠と川によって区切られた地域毎に独自の文化が息づいているところに、この地域の特色があります。このように考えたとき、明治のはじめ、わずか十年ほどで現在の長野県が成立したという史実は驚くべきことです。
 しかし、であるからこそ、長野県誕生への道は平坦なものではありませんでした。わずかな期間に、伊那県、中野県、筑摩県などいくつもの新しい行政組織が誕生し、消えていきました。複雑な入り込みを解消して一つの県に統合しようとする力が強く働く一方、地域ごとの独自性を尊重する立場から分散を指向する力も絶えず働いていたのです。また、長野県誕生後も、統合と分散の力のせめぎ合いから、分県論、県庁移転論が度々主張されることになりました。「長野」と「信濃(信州)」という、言葉ではうまく説明できない微妙なニュアンスの違いに対する私たち県民のこだわりは、今から150年前の長野県誕生の瞬間に由来するといってもよいでしょう。
 県立歴史館では、7月8日(土)から「平成29年度夏季企画展 長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」を開催します。当館は、長野県の公文書館としての役割を担っています。当館が所蔵する幕末明治期の行政文書(長野県宝)を精査し、長野県誕生のその時何が起こったのか、この体験から私たちは今、何をくみ取ればよいのか、県民の皆さまと一緒に考えてようとする企画です。
「人間は歴史的動物」と言われます。歩んできた道を振り返り、過去を見つめることで、たくさんのヒント、教訓を発見し、今を変革し、未来を創造する動物です。「長野県」や「長野県民」は当たり前のように存在するものではありません。また、住民の中に初めから「私たちは長野県民である」という一体感(アイデンティティ)が備わっているわけでもありません。
 リニア時代をひかえ、県下の諸地域がそれぞれ独自のかたちで首都圏や世界と繋がる方法を模索しています。県民意識も大きく変わろうとしています。こうした時期に、もう一度長野県誕生の瞬間に立ち会ってみませんか。「長野」と「信濃(信州)」の2つの言葉に向かい合ってみませんか。
 長野県誕生から約1世紀半が経ちました。つぎの1世紀に向けて私たちは何を手渡せばよいのでしょうか。この企画展は、そのヒントを見つけ出す絶好の場です。是非、ご来館下さい。
(学芸部長 青木 隆幸)

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!
筑摩県博覧会「錦絵」 1873(明治6)年 (当館蔵)
夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!
五榜の掲示 1868(慶応4)年 (個人蔵・上田市立博物館寄託)
[ 2017-06-30 ]

友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜

お知らせ

 秋季企画展の名称が「進化する縄文土器〜流れるもようと区画もよう〜」に決まり、本格的な準備に入りました。縄文時代中期中葉(約5,400〜5,000年前)における縄文土器のかざりは、(1)流れるもようが軸になる東北信〜北陸と、(2)区画もようが基盤の中南信〜西関東のように、地域差を強調する方向で進化します。
 例えば、土偶を土器のかざりに取り込んだ南信〜西関東では、土偶はしだいに大きく、丁寧に、さまざまな文様が追加され、他のかざりと合成・合体して進化します(土偶とはわからなくなっていきます)。その到達点が、富士見町藤内(とうない)遺跡の「神像土器」と呼ばれる土器です(写真右)。一方、その他の地域では、土器に土偶が貼りつくなどもっての外、と言わんばかりに、ほとんど作られることがありません。
 しかし、縄文人が排他的な人たちだったのかというとそうでもなく、交流は盛んだったようです。あえて他地域とは違う「おクニ自慢」の優品を持ち込んだり、現地製作?しています。そして、持ち込まれた土器を見ては、ちょっぴり真似したりしています。「神像土器」に描かれた区画文も、元はと言えば、北陸の前時代に流行っていたのを南信〜西関東の縄文人が真似し、アレンジして独自進化をとげた文様です。
 もう一つ、交流関係を示す面白い土器が、今、常設展示室に飾ってあります。筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡の土器(写真左)です。よくみると、最高傑作の「神像土器」を一回りも二回りも小さくし、土偶のかざりも簡略化した妹(弟)分のような土器です。この時期の東畑遺跡では東北信の焼町式土器が主になっています。もしかすると、友好関係のために諏訪・松本方面から運ばれてきたのかもしれません。
 同じような事例は、茅野市棚畑(たなばたけ)遺跡出土の国宝「縄文のビーナス」でも見られます。ビーナスと似た顔で、簡略化された帽子を被り、一回りも二回りも小さい土偶が山梨や塩尻市の遺跡から見つかっています。友好関係のネットワークを築くため、妹分が派遣されたのかもしれません。

友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜
左>筑北村東畑遺跡 顔(円文)と土偶の肩〜背部分などが簡略化されて表現されている。右>の藤内遺跡(当館蔵レプリカ)を知らないと、土偶装飾とはわからないかも
[ 2017-06-28 ]

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開

お知らせ

平成13(2001)年6月、千曲市八幡の社宮司(しゃぐうじ)遺跡から、平安時代末期(11世紀から12世紀)の製作と推定される木製の仏塔が出土しました。仏塔は擬宝珠(ぎほうじゅ)、笠、蕨手(わらびて)、風招(ふうしょう)、風鐸(ふうたく)、幢身(どうしん)からなり、それぞれクリ、ケンポナシ、サワラ、ヒノキ、エノキと違った木材で製作されていました。これまで平安時代末期の様子を描いた『餓鬼草紙』(がきぞうし)などでしか知ることのできなかった仏塔の資料が、国内で初めて遺跡から出土したのです。その性格付けは発掘当時、供養塔あるいは信仰の対象物と考えられ、鎌倉時代以降に製作される「石幢」(いしどう)以前の製作物として「木幢」(もくどう)と名づけられました。しかし、その後研究によって、仏教儀礼の空間を飾る荘厳具との位置づけが示され、平安時代における地方の仏教文化を知る比類のない重要資料と評価され、「木造六角宝幢」と改称されて長野県宝に指定されました。

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢(複製)
特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢解説パネル
[ 2017-06-08 ]

古文書公開日記4−木下尚江肖像画−

お知らせ

 史料整理はかならずしも古文書だけに限りません。
 今回は木下尚江の肖像画を紹介します。この作品は昨年度県外流出史料の一部として購入したものです。 
 尚江は松本藩士木下秀勝の子として明治2年(1869)に生まれた自由民権運動家で、初期社会主義者として知られています。「病野老」とあることから病を得た晩年の尚江像、しかも手紙に添付されていることから、自画像と見られます。
 尚江は「信陽日報」の記者、弁護士などの活動もおこない、松本キリスト教の洗礼を受け、キリスト教人道主義者として日露戦争では非戦論を唱えた人物です。
 軸装に貼付された書翰の宛名から、この絵は高崎在住のキリスト教者住谷天来にあてたものと推測されます。住谷は内村鑑三らと交遊した「万朝報」記者で、のち郷里の群馬県に帰って伊勢崎教会、甘楽教会の牧師となっていることが知られます。キリスト教徒、非戦平和主義者として活動していたことから、尚江との交流が生まれたのでしょう。
 切手の印字が「12.3.7」となっており、また自画像も3月7日付となっています。木下は昭和12年(1937)に癌を発症しその年の11月に没しています。これが昭和12年のものと推定すると、この作品は最晩年の尚江肖像となり、意義深いと言えましょう。

古文書公開日記4−木下尚江肖像画−
[ 2017-06-04 ]

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)

お知らせ

 4月29日のブログで紹介した「縄文阿久ムラ」に居ついたウ〜リィちゃん。すでにススキの陰から移動しています。お気づきでしょうか。まだ幼いのでキノコを食べはしないでしょうが、好奇心旺盛でキノコのところまでやってきました。すぐ脇には、ワレモコウがあります。高さ数十?になるバラ科の山野草です。秋には、紫色の花をつけます。長野県内では、今でも人里近くの林と農地の境あたりで見ることができ、縄文時代のムラ周辺にも生えていたと考えられます。ワレモコウの根っこには止血効果があるそうです。縄文人は、野草に効能に詳しかったと思われるので、けがをした時に使っていたかも知れません。
 さて、ウ〜リィちゃん今度はどこへ? みなさん「縄文阿久ムラ」で探してみてください。

※阿久(あきゅう)は諏訪郡原村にある遺跡で、中央自動車道建設に伴い1976〜78年に発掘調査されました。歴史館で再現した縄文時代前期のムラ跡は、保存を求める声がたかまり、現在は道路の下に埋没保存されています。

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)
キノコとウ〜リィちゃん
縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)
「縄文阿久ムラ」のウ〜リィちゃんとワレモコウ
[ 2017-05-30 ]

調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−

お知らせ

当館2階にある閲覧室をご存知でしょうか。閲覧室には、原始時代から近現代にわたる基本文献など多数の図書・雑誌10万冊以上が収蔵され閲覧できます。館内コンピュータで検索することもできます。また、閲覧申請をしていただければ、当館収蔵の行政文書や古文書もご覧いただけます。専門家だけでなく、一般のみなさまも調べ物にご利用いただいております。写真は長野県PRキャラクターのアルクマがを閲覧室を利用した時の様子です。

利用の仕方がわからないときや当館職員へのご質問がある場合は、閲覧室に職員が常駐しておりますので、遠慮なく声を掛けてください。なお、閲覧室のみのご利用は、観覧料をいただいておりません。また、本の貸し出しは行っておりませんのでご承知ください。(申請をしていただければ複写も可能です。)

くわしい利用の仕方については、下のリンクより「閲覧室利用のご案内」をご覧ください。

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閲覧申請をするアルクマ
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閲覧中のアルクマ
[ 2017-05-26 ]
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