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カプセルトイに新シリーズ登場!

お知らせ

当館の1階エントランスの階段横にあるカプセルトイをご存知でしょうか?これまでも「埴輪と土偶+土器&青銅器」シリーズ(1回300円)の人気がありましたが、それに加えて「土偶と埴輪」(1回300円)と「南方熊楠菌類図譜シール」(1回200円)シリーズが新たに加わりました。まずは、「土偶と埴輪」シリーズですが、今までと違うところは、何とコップの縁にかけることができます。写真の遮光器土偶は、ずり落ちないように両面テープでノートパソコンに固定してありますが、工夫次第でいろいろ場所に取り付けることができそうです。もう一つの「南方熊楠菌類図譜シール」シリーズは、一つのカプセルの中になんと20枚ものきのこのシールが入っています。自分の持ち物にどんどん貼れます。
当館の見学の記念に、また、お子様のおみやげにいかがでしょうか。

カプセルトイに新シリーズ登場!
カプセルトイに新シリーズ登場!
[ 2017-12-05 ]

古文書公開日記8−職人の由緒−

お知らせ

 古文書の整理を進めていくと様ざまな史料にであいます。今回は「寛文六年」(1666年)の銘記がある長巻の写しです。これは松本藩の職人の由緒書です。二十八の職人衆の出入免許を獲得した由緒を記したものですが、こうした由緒は後世に造作されたものが多いのです。造作された偽書だから取るにたらないもの、というのはちょっと早計です。むしろそのなかに偽作の作られる歴史的背景が読み取れます。
 この文書の後半には座頭と松本城下本町菓子職人との相論を幕府朱印で裁許した藩役所による裁許状の写しがのこされています。内容は、座頭による悪口喧嘩を停止すること、小商人へ菓子の売場は免許し、神社・寺内は宮司および法主より借り受けること、座頭は家財残らず取り上げ追放のことなどが記されています。裁判の際に、職人の免許の正当性が問われ由緒が必要になったのでしょう。
 2枚目の写真は当館古文書書庫の配置棚です。今回の文書もここに収められますが、スペースが少なくなってきています。最上部の高い棚に収めるには長い脚立が必要です。これもまた気をつかう作業なのです。

古文書公開日記8−職人の由緒−
古文書公開日記8−職人の由緒−
[ 2017-11-30 ]

縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式

お知らせ

 秋季企画展最終日の11月26日(日)、「縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式」をおこないました。優秀作品を描いてくれた6名には檀上で、日本中世史研究の第一人者でもある笹本正治館長から直々に賞状を手渡してもらいました。誰かこの中から、将来の歴史研究者が出てくれたら、「あの時!」を思い出して感動してくれるかもしれません。
 受賞者インタビューでは、一人ひとり客席にむかって「紙一杯に大きく描けました」「難しかったけど○○がうまく描けました」等々、物おじせず、しっかりと話をしてくれました。
 縄文土器写生会には、次のようなねらいがありました。
?走り去るように展示を見る(子どもにありがち)のではなく、展示品を比べて1点だけ選び、じっくり観察し、描くことで、土器に親近感を持ってもらうこと。
?頑張って描くと「ここの模様がうまく描けたよ」とか「難しい所はこうやって描いたんだよ」などと話したいことがたくさん出てきます。発見した点を話すことで、さらに興味を持ってもらうこと。
?表彰というイベントで記憶にとどめてもらうとともに、絵と記念品が家庭に残り、縄文土器と歴史館を思い出してもらうことなどです。
 そのため「勝手にどうぞ」と突き放すのではなく、学芸員や職員がそれとなく寄り添うようにして描いてもらうよう心がけました。
 子どもたちの視点は、頭の固くなった我々にはいい刺激になります。「区画もよう」と「流れるもよう」の違いは、前々回の縄文土器展の写生作品でよく表現されており確信が持てました。次回の展示にあたっては、今回の作品からヒントを得たいと思っています。

縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式
縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式
[ 2017-11-28 ]

デッドヒートが続く、SJD91総選挙!

お知らせ

 秋季企画展「進化する縄文土器〜流れるもようと区画もよう〜」も1ヶ月を切りました。
 本展では、来館者の皆さんによる人気投票を実施しています。「進化する」のS、「縄文土器」のJ、「土器」のD、エントリーされた91点で、「SJD91総選挙」です。企画展示室に入っていただければ、1人で何点選んでも結構です。
 ねらいは、「土器にそれほど関心があるわけではないけど来てみた」という方や、走り抜けるように展示室を去っていく子どもたちに、好きな土器を選ぶことで、1点1点しっかり見てもらうことが一つ。選んだ理由を書いてもらうことで、お気に入りの土器を憶えて帰ってもらうことが一つ。それに加えて、土器の面白さに気づいてくれたらいいなぁ、ということです。
 投票はこちらが思っていた以上に、多くの方が参加してくれています。用紙の裏まで土器?を記入して、びっしりとコメントを書いていただいた例もあり、展示する側の参考にさせていただいています。専門家の人でしょうか、石膏復元がほとんどの標式資料も、意外と票を伸ばしています。
 9月後半は、「区画もよう」の世界が強く、山梨県南アルプス市鋳物師屋遺跡の人体文のついた有孔鍔付土器がトップでした。10月に入ると、同じ鋳物師屋遺跡の猿形土製品、同県北杜市竹宇?遺跡や海道前C遺跡、笛吹市の人体文付き土器等々、毎日首位が入れ替わるデッドヒートでした。ただし、いずれも顔や人体文がついた土器に集中していた感じです。
 10月後半からは、「流れるもよう」の長野県御代田町川原田遺跡、群馬県渋川市の道訓前遺跡、新潟県糸魚川市の六反田南遺跡の土器が追い上げ、11月初めの時点では、鋳物師屋の人体文と、道訓前の焼町式土器の一騎打ちの様相を呈しています。
 みなさんも、ぜひ、1点1点じっくりと鑑賞していただき、好きな土器を選んで投票してみてください。最終結果はこのHPでお知らせいたします。

デッドヒートが続く、SJD91総選挙!
現在首位を走る南アルプス市鋳物師屋遺跡の土器
デッドヒートが続く、SJD91総選挙!
SJD総選挙 投票壺・速報・いただいたコメント
[ 2017-11-02 ]

ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)

お知らせ

 阿久縄文ムラ(常設展示室)のウ〜リィちゃん(イノシシの子どもの剥製)もヒトに慣れてきたという設定で、大胆にもムラの中央にある立石群まで出てきました。
 ところで、縄文土器のもようを見ていくと、もしかしてイノシシ?という造形に出会います。しかも、最初はヘビだったのが、しだいにイノシシに進化・変身する場合もあります。
 そこで、現在おこなわれている秋季企画展「進化する縄文土器」の展示品を見てみると、「いました!」左の写真を見てください。平らで大きな鼻先(↓)を、鍋(土器)の縁から出して、美味しい料理の匂いを嗅いでいるようです。落ちないように、両方の前足を鍋の縁にかけているのもかわいいですね。土器を横から見ると、右の写真。つぶらな丸い瞳の顔がわかります。
 この作り方は、大きな鼻先がなければ、ヘビのもように似ています。例えば、常設展示室にある札沢の動物装飾土器(?71)のように、少し古い時期の土器では、「三角頭に丸い目」と言えばヘビでした。ところが、時代が進むと、ヘビの頭の先端に大きなブタ鼻のようなモノが合成され、ヘビ→イノヘビ→イノシシに進化していきます。どうしてなのかはよくわかっていませんが、中期縄文人の信仰の対象がヘビからイノシシに移った可能性があります。
 さて、この土器、企画展示室入口付近で、皆さんをお迎えしています。茅野市下ノ原遺跡から出土した土器(?8)です。どこにイノシシ?がついているか、じっくりと探してみてください。

ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)
鼻先
ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)
イノシシ
[ 2017-10-05 ]

『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜

お知らせ

 9月16日(土)に始まる秋季企画展「進化する縄文土器」に関連し、「第3会場」とした常設展示室では、すでに展示資料が出そろいました。
 3月からお目見えしていた中信地区の塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡、筑北村東畑(ひがしばた)遺跡に、東信から長和町大仁反(おおにたん)遺跡、岐阜県下呂市から桜洞神田(さくらぼらじんでん)遺跡の土器が加わりました。
 企画展示室では、北陸〜東北信と、中南信〜山梨といった信州を南と北に二分し、その違いをテーマに展示しています。これに対し、常設展示室では、岐阜県〜中・東信といった東西を軸に、さまざまな地域の土器が行き交っていたことをテーマにしています。もちろん南と北も盛んに交流しているのですが、頭の中がごちゃごちゃになるといけないので、企画展示室では、しっかりと本場の土器を見ていただきます。その分、こちらでは他の地域の土器が運びこまれ、まねされるといった複雑な関係を見ていただきます。
 桜洞神田では、地元や多数派の北陸系土器ではなく、遠方から運ばれてきた信州・東海・西日本の土器を展示しています。いずれも、持ち運びに便利な?コンパクトサイズですが、各地の特徴がしっかりと表現された優品です。
 黒曜石原産地に近い東信の大仁反遺跡には、分水嶺を挟んで対峙する西側の勝坂式土器がたくさん持ち込まれています。今回は、浅鉢を作らない焼町の人びと向けに贈られた浅鉢の優品をご覧いただきます。ところが話は複雑で、勝坂式土器の浅鉢とは少し形が違い、台までついています。贈答向けに特注で作ったのか?考えさせられる土器です。
 企画展・常設展の共通券は500円です。企画展300円だけでなく、こちらにもぜひ足を運んでください。損はしないと思いますよ。

『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
下呂市桜洞神田遺跡出土品
『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
長和町大仁反遺跡出土の台付浅鉢形土器
[ 2017-09-13 ]

伊那谷の伝統文化ー大田切人形

お知らせ

 常設展示室内の「近世展示コーナー」の展示替えを行いました。上伊那郡宮田村から大田切人形をお借りして展示しています。

 天保5年(1834)、代々竹本座(大坂)に属する人形遣いの家系に生まれた吉田金吾は吉田国三郎を名乗り、天保12年から文久2年(1862)まで大坂に拠点を置いて人形を操っていました。
 幕末から明治の初め頃、金吾は家族とともに、大坂から大田切村(上伊那郡宮田村)に住み着きました。金吾は人形を操るだけではなく、頭の制作も行い、彼が制作した頭は、大田切だけでなく、黒田・今田(飯田市)、早稲田(下伊那郡阿南町)などにも残っています。

 大田切に定住した金吾は、村人に人形浄瑠璃を教え人形芝居を盛んにしていきました。金吾に指導を受けた村人は、他村に招かれて興行に出かけるようになりました。また、金吾自身は黒田などへも人形浄瑠璃の指導に出かけていました。
 明治16年(1883)に金吾が亡くなった後も大田切の人々は興行を続けましたが、大正末頃興行が不振となり、人形と道具を7・8軒で保管するようになりました。昭和34年以降は全く活動が途絶え、田中・飯島両家から村へ人形・道具類が寄贈されたのです。大田切に残された頭は38点で、吉田金吾が確実に作ったとされるのが8点です。

 寄贈された頭の中に徳島を代表する人形師天狗久(1858〜1943年)が制作した頭が5点含まれていました。天狗久は本名を吉岡久吉といい、昭和18年(1943)に亡くなるまで、徳島市国府町和田の工房で人形の頭を作り続け、優に千を越える頭を作ったと言われています。大きさを見ると金吾が作った頭より1〜2cm大きく作られています。ろうそくの明かりでもはっきり顔が見えるように大きな頭を作って提供したといわれています。

 信州から遠く離れた大坂・淡路・徳島の伝統文化が伊那谷を中心に残されている姿をぜひご覧ください。

伊那谷の伝統文化ー大田切人形
吉田金吾が作った頭「検非違使」(宮田村教育委員会)
伊那谷の伝統文化ー大田切人形
天狗久が作った頭「娘」 (宮田村教育委員会)
[ 2017-09-06 ]

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−

お知らせ

 博物館実習が行われ、古文書の整理実習をおこないました。史料は芦田宿本陣土屋家文書のうちのC群を選びました。選択理由は豊富な近現代史料を含み、江戸時代の崩し字にくらべて比較的読みやすい史料ということ、第2に、対象とした時代(昭和初期)に長野県庁学務課の視学(現在の指導主事)だった土屋傳さんが残した教育行政関係のものが多く含まれており、博物館学や教職を学ぶ学生さんたちにも触れていただきたかったからです。すでに江戸時代の部分は公開されていますが、仮目録だけできているものの電子化されておらず未公開部分が多く残っていました。
 実習生は文書を仮目録にならって整理し、現物とつきあわせながら文字を解読し直します。最初は独特のペン文字に難儀していたようですが、次第に読み込んでいくことができたようです。おかげさまでかなり整理することができました。
 この史料の中には、当時の長野県知事の数々の告辞(卒業式などの祝辞など)を土屋が代理で作成した際の草稿がたくさんあります。時局の進展にともなって、「国家の難局」「銃後」など戦時色の濃い言葉が並んでくることに気づかされます。視学による現場の教師の授業指導書類、教職員の思想動向について県側がかなり神経をとがらせていることをうかがわせる史料も多数あります。今回整理した者は戦前・戦中期の中等教育の指導的な立場にいた側の実態を教えてくれるものです。近日中に公開されることになります。

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
実習生の整理の様子
古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
土屋傳による知事告辞の草稿
[ 2017-08-31 ]

古文書公開日記6−電気のはなし−

お知らせ

 8月になり毎日蒸し暑い日が続いています。いかがお過ごしでしょうか。クーラーの稼働率が高くなる夏は電気の使用量が増えるのでクールビズや省エネなどできる工夫をしたいものです。
 みなさんは信濃電気株式会社という電気会社があったことはご存じでしょうか。今回、この会社が作成した大正期の図面約150点の整理が終わりました。
 近代の長野県は養蚕業が盛んで、各地に製糸場が作られました。山がちで川が多い長野県では、水力を活用した電力会社も設立されました。多くは製糸工場の経営者によって作られました。須坂町にあった製糸会社山丸組は、1912年には県内外に5工場・1514釜、1927年には県内8工場、県外3工場、総釜数約5000釜を誇る日本最大規模の大製糸場でした。その創設者越寿三郎は夜業が増えたことから防犯・防災のため須坂町内に広く電灯を設置するため電灯会社を設立することを企図しました。1903年、こうして信濃電気株式会社は生まれました。米子(須坂市)に水力発電所を設立したことを皮切りに電力供給が進み、1914年(大正4)には東北信地域に402kmの電線路網を広げ、長野県内最大の電力会社になりました。その後も長野地域を基盤とする電力会社長野電灯に電力を供給するなど順調に運営されていきました。しかし昭和恐慌後の養蚕業の打撃とともに経営が悪化し、長野電灯との合併により社は消滅しました。
 今回の図面は須坂・中野・飯山・山ノ内など北信の村の図で、そこには電線架設場所や電灯の位置などを測量技師によって正確に図面上に落としています。この時期は信濃電気の最盛期であり、須坂地域も野口雨情・中山晋平により「須坂小唄」が作られる(1923年)など華やかな時代でした。今回の図面の多くは、電力需要に湧いたそんな時代を象徴するもので、貴重なものといえます。

古文書公開日記6−電気のはなし−
古文書公開日記6−電気のはなし−
[ 2017-08-11 ]

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)

お知らせ

 いよいよ夏休みですね。山へ海へ歴史館へ・・・楽しいことがいっぱい!。動物好きな子は、動物園だけでなく、当館の縄文ムラに来てみてください。探せば探すほど、たくさんの動物、鳥、昆虫がみつかります。
目で探すだけではありません。耳をすますと、いろいろな動物の鳴き声が聞こえます。あるいは竪穴住居の敷物に触っていたら、ホンモノの動物の毛皮だったりします。展示品には動物の骨で作った製品や縄文人が食べ残した骨。よーく見ると、土器のかざりがヘビの形だったり・・・。ぜひ、縄文ムラと展示コーナーで、どんな生き物が何匹いるか数えてみてください。
 縄文時代と同じように、「昭和のころまでは、こんな風に家の近くにいろいろないきものがいたんだなぁー」と実感してみてください(「今でもいるよ」との声も聞こえそうですが)。
 近ごろ、数が増えて、人里近くにも出没するようになった動物。そのうちの一種類が鳴いていますが、当ててくれる子どもがなかなかいません。「鳥?」とかん違いされます。さて、どんな動物でしょうか。ヒント、近ごろ増えたといえばシカ、イノシシ、クマ、サル、さて正解は常設展示室で鳴き声を聞いてみてください。
 ちなみに、かわいい!と評判になったウ〜リィちゃん(幼いイノシシの子)も縄文ムラの中をほんの少し移動しました。猛毒のトリカブトの近くです。動物は毒のある草をよく知っているので、噛んだりはしなかったと思います。縄文人も、よ〜く知っていたと思われるので、この草は薬になる。この草は食べられる・・・。トリカブトは毒があるから矢の先(石鏃)につけて・・・なんて風に使っていたかもしれません。

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)
[ 2017-07-28 ]

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−

お知らせ

筑摩郡上生坂村(現在の東筑摩郡生坂村)文書を整理し終わりました。点数は33点ですが、いずれも18世紀前半のものばかりで、当館では比較的古い時代の文書群に位置付きます。文書自体は金子の受取覚や訴訟関係のものなどで構成されています。上生坂村は江戸時代は麻績組に属しており、安曇郡とも接する中山間地でした。生坂煙草と呼ばれる葉煙草や麻の産地でした。今回の整理で興味深かったのはこの地域の絵図面が袋に束ねて収められていたことです。近村の市野川村(現在の麻績村)や麻績町村(同村)の絵図は彩色豊かに描かれています。このなかで唯一異色だったものは、1866(慶応2)年の第二次長州征討(長州藩では四境戦争と呼びます)の配陣図が混入していたことです。文書の持ち主によって描かれたものか収集したものかは不明ですが、絵図面の袋に他の村絵図とともにまとめて入っていたものなので何らかの経緯でこの家にもたらされたのでしょうか。寅六月十四・十五日の打合と記され、小瀬川を挟んで毛利隊と幕府軍が対陣している様子から大竹村(広島県大竹市)の「藝州口の戦い」の様子を描いているようです。長州軍が鉄砲を放ち雷鳴をとどろかしていることなどが見て取れます。彦根藩主井伊直憲、高田藩主榊原政敬などの名前も見えます。小瀬川を渡ろうとする井伊軍は、川岸から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮山から大砲が浴びせられ、小瀬川が血の海になったと伝えられています。幕府方の人名記述が詳細なことから、おそらく幕府方に参加したものによって記されたものでしょう。長州征討が失敗に終わったことから幕府の威信は急速に失墜し翌年の幕府滅亡へとつながりました。幕末の動乱を示す資料といえるのではないでしょうか。

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
[ 2017-07-13 ]

お待たせしました! ナウマン君復活です。

お知らせ

 常設展示室でみなさんをお迎えしていたナウマン君。観覧者がやってくると、まばたきしながら、大きく首を振って歓迎していたのですが・・・。首筋を痛めてしまい、連休明けから6月いっぱい、お休みをいただいておりました。
 「このゾウ動くんだよ」と教えてくれたリピーターの子どもたち、待っても待っても動かないので「あれ?・・・」。がっかりさせてごめんなさい。7月2日・3日に行った手術が成功し、7月4日(火)には元気いっぱい復帰しました。
 ところで、この子の年齢は23歳。復元された体格から男の子。開館当時に出会った子どもたちもりっぱな大人ですね。元気になったナウマン君に、もう一度会いに来てみませんか。そして、いっしょに来たお子さんや家族、恋人・友人、あるいはたまたま居合わせた人に、変わらぬ勇姿を伝えてあげてください。ナウマン君も自慢げにうなずいてくれることでしょう。
 ちなみに動物園で飼育されているアジアゾウの国内最高齢は、昨年、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園で亡くなった花子の69歳。また、北海道で発掘されたナウマンゾウ化石は、少なくとも40歳以上とされています。
 さて、完全復活したわが歴史館のナウマンゾウは、何歳くらいまでみなさんをお迎えできるでしょうか。

お待たせしました! ナウマン君復活です。
7月4日 「元気になったよ!」職員と復活のごあいさつ
お待たせしました! ナウマン君復活です。
2ヶ月ちかく、休養してました。
[ 2017-07-05 ]

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!

お知らせ

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」の見どころ
 「銀座nagano」は、長野県が首都圏、世界とつながっていく拠点として平成26年に開設されたものですが、正式には「銀座nagano しあわせ信州シェアスペース」と呼びます。「nagano」と「信州」。一つの地域を指すのに、なぜわざわざ二つの地名を使うのか、皆さまは首都圏や世界の方々にうまく説明できますか。
 行政単位としての長野県の誕生は明治9年、1876年ですが、名実ともに県の基盤が確立するのは明治33年(1900年)の府県制・郡制の制定を待ってでした。明治33年は、浅井 洌・北村季晴コンビによる「信濃の国」が誕生した年でもあります。そして「信濃の国」は、昭和43年、長野県歌に指定されました。
 「長野県」と「信濃(あるいは信州)」。同一の地域を指しながら、なぜ私たちはこの2つの地名を使い続けているのでしょうか。なぜ、「信濃(信州)」という地名に今もこだわりを持ち続けているのでしょうか。
 幕末の信濃地域は十余の藩と幕府領が複雑に入り込み、統一した社会のかたちをなしていませんでした。また、もともと広い地域です。東西南北で気候も文化も違い、とくに南北では日常生活のなかの習俗や考え方が随分異なっていると言われています。多くの峠と川によって区切られた地域毎に独自の文化が息づいているところに、この地域の特色があります。このように考えたとき、明治のはじめ、わずか十年ほどで現在の長野県が成立したという史実は驚くべきことです。
 しかし、であるからこそ、長野県誕生への道は平坦なものではありませんでした。わずかな期間に、伊那県、中野県、筑摩県などいくつもの新しい行政組織が誕生し、消えていきました。複雑な入り込みを解消して一つの県に統合しようとする力が強く働く一方、地域ごとの独自性を尊重する立場から分散を指向する力も絶えず働いていたのです。また、長野県誕生後も、統合と分散の力のせめぎ合いから、分県論、県庁移転論が度々主張されることになりました。「長野」と「信濃(信州)」という、言葉ではうまく説明できない微妙なニュアンスの違いに対する私たち県民のこだわりは、今から150年前の長野県誕生の瞬間に由来するといってもよいでしょう。
 県立歴史館では、7月8日(土)から「平成29年度夏季企画展 長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」を開催します。当館は、長野県の公文書館としての役割を担っています。当館が所蔵する幕末明治期の行政文書(長野県宝)を精査し、長野県誕生のその時何が起こったのか、この体験から私たちは今、何をくみ取ればよいのか、県民の皆さまと一緒に考えてようとする企画です。
「人間は歴史的動物」と言われます。歩んできた道を振り返り、過去を見つめることで、たくさんのヒント、教訓を発見し、今を変革し、未来を創造する動物です。「長野県」や「長野県民」は当たり前のように存在するものではありません。また、住民の中に初めから「私たちは長野県民である」という一体感(アイデンティティ)が備わっているわけでもありません。
 リニア時代をひかえ、県下の諸地域がそれぞれ独自のかたちで首都圏や世界と繋がる方法を模索しています。県民意識も大きく変わろうとしています。こうした時期に、もう一度長野県誕生の瞬間に立ち会ってみませんか。「長野」と「信濃(信州)」の2つの言葉に向かい合ってみませんか。
 長野県誕生から約1世紀半が経ちました。つぎの1世紀に向けて私たちは何を手渡せばよいのでしょうか。この企画展は、そのヒントを見つけ出す絶好の場です。是非、ご来館下さい。
(学芸部長 青木 隆幸)

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!
筑摩県博覧会「錦絵」 1873(明治6)年 (当館蔵)
夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!
五榜の掲示 1868(慶応4)年 (個人蔵・上田市立博物館寄託)
[ 2017-06-30 ]

友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜

お知らせ

 秋季企画展の名称が「進化する縄文土器〜流れるもようと区画もよう〜」に決まり、本格的な準備に入りました。縄文時代中期中葉(約5,400〜5,000年前)における縄文土器のかざりは、(1)流れるもようが軸になる東北信〜北陸と、(2)区画もようが基盤の中南信〜西関東のように、地域差を強調する方向で進化します。
 例えば、土偶を土器のかざりに取り込んだ南信〜西関東では、土偶はしだいに大きく、丁寧に、さまざまな文様が追加され、他のかざりと合成・合体して進化します(土偶とはわからなくなっていきます)。その到達点が、富士見町藤内(とうない)遺跡の「神像土器」と呼ばれる土器です(写真右)。一方、その他の地域では、土器に土偶が貼りつくなどもっての外、と言わんばかりに、ほとんど作られることがありません。
 しかし、縄文人が排他的な人たちだったのかというとそうでもなく、交流は盛んだったようです。あえて他地域とは違う「おクニ自慢」の優品を持ち込んだり、現地製作?しています。そして、持ち込まれた土器を見ては、ちょっぴり真似したりしています。「神像土器」に描かれた区画文も、元はと言えば、北陸の前時代に流行っていたのを南信〜西関東の縄文人が真似し、アレンジして独自進化をとげた文様です。
 もう一つ、交流関係を示す面白い土器が、今、常設展示室に飾ってあります。筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡の土器(写真左)です。よくみると、最高傑作の「神像土器」を一回りも二回りも小さくし、土偶のかざりも簡略化した妹(弟)分のような土器です。この時期の東畑遺跡では東北信の焼町式土器が主になっています。もしかすると、友好関係のために諏訪・松本方面から運ばれてきたのかもしれません。
 同じような事例は、茅野市棚畑(たなばたけ)遺跡出土の国宝「縄文のビーナス」でも見られます。ビーナスと似た顔で、簡略化された帽子を被り、一回りも二回りも小さい土偶が山梨や塩尻市の遺跡から見つかっています。友好関係のネットワークを築くため、妹分が派遣されたのかもしれません。

友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜
左>筑北村東畑遺跡 顔(円文)と土偶の肩〜背部分などが簡略化されて表現されている。右>の藤内遺跡(当館蔵レプリカ)を知らないと、土偶装飾とはわからないかも
[ 2017-06-28 ]

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開

お知らせ

平成13(2001)年6月、千曲市八幡の社宮司(しゃぐうじ)遺跡から、平安時代末期(11世紀から12世紀)の製作と推定される木製の仏塔が出土しました。仏塔は擬宝珠(ぎほうじゅ)、笠、蕨手(わらびて)、風招(ふうしょう)、風鐸(ふうたく)、幢身(どうしん)からなり、それぞれクリ、ケンポナシ、サワラ、ヒノキ、エノキと違った木材で製作されていました。これまで平安時代末期の様子を描いた『餓鬼草紙』(がきぞうし)などでしか知ることのできなかった仏塔の資料が、国内で初めて遺跡から出土したのです。その性格付けは発掘当時、供養塔あるいは信仰の対象物と考えられ、鎌倉時代以降に製作される「石幢」(いしどう)以前の製作物として「木幢」(もくどう)と名づけられました。しかし、その後研究によって、仏教儀礼の空間を飾る荘厳具との位置づけが示され、平安時代における地方の仏教文化を知る比類のない重要資料と評価され、「木造六角宝幢」と改称されて長野県宝に指定されました。

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢(複製)
特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢解説パネル
[ 2017-06-08 ]

古文書公開日記4−木下尚江肖像画−

お知らせ

 史料整理はかならずしも古文書だけに限りません。
 今回は木下尚江の肖像画を紹介します。この作品は昨年度県外流出史料の一部として購入したものです。 
 尚江は松本藩士木下秀勝の子として明治2年(1869)に生まれた自由民権運動家で、初期社会主義者として知られています。「病野老」とあることから病を得た晩年の尚江像、しかも手紙に添付されていることから、自画像と見られます。
 尚江は「信陽日報」の記者、弁護士などの活動もおこない、松本キリスト教の洗礼を受け、キリスト教人道主義者として日露戦争では非戦論を唱えた人物です。
 軸装に貼付された書翰の宛名から、この絵は高崎在住のキリスト教者住谷天来にあてたものと推測されます。住谷は内村鑑三らと交遊した「万朝報」記者で、のち郷里の群馬県に帰って伊勢崎教会、甘楽教会の牧師となっていることが知られます。キリスト教徒、非戦平和主義者として活動していたことから、尚江との交流が生まれたのでしょう。
 切手の印字が「12.3.7」となっており、また自画像も3月7日付となっています。木下は昭和12年(1937)に癌を発症しその年の11月に没しています。これが昭和12年のものと推定すると、この作品は最晩年の尚江肖像となり、意義深いと言えましょう。

古文書公開日記4−木下尚江肖像画−
[ 2017-06-04 ]

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)

お知らせ

 4月29日のブログで紹介した「縄文阿久ムラ」に居ついたウ〜リィちゃん。すでにススキの陰から移動しています。お気づきでしょうか。まだ幼いのでキノコを食べはしないでしょうが、好奇心旺盛でキノコのところまでやってきました。すぐ脇には、ワレモコウがあります。高さ数十?になるバラ科の山野草です。秋には、紫色の花をつけます。長野県内では、今でも人里近くの林と農地の境あたりで見ることができ、縄文時代のムラ周辺にも生えていたと考えられます。ワレモコウの根っこには止血効果があるそうです。縄文人は、野草に効能に詳しかったと思われるので、けがをした時に使っていたかも知れません。
 さて、ウ〜リィちゃん今度はどこへ? みなさん「縄文阿久ムラ」で探してみてください。

※阿久(あきゅう)は諏訪郡原村にある遺跡で、中央自動車道建設に伴い1976〜78年に発掘調査されました。歴史館で再現した縄文時代前期のムラ跡は、保存を求める声がたかまり、現在は道路の下に埋没保存されています。

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)
キノコとウ〜リィちゃん
縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)
「縄文阿久ムラ」のウ〜リィちゃんとワレモコウ
[ 2017-05-30 ]

調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−

お知らせ

当館2階にある閲覧室をご存知でしょうか。閲覧室には、原始時代から近現代にわたる基本文献など多数の図書・雑誌10万冊以上が収蔵され閲覧できます。館内コンピュータで検索することもできます。また、閲覧申請をしていただければ、当館収蔵の行政文書や古文書もご覧いただけます。専門家だけでなく、一般のみなさまも調べ物にご利用いただいております。写真は長野県PRキャラクターのアルクマがを閲覧室を利用した時の様子です。

利用の仕方がわからないときや当館職員へのご質問がある場合は、閲覧室に職員が常駐しておりますので、遠慮なく声を掛けてください。なお、閲覧室のみのご利用は、観覧料をいただいておりません。また、本の貸し出しは行っておりませんのでご承知ください。(申請をしていただければ複写も可能です。)

くわしい利用の仕方については、下のリンクより「閲覧室利用のご案内」をご覧ください。

調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−
閲覧申請をするアルクマ
調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−
閲覧中のアルクマ
[ 2017-05-26 ]

古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−

お知らせ

伊那郡三日町村鳥山家資料が寄贈され、ようやく整理が終わりました。文書だけでなく、地図や写真、絵葉書、雛道具類など多様な資料が満載されていて飽きませんでした。そのなかでコインのコレクションに面白いものがありました。鳥山家資料のなかには中国北宋からの渡来銭や、江戸時代の寛永通宝(古いタイプと新タイプ)がありましたが、何気なくみた一枚が不思議な文字が刻まれています(写真)。「南無阿弥陀仏」と時計回りに読むことができます。念仏銭とよばれているこのような銭の形をした類似品は珍しいものです。もちろんこれが物を購入する際に使用されていたわけではありません。玩具(おもちゃ)という考えもあるようですが、重みや表面のようすはまさに「銭1匁(もんめ)」そのものですので、一見すると通常の銅銭と変わらぬ精巧さです。
江戸時代の墓の埋納された銭について集成したした鈴木公雄氏によると、17世紀後半から通常の貨幣といっしょにこのような念仏銭が墓に埋納されるようになるそうです。「三途の川の渡し賃」とよく言いますが、六道銭として知られる「6枚の銭貨を死者に持たせる」習俗(もっとも銭は6枚とは限らないようです)と関係があるのでしょうか。今でも死者の棺に紙に印刷された六道銭を封入する地域もあるそうです。似たものに「南無妙法蓮華経」と刻まれた「題目銭」もあります。
鈴木先生によるとこの貨幣は17世紀後半から18世紀前半の中で鋳造されたらしいこと、1999年の段階で大都市の近世墓から全部で300枚以上見つかっているそうですから、全国でもっとたくさん広まっていたことが想像できます。亡くなった死者を無事極楽浄土へ送ってあげるために考案された江戸時代ならではのコインではないでしょうか。興味のある方は鈴木公雄『出土銭貨の研究』(東京大学出版会、1999年)をご参照下さい。歴史館の閲覧室でも読めます。

古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−
念仏銭
古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−
読み方
[ 2017-05-23 ]

古文書公開日記2−明治の残像−

お知らせ

このたび佐久郡大日向村浅川家文書の整理が完了し、ようやく公開にたどり着きました。この史料は昨年度古書店より購入したもので、いくつかに分散して売られていたものをまとめて購入しました。購入当初ははっきりとした点数は分からなかったのですが、整理を終えてみると目録件数で900件、全部で1012点もの数になりました。大日向村というと、昭和初期の満蒙開拓で分村移民をした村で有名です。残念ながらその関係の史料は含まれていませんでした。しかし思いがけない史料に出会いました。1884(明治17)年の秩父事件に関する被害を示す史料が5点あったのです。大日向村は十石峠を介して上州と直接つながっている村です。埼玉県秩父郡で立ち上がった自由民権運動に参加した農民や知識人たちが結成したのが秩父困民党です。このうち急進派と呼ばれる人々のリーダーが菊池貫平(北相木村出身)でした。十石峠をこえて信州に入って来ました。信州の最初の入り口がこの大日向村でした。この村の龍興寺というお寺を本陣として高利貸に賃金の半数放棄、他は据え置き、年賦返済を交渉します。きかないときは家屋破壊または放火するといった、中世の徳政一揆に近い行動を起こしました。当時は佐久や秩父で作られた繭の値段が暴落していたので農村は極めて困窮し、借金を抱える者もたくさんいたのです。この浅川家は江戸時代の名主を代々務めた家で、明治時代は大日向村戸長役場の戸長を務めていました。そういう関係もあったので秩父困民党の襲撃を受けてしまいました。役場(といっても浅川家)は荒らされ、紛失した物品も数多くあったようです。事件が沈静化したあと、浅川源助さんはなくなってしまった品物のリストを作り警察に届けています。淡々としたものですがかえって生々しい記録です。

古文書公開日記2−明治の残像−
紛失並毀壊物御届
古文書公開日記2−明治の残像−
紛失物リスト
[ 2017-05-19 ]

歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−

お知らせ

当館受付横にミュージアムショップがあります。規模はそれほど大きくありませんが、黒曜石や歴史好きにはたまらない商品が並んでいます。また、当館から出された企画展の図録やブックレットなどの出版物の販売もしています。

このミュージアムショップで、当館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」の販売をはじめました。価格は600円(税込み)です。「アルクマ」はみなさんご存知のように長野県PRキャラクターで、3月には、当館オリジナルの「アルクマピンバッチ」500円(税込み)の販売も始まっています。どちらも、当館ミュージアムショップでのみ手に入れることができる商品です。当館に来館された記念にぜひお買い求めください。

また、3月に設置したアルクマの来館記念パネルも好評で、多くの方が記念撮影に利用されています。「長野県立歴史館」の文字と日付が入っており、来館記念の写真撮影にぴったりです。こちらもご利用ください。

歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−
アルクマまが玉ストラップ
歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−
当館ミュージアムショップ
[ 2017-05-16 ]

“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜

お知らせ

毎月、小出しに手を加えてきた常設展の縄文中期コーナー。5月6日(土)の“新(展示)台入れ替え”で、アクリルボード・解説パネル・展示台と続いたリニューアルが完了しました。借用の塩尻市剣ノ宮、筑北村東畑、原村阿久遺跡と当館の優品が、以前にも増して引き立った感じです。ぜひ、見に来てください。
 筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡のコーナーでは、縄文時代中期中葉(約5,300〜5,200年前)、東北信に多い焼町式(やけまちしき)土器が主になっています。今では、電車や自動車で松本平(中信)へ行くにも近く、行政区分は松本平の村と同じ東筑摩郡です。しかし、縄文中期中葉の筑北は、東・北信との結びつきの方が強かったようです。
 さらに、塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡出土の焼町式土器も含めて比較してみると、興味深いことがわかります。曲がりくねった粘土ひもで文様(曲隆線文)を描く焼町式と一口に言っても、北信と東信で違うからです。北信は白っぽい土器が多く、東信は赤黒い感じです。また、文様に迷いがなく、きっちりと、“力”のある装飾に仕上がっているのは北信の土器です。約5,500年前から伝統的に曲隆線文を使ってきた地域だけのことはあります。対して、約5,300年前の少し前に曲隆線文を採用しはじめた東信では、少しぎこちない感じを受けます。
 こう見てくると、焼町式土器(曲隆線文)の本場は北信?といった推測が生まれます。しかし、北信ではこの時期の遺跡が少なく、決定打がない状況です。千曲市屋代遺跡群の縄文時代中期のムラが地下4〜6mに埋まっていたことを考えると、焼町式土器の本拠地は長野盆地の深くに眠っているような気もします。
 
※焼町式土器(やけまちしきどき) 塩尻市焼町遺跡で出土した縄文時代中期中葉の土器1点が研究の端緒となっており、この名で呼ばれる。研究途上のため、「焼町類型」、あるいは暫定的に「焼町土器」と呼ぶ研究者もいる。曲がりくねり・流れ・つながる粘土紐を軸線として、空白部を沈線などで埋める。同時期の勝坂式土器等で流行した区画文を基本的には使わない。分布は、千曲川流域を主に県内各地や、隣接する群馬県・新潟県などに広がる。

“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜
筑北村東畑遺跡出土土器 厳密な製作地は不明だが、白っぽく、円と三叉文の組合せを多く用いるなど、北信の可能性が高い土器。 
“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜
塩尻市剣ノ宮遺跡出土土器 赤黒く、下部の無文帯との境に分帯線を持つ。東信からの搬入品か、出張製作?模倣製作の可能性あり
[ 2017-05-12 ]

歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)

イベント

去る5月5日、ゴールデンウィークのイベントとして「歴史館でこどもの日」を開催しました。当日は、たくさんの親子連れのみなさんが歴史館を訪れ、体験を通し、楽しく歴史に触れることができたようです。

「石のアクセサリーづくり」に参加された方は、時間を忘れるほど熱心に石をけずり、まが玉やハート型の世界でひとつだけのオリジナルのアクセサリーを仕上げていました。また、「縄文人になって遊ぼう」のコーナーでは、本物の縄文土器に触れたり、当時の服装に身を包んだりして、縄文人になりきっているほほえましいご家族がいらっしゃいました。今回から新たに加わった「プラ板マスコットづくり」では、当館オリジナル長野県PRキャラクター「アルクマ」や土器などの絵をもとに、かわいいマスコットを多くの子どもたちが作ることができました。

こういったイベントを通して、さらに、歴史に関心をもっていただければと考えております。夏休みにも同様の企画を計画しておりますので、ご期待下さい。

歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)
縄文人になって遊ぼう!
歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)
石のアクセサリーづくり
[ 2017-05-10 ]

本日も多くの小学生が見学に来てくれました。

お知らせ

 当館には、年間約250校、13,000人ほどの小学生が見学に訪れます。長野県内の小学生の半数以上が来ていることになります。また、県内に宿泊施設をもつ東京都の小学生もたくさん見学に訪れます。
 学校見学が一番多いのが5月です。ちょうど小学校6年生の社会科の学習で、日本の歴史について学びはじめた頃で、季候もよく、見学にはもってこいのシーズンです。本日も小学校9校、高校2校、合計800人ほどの子どもたちが見学に訪れ、熱心に見学する姿が見られました。
 当館の見学で好評なのが、職員による展示解説です。クラス毎に1名の職員がつき、展示の解説を行います。経験豊富な職員が、子どもたちに問いかけながら、専門的な知識をもとに解説をしていきます。また、普段は入れないバックヤードの見学も好評です。本物の土器に触れたり、3,500年前の縄文人と対面したり、教室ではできない貴重な体験ができます。

 今年度も大変多くの予約をいただいておりますので、見学を検討されている学校の先生方は早めに申込をお願いいたします。申込につきましては、当館ホームページ「学校団体のご利用について」をご覧いただければと思います。ご不明な点がありましたら、当館総合情報課(026-274-3991)学校見学受付担当までご連絡ください。なお、予約が重なった場合は、ご希望に添えないこともありますのでご了承ください。

本日も多くの小学生が見学に来てくれました。
芝生広場で楽しい昼食
本日も多くの小学生が見学に来てくれました。
展示解説の様子
[ 2017-05-02 ]

常設展示の縄文コーナーでウ〜リィちゃん(ウリボウ)を探してみよう!

お知らせ

 先日、ボランティアの女性の方から「最近、展示のウリボウが、頻繁に場所を移動していてとてもかわいい」と褒められました。現在、「縄文阿久ムラ」に居ついたウ〜リィちゃん(良い愛称をつけてあげてください)の居場所は写真のとおりです。みなさん、歴史館にお出かけの際は、ぜひ、この子にも会ってあげてください。ただし、かわいい!からと言って、決して撫でたりしないでください。とても警戒心が強く繊細なため、手を出すとストレスで毛が抜けてしまいます。
 数年間、ウ〜リィちゃんは屋代遺跡出土のイノノシ骨の参考として展示台に登っていました。レストランの食品サンプルのように「美味しそうでしょ。縄文人が食べるとこうなります(となりの骨)」という、ちょっと悲しい役を引き受けてもらっていました。そこで昨年の展示替えでは、思い切って北村縄文人のお姉さん(模型)の脇に添わせました。縄文ムラの周辺は、標高が低くて大雪の心配が少なく、ヒトが作った草地もあるし、ヒトが育てたマメやクリ、残飯などもあって、イノシシの生息には良い場所です(ヒトに捕まらなければの話)。縄文ムラの近くをウロウロしていて、親とはぐれてしまったウリボウ(幼獣)が、ヒトになついても不思議ではありません(現代でも時々あるようです)。縄文人が、食べるためにイノシシを飼育しはじめた(賛否両論あり)と言う面だけではなく、飼い犬のように育てることもあっただろう、といったコンセプトにしてみたのです。元ネタは、千葉県下太田貝塚(晩期)の墓域で、イノシシと犬の幼獣たちの墓が、ヒトの幼児の墓近くに作られていた事例からの推論です。子犬やウリボウは縄文人にとって親しみのある仲間だったと考えられます。
 今年度の展示では、縄文ムラに住み着いたウ〜リィちゃんが、ムラの中をあちこち気ままにお散歩しているといった感じにしています。現在、ウ〜リィちゃんが身を隠しているススキは、縄文人が森を切り開いたことを暗示した植物です。そして住居の屋根材でもあります。
 さて、ウ〜リィちゃんは、どこにいるでしょうか。常設展示の縄文阿久ムラで探してみてください。
※阿久(あきゅう)は諏訪郡原村にある遺跡で、中央自動車道建設に伴い1976〜78年に発掘調査されました。歴史館で再現した縄文時代前期のムラ跡は、保存運動が高まりを受けて、道路の下に埋没保存されています。

常設展示の縄文コーナーでウ〜リィちゃん(ウリボウ)を探してみよう!
今日のうり坊
[ 2017-04-29 ]

おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜

お知らせ

 常設展の縄文コーナー。透明なアクリルボードをリニューアルし、見やすくなった点にお気づきでしょうか。スペースに余裕も生まれたため、展示資料数を増やしましたので、ぜひご覧ください。また、アンケート用紙にご意見・ご感想をいただけると幸いです。
 増えたのは、秋季企画展向けの縄文時代中期の土器です。見どころは、一つのムラ(塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡)にさまざまな地域の土器が入って来ていた状況を示した点です。「おクニ自慢の土器大集合!」といった感じです。縄文時代の研究では、土器の材料(粘土と混ぜる砂)や、同じ装飾を持つ土器の広がり方の分析が進んでおり、地域ごとに個性豊かな土器が作られていたこと、しかも盛んに各地に運ばれていた実態がわかってきています。
 剣ノ宮遺跡は、塩尻峠と善知鳥峠の麓に位置し、当時も交通の要衝だったとみられます。立地の良さもあってか、近隣の諏訪・上伊那・松本平南部と共通の装飾を持つ土器の他、下伊那地域の土器、東信地域の土器、遠くは東海地域や西日本系統の土器などが見つかっています。
 さまざまな産物が行き交う交易の場では、土器は商品の入れ物や、運び人の自炊道具として持ち込まれた可能性もありますが、最も多かったのは、物々交換での交換用や贈答品だったと考えられます。なぜなら、本家本元でもなかなか見つからないような、小形の優品が遠隔地から見つかっているからです。“おクニ自慢”の土器を見せれば、どこの地域から来たのかが一目瞭然です。長年の友好関係の証としての贈答品だったのかも知れません。一方で、遠隔地の土器に似せて作った例も見つかっています。遠隔地の珍品を欲しがる人に、中間地域で作ったまがい物を混ぜて渡していたのかも知れません。
 さて、他地域の個性豊かな作品を見た土器製作者たちは、対抗意識を燃やし?さらに独自性豊かな土器を作ろうとしました。逆に、ちゃっかり真似してみたような例もあります。そのあたりの話は、次回以降していきたいと思います。ご期待下さい。

おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜
西日本・東海・東信・下伊那の土器
おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜
常設展示室でリニューアルされた展示資料 左4個体は筑北村東畑遺跡、中央付近が塩尻市剣ノ宮遺跡の土器
[ 2017-04-22 ]

田中芳男展を開催します

お知らせ

4月19日付け信濃毎日新聞「斜面」で長野県飯田市出身の博物学者田中芳男(1838〜1916)が紹介されました。幕末から明治初、パリ、ウィーン、フィラデルフィアの3つの万国博覧会に派遣され、西欧の博物館の考え方を日本に初めて招来した人物です。博物館や美術館、動物園が建ち並ぶ上野公園の礎を築いたのが田中芳男でした。「日本における博物館の父」とも呼ばれています。
また、長野県ともゆかりの深いリンゴの移植・普及など、様々な農作物の品種改良にも取り組み、東京農業大学の初代学長も務めました。

 田中芳男が生まれた飯田は、中馬と呼ばれる民間輸送者の活躍がよく知られた地域です。東西交通の要衝、「文化の十字路」といわれています。芳男は、本草学をはじめ、医学、洋学、国学が隆盛する豊かな文化風土のなかで育ち、10代半ばに名古屋に出、やがて勝海舟らが中心になって幕府が開設した蕃書調所で西洋の物産・文化の研究に従事しました。
幕府が倒れると、新政府に出仕。万博で知り合った薩摩藩出身の町田久成や大久保利通らの支援を得ながら、大学南校、文部省、内務省、農商務省で博物館、博覧会行政の中心として活躍します。東京国立博物館、国立科学博物館、恩賜上野動物園(いずれも台東区上野公園)、国立国会図書館(千代田区)。みなさんよくご存知のこれらの施設の源をたどると、そこに田中の姿があります。

なぜ、芳男が博物館建設に人生を賭けたのか。幼年の頃、父から厳しく諭され、生涯、行動の起点にしたという言葉にヒントがあります。
「生まれたからには、自分相応な仕事をし、世の中に役に立たなければならない」。
 博物館こそは、田中にとって人生を賭して日本に植え付けるべき「世の中に役立つ」施設だったのです。人間が作り出してきた様々な文物、文化を収集、保存、研究、展示する博物館をつくることで、たくさんの人たちが、自らの歩みを振り返り、今を見つめ、未来を展望し、歩み出すことができると信じたのです。
「人々の生活をよりよいものにする」、その思いが田中の生涯にわたる膨大な実践と、博物館建設の夢を支えました。
 さらに言えば、芳男は、広い意味での博物館として動物園や植物園をも含んだ文化施設、文化空間を理想としていました。上野公園に動物園があるのは、その影響です。彼は人間だけでなく、様々な生き物たちの生命が共鳴しあう世界の建設を夢見ていたといえるでしょう。「環境の世紀」といわれる現代を先取りしています。
博物館を観光施設と考える方もいるかもしれません。確かにそういう側面はあります。けれど、博物館の本質は、田中芳男にとっては、歴史を見つめ、よりよい未来を作り出すための学びの出発点となる場だったのです。その意味で私たちは、日本に博物館を創った田中芳男を誇りに思います。

 長野県立歴史館は、田中芳男を生んだ信州の、県立としては唯一の歴史系博物館です。私たち学芸員は、よりよい長野県を作るために歴史館はどうあるべきか、何をなすべきかを真剣に考え、誇りをもって勤務しています。年間2万人近い数の県内外の小中高生が来館し、利用者は10万人を超えます。私たちは日々、たくさんの皆さんと、展示や講座を通じて語り合う営みを続けています。この「語り合い」の中から、子ども達の学ぶ意欲や、地域おこしのヒント、高齢者の方々の生き甲斐(元気)が見つかります。
たしかに、「観光」は博物館や学芸員の役割の一つといえます。しかし、本当の意味での観光や「観光マインド」は、自分の足下をしっかり見つめることから生まれる自信に支えられなければ魅力的なものにならないでしょう。遠い未来の、よりよい長野県を思い描きながら、自信をもってお客様にそれを語り、考えていただけるよう、私たち学芸員は資料の収集、整理、保存、研究、展示作業に取り組んでいます。

 そして、こうした努力は、当館だけでなく、それぞれの地域の博物館施設の学芸員が地道に続けているものです。長野県には多数の博物館があり、学芸員の要件を満たす施設の数は全国有数です。日本に博物館を創った信州人田中芳男の生涯に想いを馳せると、現在に繋がる不思議な縁(えにし)を感じます。

 当館では今年12月より来年2月にかけ、田中芳男を取り上げた企画展を開催します。田中芳男の出身地飯田市美術博物館では、長年にわたって田中芳男関係資料の収集をおこなってきましたが、このコレクションが、まとまったかたちで展示されることはこれまでありませんでした。今回の企画展では、当館と飯田市美術博物館が連携し、飯田という風土や、田中芳男のたぐいまれな業績を顕彰するとともに、みなさまが「博物館とは何か」ということを考えていただく機会になれば幸いです。(学芸部長 青木隆幸)

田中芳男展を開催します
田中芳男(飯田市美術博物館『日本の博物館の父 田中芳男』)より
[ 2017-04-20 ]

学校見学で大人気!−古代風おにぎり弁当−

お知らせ

新年度を迎え、当館への学校見学のシーズンがやってきました。連日多くの小学生が訪れ、楽しみながら歴史について学ぶ姿が見られています。
学校見学の昼食として人気があるのが、当館内の軽食・喫茶「科野の里」の「古代風おにぎり弁当」です。当館に見学に来る小中学生のために、当館開館時に開発されたメニューです。お弁当の中身は、「古代紫米入りごはん」「キビ入りごはん」「鶏肉のエゴマ入り衣揚げ」など昔の人びとが食べていた食材が使われており、歴史の学習にもつながります。科野の里歴史公園の復元住宅や山頂の森将軍塚古墳を眺めながら、当館横の芝生広場でこのお弁当を食べれば、またひと味違ったものになるかも知れません。
「古代風おにぎり弁当」は小中学生の見学限定で、価格は540円です。おにぎり3つバージョン(650円)もあります。大人用の古代風弁当(900円)、特上古代風弁当(1150円)も用意できるそうです。何れも予約制で、1週間前までにご注文をお願いします。くわしくは、軽食・喫茶「科野の里」までお問い合わせください。

長野県立歴史館内  軽食・喫茶 科野の里
電話 026−274−2000(歴史館代表)内線166
[営業時間]10:30〜16:30
[休業日]歴史館と同じ

学校見学で大人気!−古代風おにぎり弁当−
古代風おにぎり弁当(540円) 要予約
[ 2017-04-18 ]

当館所蔵の海外移民史料と、皆様へのお願い

お知らせ

 先日、当館に兵庫県の方が長野県のブラジル移民について資料調査にいらっしゃいました。建築がご専門で、移民した方々が現地で建設した建物を調査されているとのこと。長野県からの移住者が建てた家屋もあり、移民の歴史的背景や当時の現地の様子、移民者のファミリーヒストリーを明らかにしたいとのことでした。
 長野県は、日本一多くの満洲移民を送り出した県ですが、その理由の一つとして、大正期にブラジル移民が積極的に実施され、功を奏していたことが上げられます。なかでも、サンパウロ州郊外への移民は、現地の言葉で協力、和合を意味する「アリアンサ」移民と呼ばれました。
 当館にはブラジル移民を推進した信濃海外協会の史料の一部が県立図書館を経由して移管されています。320冊にのぼる貴重な史料です。
 今回調査にいらした方は、移民家族のアルバムなど、初めて見る資料が多かったと大変喜んでお帰りになりました。
 ブラジル移民を含む信濃海外協会の資料は当館ホームページで検索できます。まだまだ研究されていない膨大な資料が書庫に保管されています。
 これからもそんな史資料たちをご紹介します。ぜひご利用下さい。

(追記)
調査にこられた方からご質問をいただきました。移民する前に撮影したと思われる写真です。写っている学校の名前を知りたいとのことです。下伊那の学校だろうとのことです。ご存知の方、是非歴史館にご連絡下さい。

当館所蔵の海外移民史料と、皆様へのお願い
この校舎ご存知ですか?
当館所蔵の海外移民史料と、皆様へのお願い
当館の移民関係史料
[ 2017-04-08 ]

古文書公開日記−もうひとつの明治維新−

お知らせ

文献史料課の仕事はあまり皆さんの目に触れることはありません。現在当館は古文書約20万点、行政文書約10万点以上を収蔵しています。わたしたちは少しでも多くの史料を公開し県民の皆さんに閲覧していただけるように日々整理作業をおこなっています。そこでブログでも少しでも新着の公開情報を更新していきたいと思います。
今回は一昨年新たに所蔵し、つい1ヶ月前の3月に新たに公開対象となった「松本藩士荒川家文書」(5-38)を少しだけ紹介します。
今年は明治維新150年の年です。旧江戸幕府を倒すための内戦と新政権樹立までの過程を明治維新といいます。長岡周辺で戦闘となった北越戦争に新政府軍として参戦した松本藩士荒川右門太は、従軍記録や戦地絵図をたくさん残しています。例えば写真1は、越後国内の絵図で会津へ抜ける街道周辺の様子を書き記しています。とくに「この間人家なし」「人馬平日通行す」「馬通行できず」などといった図面上の細かな記述は、行軍の際に必要な情報を収集しながら書き込んでいったものと思われます。
また非常に面白いのは、右門太は家族にあてた書翰のなかに、戦況や行軍路などを事細かに記録し報告していることです。3ヶ月の間に15通も残されています(写真2)。これらを読み解くことで新しい北越戦争の事実が見えてくるかも知れません。
明治維新後の右門太は貞正と名を改め、建築関係の仕事についたようです。その晩年の戯作文(戯れに書いた文章)は、思わず笑いがこみ上げてくるものです。
こうした文書を書き残した150年前の右門太がどういう人物だったか。紙と墨で書かれた古文書を目の前にしてそんなことを想像してみます。文書の整理作業は、右門太のような人たちとの対話でもあるのです。

古文書公開日記−もうひとつの明治維新−
三国街道周辺絵図部分
古文書公開日記−もうひとつの明治維新−
従軍書翰
[ 2017-04-04 ]

歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ発売中!

イベント

県民のみなさまに当館をより身近に感じていただくため、長野県PRキャラクター「アルクマ」のオリジナルピンバッチを制作いたしました。去る3月20日(月・祝)には、親子映画会に合わせ、「アルクマ」が来館し、発売記念イベントを開催しました。イベントでは、オリジナル「アルクマ」パネルの除幕、笹本館長によるあいさつ、「アルクマ」との記念撮影などを行い、お子様をはじめ、多くの方々の前でお披露目をすることができました。

歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチは、おなじみの長野県PRキャラクター「アルクマ」と、当館が所蔵する長野市松代の松原遺跡出土の「トロフィー形土器」をデザインしたもので、当館のミュージアムショップでのみ販売されています。価格は500円です。来館の記念にぜひお買い求めください。

また、ピンバッチと同じデザインの来館記念のパネルも制作いたしました。「長野県立歴史館」の文字と日付が入っており、来館記念の写真撮影にぴったりです。当館エントランスに設置してあります。ご自由に写真撮影ができますので、こちらもご利用ください。

歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ発売中!
アルクマがやってきた!
歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ発売中!
県立歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ
[ 2017-03-22 ]

元祖!進化するヘビの精霊 〜縄文土器展への招待状 その2〜

お知らせ

 館長のフェイスブックに紹介された蛇体装飾付土器(小諸市郷土(ごうど)遺跡)を、3月から常設展示室に展示しました(写真上)。「これがヘビ?」「トカゲだろう?」「いや、縄文人は恐竜を知っていたんだよ」等々の声が聞こえてきそうです。みなさん、いろいろと想像をふくらませてみてください。あるいは、縄文人は精霊(カミ)を表現しているのだから「現実にいるモノではない」のかもしれません。
 それでも、私たちが蛇体と呼ぶのには、より古い土器にヘビっぽい前例があるからです。 考古学では、あるモノが時代とともに変化することを「系統」としてとらえます。このヘビの系統は、尖石遺跡出土品(図)などから変化したと考えられます。図右の古手のヘビはとてもリアルです(実物は茅野市尖石縄文考古館で見てね)。ところが、次の段階の図左では、ヘビらしかぬ動き(鋭角に、しかも上下方向に蛇行する)に変わります。さらに郷土遺跡の例では、さまざまな飾りがトッピングされ、ヘビには見えなくなります。器の形も大きなヘビの精霊を乗せやすくし、目立たせるために変形します(青→)。
 こうした縄文人の発想は、今どきの子どもたちが夢中なアニメ・ゲームの妖怪やモンスターの「進化形」と似ています。変形し、大きくなり、飾られ、合体しながらバージョンアップするのです。郷土遺跡の例は最もレベルアップした形で、「とぐろヘビ」の進化形「ごうどドラゴン」といった感じでしょうか。縄文人も形や大きさを進化させることで、精霊のパワーがアップすると考えたのでしょう。
 ところで、いにしえの精霊は今どきの妖怪につながるとの説があります。さまざまなモノに宿り、説明のつかないできごとは彼らのしわざだ、という考え方です。精霊はヒトには見えない、見てはいけないモノですが、“お願いごと”をするには形が必要です。そこで縄文人は、ヒトやヘビなど「自分たちの知っているモノ」に似せて表現したのかも知れません。この辺の発想も今どきの子ども(作者は大人ですが)と共通していそうです。 
 現在、常設展示室には、別系統の蛇体(札沢遺跡)や、人体(東畑遺跡)のついた土器も展示しています。ぜひ、ご覧になってください。また、秋の縄文土器をとりあげる企画展ではさらにバージョンアップさせますので、ご期待ください。

元祖!進化するヘビの精霊 〜縄文土器展への招待状 その2〜
常設展示室の郷土遺跡出土土器
元祖!進化するヘビの精霊 〜縄文土器展への招待状 その2〜
茅野市尖石遺跡出土土器(茅野市教委2007に加筆)
[ 2017-03-17 ]

雛人形展示しました。

お知らせ

 常設展示室近世の展示コーナーに江戸期から明治期にかけての雛人形を展示しました。
江戸時代中期以降、江戸日本橋十軒店で雛の販売が本格的になる中で、中山道、北国街道、甲州道中などを通じて、小諸、上田、松代、松本などの城下町の雛店に雛人形がもたらされました。上田城下では大坂屋、松本城下では生安寺小路(現在の通称は高砂町)の雛店が有名です。
2月の下旬には店頭に並べられ、城下町の豪商はもとより、各地の村役人層を中心に購入され、また松本押絵、土雛、達磨も手頃な贈答品として購入されました。
当館に所蔵されている享保雛や古今雛から、江戸時代の節句の一断面をご覧いただきたいと思います。

一般の庶民が紙製の雛や、土製の雛で上巳の節句(雛祭りのこと)を祝う中で、豪農や豪商クラスの人々は享保雛や古今雛など衣裳雛を贈答品として使っていました。
享保雛は江戸時代に流行した衣裳雛です。江戸時代中期以前から発達したとされるもので、面長な顔立ちや女雛の袴がふくらんでいる所などに特徴があります。「享保」という名称は当時使われていた名称ではなく、明治以降に名づけられたものです。
古今雛は江戸時代の中ごろ、安永(1772〜81年)頃に江戸の町で製作・販売が始まった人形で、現在の内裏雛はこの系譜をひきます。「古今雛」の名称も当時から使われていました。今回は、諏訪郡富士見町の旧家から寄贈いただいた二対の享保雛、千曲市の旧家から寄贈いただいた二対の古今雛を中心に展示します。
展示期間は3月7日(火)から3月26日(日)までです。 

雛人形展示しました。
古今雛(当館蔵)
[ 2017-03-08 ]

おおきなおなべとちいさなおなべ -縄文土器展への招待状 その1- 

お知らせ

 秋の縄文土器展に向け準備をはじめています。実はここだけの話ですが、3月後半から始まる常設展示室の縄文コーナーは、秋の本番に向けての前振りです。常設展を見ながら、秋の企画の意図・思惑を感じていただけばと思っております。
 と言うことで、最初にご紹介する土器(写真)は、塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡の同じ竪穴住居跡から出た大・小2点です。塩尻市平出博物館からお借りしてきました。
この二つを見ると、二宮由紀子作・石黒ヒロユキ絵『おおきなおなべとちいさなおなべ』を思い出し、ほのぼのとした笑いがこみ上げてきそうです。相手よりも自分が優れている点を自慢しあいながらも、各々の利点を生かし、協力して料理を作り、最後は同じ棚に仲良く収納されるといった筋だったと記憶しています。未就学児向けの絵本ですが、自家製土器を自慢して他地域のモノを貶(けな)しつつ、それでも相手の良さも気になってしまい、折り合いをつけていく・・・。縄文人にも、われわれにも通じる話です。
 ところで、故佐原真先生がおっしゃっていたように、暖かい国の鍋は浅く、寒さの厳しい北国の鍋は深くなる傾向があります。約5千年前の縄文時代中期ですと、常緑の照葉樹林帯にあたる西日本や東海では浅くて薄い鍋、落葉広葉樹林帯から北の中央高地〜北海道では深くて分厚い鍋が多くなります。「寒い冬は、いろりの灰の中に深い鍋を差し込んで、コトコト煮込むのが一番!」なんて思っていた剣ノ宮遺跡の縄文人、西から運ばれてきた“ちいさなおなべ”を見て、何と思ったのでしょうか?鍋と思わなかったのか、この土器の内外面には赤彩が施されていました。
 さて、あまりネタばらしをしてはいけないので、常設展示室で“凸凹コンビ”のホンモノを見つけていただき、「なぜ運ばれてきたのか」「どうしてこんなに違うのか」「似ているところは」等々、いろいろと想像を巡らせてみてください。

おおきなおなべとちいさなおなべ -縄文土器展への招待状 その1- 
地元の深い鍋と、西日本から来た浅い鍋 剣ノ宮遺跡 第27号住居跡出土土器(塩尻市平出博物館蔵)
[ 2017-02-28 ]

軽食・喫茶「科野の里」でほっと一息

お知らせ

 当館エントランスに入って左奥にある軽食・喫茶「科野の里」をご存知でしょうか。当館の見学や講座・講演会の後に立ち寄り、感想を話されていくお客様もいらっしゃるようです。

 開館当時からこの「科野の里」を切り盛りしているのが村山さんです。当館のことはもちろん、地域のことにもくわしく、頼りになります。明るく気さくな方なので、村山さんの人柄に惹かれて立ち寄る常連さんもいらっしゃいます。メニューはドリンク類と軽食があります。軽食はほぼワンコインなので、気軽に利用できます。

 通常のメニューではありませんが、学校の団体見学限定(10名様以上)で「古代風おにぎり弁当」が用意されています。古代紫米を使ったおにぎりなど当館の見学時にぴったりの内容で、大変人気があります。こちらは要予約となっていますので、ご注意ください。

 まだまだ寒い日が続きますが、当館ご来館の折には、軽食・喫茶「科野の里」の温かい飲み物や食事でほっと一息されてはいかがでしょうか。

村山さんから一言
「店内に一歩足を踏み入れたお客様はすぐに仲良しになれる憩いの空間で、みなさん楽しく語らっておられます。貴方もお仲間になりませんか?お待ちしております。」

軽食・喫茶「科野の里」でほっと一息
軽食・喫茶「科野の里」
軽食・喫茶「科野の里」でほっと一息
山菜そば 500円
[ 2017-02-20 ]

王滝村崩越(くずしご)遺跡の土器がふるさとに帰ります

お知らせ

 常設展示室の縄文コーナーを飾っていた木曽郡王滝村崩越遺跡出土の土器群が、2月末で展示を終了し、3月にはふるさとの王滝村へ帰ります。
 当初は、昨秋の『木曽の宝』展に合わせて借用・展示する予定でしたが、「木曽の宝が北信にやって来るせっかくの機会」ということで、1年間にわたって公開させていただきました。王滝村のみなさん、ありがとうございました。
 この資料は、「木曽は文化の十字路」ということが、約5千年前の縄文時代中期においても実感できる例です。1軒の竪穴住居跡から、松本・諏訪・伊那、さらには岐阜や静岡、北陸にルーツを持つ土器が出土したからです。木曽縄文人にとっても、現代人にとっても、各地の土器を一目で見比べることができる「お得感のあるセット」です。
 展示期間は残りわずかとなりました。開催中の『信濃国の城と城下町』展と合わせ、ぜひご覧ください。お待ちしております。

王滝村崩越(くずしご)遺跡の土器がふるさとに帰ります
常設展示室での展示風景
[ 2017-02-14 ]

県内ケーブルテレビ局との連携を進めます

お知らせ

 日本ケーブルテレビ連盟信越支部長野県協議会と当館は、「番組制作及び放送等による地域連携事業の実施に関する協定書」に調印いたしました。これにより、歴史館の講座やイベントの映像が協議会に加盟している県下33のケーブルテレビ局(エリア内視聴可能エリア405,000世帯)で放映され、より多くのみなさまに歴史館や信濃の歴史を身近に感じていただけるようになります。また、制作された映像を当館でも活用できるよう準備を進めて参ります。なお、このような取り組みは全国的にも例がないものです。

 1月27日に行われた調印式では、日本ケーブルテレビ連盟信越支部長野県協議会の 原 勉 会長と当館 笹本正治 館長が協定書に署名捺印し、協定が締結されました。また、会場には、マスコミ各社が取材に訪れ、関心の高さが伺えました。今後も県民のみなさまが身近に感じ、利用しやすい歴史館をめざし努力を重ねていきます。 

県内ケーブルテレビ局との連携を進めます
調印式の様子(1/27県立歴史館にて)
[ 2017-02-02 ]

防災訓練を実施しました。−文化財防火デー−

お知らせ

 1月26日、当館にて「文化財防火デー」に伴う防災訓練を実施いたしました。文化財防火デーは、昭和24年1月26日に法隆寺(奈良県)の金堂が炎上し、貴重な文化財が失われたことをきっかけに、昭和30年に制定されました。毎年全国各地の文化財所在地で防火訓練が実施されてきています。
 今回の訓練は、当館職員だけでなく、千曲市教育委員会歴史文化財センター、千曲坂城消防本部、千曲市消防団のみなさんも参加しておこなわれた大規模なものでした。当館での訓練では火災発生を想定し、来館者の方々の避難誘導、けがをした方の救護、初期消火訓練を実施いたしました。当館では来館されている方々の安全を確保することを第一に考え、日頃から避難経路や避難方法の確認しております。また、大切な文化財を預かる施設ですので、万が一にも火災が発生しないよう入念な安全点検を実施しております。
 訓練では、ポンプ車やはしご車による放水訓練も行われました。迫力があり、思わず見入ってしまいましたが、このような光景を、実際の災害で見ることがないよう日々防災を心がけていきたいものです。

防災訓練を実施しました。−文化財防火デー−
はしご車による放水訓練
防災訓練を実施しました。−文化財防火デー−
負傷者の搬送訓練
[ 2017-01-26 ]

回想法の講習会が行われました−博物館の新しい活用法−

講座・セミナー

 「回想法」という言葉を聞いたことがありますか。過去のことを回想することで、認知症等の予防につなげようとする健康法です。
 1月13日に当館を会場に、長野県長寿社会開発センター長野支部主催で回想法の講習会が開かれました。講師の日本福祉大学 来島修志先生の楽しい講義、グループでのワークショップ、回想法での活用を見据えた当館の常設展示の見学などを行いました。50名ほどの参加者が熱心に講習に取り組んでいました。
 当館には、昔懐かしい展示が多数あります。江戸時代の農家の復元家屋、大正時代の学校の教室、昭和に使われた洗濯機やミシンなどの家電製品です。展示を見学しながら昔話に花を咲かせているお年寄りの姿もよく見かけます。回想法の講習会に参加させていただき、文化財に触れ、歴史を学ぶだけでなく、このような新しい博物館の活用法があるのだなと感心させられました。
 寒い時期ではありますが、気の合う仲間とぜひ当館に足をお運びただき、昔話に花を咲かせてみてはいかがでしょうか。

回想法の講習会が行われました−博物館の新しい活用法−
当館常設展示室 懐かしい家電製品
回想法の講習会が行われました−博物館の新しい活用法−
「地域回想法を学ぶ」講習会の様子
[ 2017-01-19 ]

やさしい信濃の歴史講座

お知らせ

長野県立歴史館では、長野県の歴史をわかりやすく紹介する「やさしい信濃の歴史講座」を毎年開講しております。今年度の共通テーマは「山と信州のあゆみ」です。

12月24日(土)に行われた第2回「山への憧(あこが)れ」では、「菅江真澄・ウェストン・シュタイニッツアーが見た信州−紀行文から信州の生活誌を探る−」と「SHIGA・KOGENの誕生−山稼ぎの地から国際的リゾート地へ−」の2つの講座が開講され、120名の参加者が熱心に聴講されていました。

今年度の「やさしい信濃の歴史講座」は全7回の予定です。今後の日程と講座内容は次のようになっております。ぜひお出かけください。なお、聴講には観覧料が必要になります。今年度のやさしい信濃の歴史講座開催日に限り有効の「やさしい信濃の歴史講座期日限定券」(700円)も販売しておりますので、ぜひご利用ください。

■第3回 1月7日(土)テーマ:山に棲(す)む
 「黒曜石鉱山からクリ林の里山まで−高低差800mを使い分ける縄文人−」 寺内隆夫(当館職員)
 「北アルプス山中の近世集落−常念岳山腹烏川谷を例に−」百瀬新治 氏(安曇野市豊科郷土博物館 館長)
■第4回 1月21日(土)テーマ:学校と山
 「学校登山のはじまり−長野県師範学校・長野高等女学校−」 市川 厚(当館職員)
 「学校林が果たした役割の変遷−更級・埴科地方を中心に−」 溝口俊一(当館職員)
■第5回 2月4日(土)テーマ:山と美術
 「描かれた「日本アルプス」−江戸から明治へ−」 林 誠(当館職員)
 「山をめぐる信仰とその造形について」 織田顕行 氏(飯田市美術博物館 学芸員)
■第6回 2月18日(土)テーマ:山と神仏
 「活火山・浅間山と信仰」 山田直志(当館職員)
 「九頭竜神のいわれと戸隠信仰の始まり」 渡邉 玄(当館職員)
■第7回 3月11日(土)テーマ:密教寺院と山
 「続・東の牛伏寺・西の若沢寺−山寺の信仰史−」 原 明芳(当館職員)

やさしい信濃の歴史講座
[ 2017-01-04 ]

木曽の宝9−企画展が無事に閉幕−

イベント

11月27日(日)、秋季企画展「木曽の宝」は、無事に閉幕しました。
期間中、多くのお客様にご観覧・ご参加いただきました。

○展示をたっぷり観覧し、木曽の魅力に触れ、「次の週末に木曽に行ってみます」と、東北信にお住まいの方(木曽にはほとんど行ったことがないとのこと)。
○県外からお出でいただき、「長野県にはすばらしい場所がたくさんありますね」と言われていた方。
○「ホンモノの仏像や刀がすごかったよ」との感想を口にしてくれた小学生。
○「木曽馬はかわいいね。保存活動、是非がんばってください」と熱のこもった言葉を伝えていた方。
○「伝統文化を残そうと努力されている木曽の方から学びたい」と、保存会の皆様に積極的に質問していた方。
○「大昔は私の住んでいるところが文化の中心、日本の中心だったんだよ」と豪快に笑われていた方。
○「数十年前、この遺跡発掘のときにね、私は高校生でね、一緒に掘らせてもらったんだよ。懐かしいなあ」と柳又遺跡の石器を見ながら話されていた方。
○「ふるさとのよさを再発見しました。ありがとう」と、感激の声を寄せてくださった方。

木曽からお借りした100余点の「宝」は、12月上旬、元の場所に戻りましたが、今でもたくさんの方々の声や姿が脳裏によみがえってきます。

秋季企画展「木曽の宝」に際しまして、ご観覧・ご参加いただいたすべての方に感謝申し上げます。
ありがとうございました。

木曽の宝9−企画展が無事に閉幕−
木曽からお出でいただいたお客様が展示室に入るところ
木曽の宝9−企画展が無事に閉幕−
木曽の将来を担う子どもたちも多数来館(写真は加工してあります)
[ 2016-12-14 ]

木曽の宝8−またまた木曽馬がやってきた!−

イベント

11月12日(土)13日(日)両日は、秋季企画展「木曽の宝」関連イベントとして、「木曽馬と遊ぼう」を行いました。
今回来てくれたのは、15歳のめす馬・空(そら)号です。
人間で言うとおばあちゃんになりかけの歳だそうですが、それでもまだまだ働きざかりとのことで、元気いっぱいです。

13日には、スペシャルイベントとして、50kgを超す木材を運ぶ馬搬(ばはん)という作業の実演を披露してくれました。
農耕馬として人々とともに生活してきた木曽馬をイメージすることができました。
さらに、引き馬体験ということで、多くのお客様が木曽馬に乗りました。鞍の上に座り、突き上げるような独特の振動を感じながら進み、貴重な体験となったようです。

12日の講座では、木曽馬保存会・中川氏より、木曽馬の歴史と現状についてお話を伺いました。
現在では、全国に150頭弱しかいない木曽馬。その保存活動を担っている方々の「熱意に感動した」という感想が印象的でした。

木曽馬についてじっくり触れ、考えることができた2日間でした。

木曽の宝8−またまた木曽馬がやってきた!−
ホンモノの木曽馬(空号)と当館展示(製作)の木曽馬との貴重なツーショット
木曽の宝8−またまた木曽馬がやってきた!−
引き馬体験の光景
[ 2016-11-24 ]

木曽の宝7−開田高原の伝統芸能に親しむ−

イベント

11月3日(木・祝)には、科野の歴史公園で「森将軍塚まつり」という大きなイベントが行われました。
野外ステージでは20を超す団体による発表がありましたが、その中で、長野県立歴史館の秋季企画展「木曽の宝」に関連して、木曽の文化に触れる機会を設けました。
開田高原の民謡保存会「ゆるり会」、開田小学校6・2年生、地域協議会のみなさまによる発表もありました。
「開田嫁入り唄(こちゃ節)」「開田高原姫獅子舞」を披露していただきました。

開田嫁入り唄…娘を嫁がせる父親の切ない気持ちを唄っています。現在でも婚礼や酒の宴で唄われることがあります。もともとは単にこちゃ節と言っていましたが、後の世に開田嫁入り唄と新たに名付けられました。

開田高原姫獅子舞…開田高原把之沢(たばのさわ)地区で、かつて祝い事の際に舞われていたのが姫獅子舞です。江戸時代の物語を唄と舞いにしたものといわれています。

唄は、大人から子どもまで、元気よく、それでいて切ない気持ちを感じる声でした。
獅子舞は、笛太鼓、舞い、唄が実にすばらしく、最後の口上も迫力満点でした。
開田高原に伝わる伝統芸能を見ることができ、観客の方々から「大感激」との声が聞かれました。
なお、長野県立歴史館の常設展示室入口では、現在、その映像をご覧いただくことができます。

木曽の宝7−開田高原の伝統芸能に親しむ−
「開田高原姫獅子舞」発表
木曽の宝7−開田高原の伝統芸能に親しむ−
「嫁入り唄」の発表(写真は加工してあります)
[ 2016-11-23 ]

木曽の宝6−大桑村の伝統芸能に親しむ−

イベント

11月3日(木・祝)に、科野の歴史公園では「森将軍塚まつり」という大きなイベントが行われました。
野外ステージでは20を超す団体による発表がありましたが、その中で、長野県立歴史館の秋季企画展「木曽の宝」に関連して、木曽の文化に触れる機会を設けました。
大桑村の須原ばねそ保存会と大桑小学校6年生のみなさんには、「須原ばねそ」「木曽踊り」を披露していただきました。

須原ばねそ…須原ばねそは、大桑村須原地区で古くから唄われる民謡・盆踊りです。ばねそとは、はね踊る衆という意味で、楽器を用いない3種類の地唄を総称して須原ばねそと呼びます。600余年前に京都の文化が人の往来とともに木曽に入り、庶民文化として定着しました。

木曽踊り・木曽節…木曽節は木曽で生まれた日本を代表する民謡の一つです。現在の盆踊りのスタイルは、大正から昭和にかけて整理・普及されたものです。

お揃いのはっぴを着て、息の合った踊りを見せてくれました。
大桑村に伝わる伝統芸能を見ることができ、観客の方々から「大満足」との声が聞かれました。
なお、長野県立歴史館の常設展示室入口では、現在、その映像をご覧いただくことができます。

木曽の宝6−大桑村の伝統芸能に親しむ−
「須原ばねそ」の発表
木曽の宝6−大桑村の伝統芸能に親しむ−
当日は大勢のお客様がいらっしゃり、晴天のもと、イベントを楽しみました
[ 2016-11-22 ]

木曽の宝5−イベント満載の企画展です!−

イベント

秋季企画展「木曽の宝」では、木曽の文化に触れる関連イベントを行っています。
10月10日(月・祝)には、「南木曽町田立の伝統芸能に親しむ」として、花馬祭り、歌舞伎の紹介を行いました。
伝統文化が現在まで続くにあたっては、地域の皆様の熱い思いが大きな支えになっていることを知りました。
途中には、子どもたちと保存会の方々がお囃子の実演をしてくれました。
(写真1=お囃子の実演)
イベント終了後には、花馬の背にある「花」や木曽檜箸のプレゼントもありました。
(写真2=「花」のプレゼント)
木曽に伝わる文化に触れることができる、貴重な場となりました。

10月15日(土)は、「《トークセッション》ここまでわかった木曽の古代」として、考古学と文献学の2つの立場による調査結果や知見を紹介しました。
「横断的な内容で、大変おもしろく拝聴しました。このような幅広い視点の学説がこれからも聞きたいです!」「原、福島両先生の連携がすばらしいトークでした」「トークセッション方式は新鮮でおもしろく、楽しく聞けた。またしてほしい!」など、内容に満足とのご意見を多数頂戴しました。
終了後には、充実した内容のギャラリートーク(展示解説)も行いました。

10月22日(土)は、笹本正治当館館長による「木曽の宝」と題した講演会を行いました。
「木曽の魅力を堪能できた」「実際に木曽に行ってみたい」などの声が寄せられ、木曽をより深く知っていただけたと思います。

   *

「木曽の宝」関連イベントは、まだまだ続きます。

11月3日(木・祝)には、大桑村、木曽町開田高原に伝わる唄や踊りを、現地の子どもたちや保存会の皆様が発表してくれます。
南木曽町を中心とする木曽の物産展も行います。
周辺一帯では、森将軍塚まつりとして各種イベントが盛大に行われますので、是非お出でください。

11月12日(土)、13日(日)には、県天然記念物に指定されている木曽馬が再び登場します。
近くで見たり、写真を撮ったり、引き馬体験(簡単な乗馬)もできます。
木曽馬は日本で昔から飼育されてきた馬の一種です。全国でも百数十頭しかいません。
そのような木曽馬に触れる貴重な機会です。
木曽馬の歴史についての講座(12日)も行いますので、皆様のご来館をお待ちしております。

イベント満載の「木曽の宝」展の開催も、折り返し点を過ぎました。
展示替えを行い、10月25日からは後期の展示となっています。

木曽の宝5−イベント満載の企画展です!−
写真1
木曽の宝5−イベント満載の企画展です!−
写真2
[ 2016-11-01 ]

木曽の宝4−木曽馬が歴史館に登場−

イベント

平成28年度秋季企画展「文化の十字路 木曽の宝」開催中です。
皆様のご来館を心よりお待ちしております。

この企画展では、木曽の文化に触れるイベントを多数予定しています。
9月24日(土)には、県天然記念物に指定されている木曽馬が登場しました。

開田高原(木曽町)から歴史館に来てくれたのは、平成10年生まれの牝馬(メス)、菜々ちゃんです。
木曽馬は、日本在来馬としての特色をよく備え、温順で人なつっこい性格と言われます。
菜々ちゃんも、やさしい目をした大変に落ち着いた馬でした。
声を掛けると顔を見てくれたり、「足の裏はどうなっているの」と言うと足を上げてくれたりと、賢い馬でもありました。

木曽馬は、11月12日(土)13日(日)にも登場します。
また、企画展示室でも、第4章として、木曽馬を取り上げています。
あわせて是非ご覧ください。

木曽の宝4−木曽馬が歴史館に登場−
菜々ちゃんのアップ
木曽の宝4−木曽馬が歴史館に登場−
木曽馬に乗る少女
[ 2016-09-30 ]

木曽の宝3−開幕のご案内−

イベント

平成28年度秋季企画展「木曽の宝」が開幕しました。
皆様のご来館を心よりお待ちしております。

ここで、「木曽」について、改めてご説明します。
木曽郡は、長野県の西端に位置します。
(写真1=企画展示室廊下のパネルの一部)
現在の長野県を4つ(北信、東信、中信、南信)に分ける区分では、中信に所属します。
昭和30年代の「昭和の合併」以降は11町村(楢川村、木祖村、日義村、木曽福島町、開田村、三岳村、王滝村、上松町、大桑村、南木曽町、山口村)の木曽郡(旧西筑摩郡)でしたが、「平成の合併」で6町村となりました。
(※楢川村は塩尻市、山口村は岐阜県中津川市へ。日義村、木曽福島町、開田村、三岳村は合併して木曽町へ。)

今回の企画展では、北は旧楢川村から南は旧山口村まで、計8つの市町村すべてから展示資料を出品いただいています。
各地に伝わる貴重な資料の数々が集まりましたので、通常の企画展示室に加えて、第2展示室、廊下のポスター展示、さらには常設展示室にも「木曽の宝」展示資料・関連展示があります。
(写真2=廊下には8市町村によるポスター展示)
また、7〜8月の夏季企画展「夢をのせた信州の鉄道」でご好評をいただいた「木曽森林鉄道レトロムービー」映像も、リニューアル版をご覧いただけます。

木曽在住や出身の皆様には、郷土のすばらしさを再発見いただける企画展になればと願っています。
また、普段は木曽に馴染みのない皆様にも、歴史の香り豊かな木曽地域の文化財に触れていただき、長野県のもつ魅力やすごさを感じていただければと思います。
この秋、是非、長野県立歴史館にご来館ください。

木曽の宝3−開幕のご案内−
写真1
木曽の宝3−開幕のご案内−
写真2
[ 2016-09-28 ]

木曽の宝2−山の恵み・山菜−

イベント

「山菜の王様」というと、何を思い浮かべるでしょう。
タラの芽、コシアブラ、ワラビ、……

6月下旬、当館笹本館長が大桑村で講演会を行いました。
休憩時、館長が山菜の話題を出したところ、地元の方々が大桑村の山菜について詳しく教えてくださいました。
その話の中で出てきたのが「シオデ」。
なかなか手に入らないものなので、人によっては「山菜の王様」と呼ぶようです。
とは言うものの、さすがは地元の方々。即座に「あの山の斜面に生えているよ」などと口にされ、あっという間に何本も取ってきてくださいました。

私(企画展担当者)もお相伴にあずかり、数本頂戴したため、帰宅後さっそく調理してみました。
と言っても、軽くゆでただけで、調味料を使わずにそのままいただきました。
「山のアスパラ」とも称される理由がよくわかり、大変おいしかったです。
普段いただくことのできない貴重な味・食感に感激しました。

木曽は豊かな森林に囲まれ、その森林資源が人々の暮らしを豊かに潤してきました。
山菜は山の恵みそのものです。ここにも「木曽の宝」を見ることができます。

秋季企画展「木曽の宝」では、森林資源により生み出された優れた工芸品などを展示します。

*

先頃、秋季企画展「木曽の宝」のチラシやポスター類ができあがりました。開幕まで2週間あまりです。
チラシやポスターは当館及び公共機関などで掲示・配布中です。ホームページ上でも一部ご覧いただけます。

木曽の宝2−山の恵み・山菜−
木曽の宝2−山の恵み・山菜−
[ 2016-09-07 ]

木曽の宝1−食の文化財の宝庫・木曽−

イベント

木曽郡全域のほか、松本市奈川、伊那市西箕輪などでつくられるこの食べ物、ご存知でしょうか。
(写真)
正解は、朴葉巻[ほおばまき]です。

朴葉巻は、あんこを餅で包み、それを葉っぱに包んだ食べ物です。
ホオの木はモクレン科の落葉高木で、長野県では標高1,000m前後の山地帯に自生しています。
ホオの葉には殺菌力があるとされるので、朴葉巻は保存食の一種ともいえます。

長野県は、文化財保護法に掲げられていない食物を対象に、昭和58(1983)年7月、「食(味)の文化財」を指定しました。
最初の指定は、手打ち蕎麦(蕎麦切り)、焼き餅(お焼き)、御幣餅[ごへいもち]、すんき漬、野沢菜の5品目でした。
朴葉巻は、その十数年後、平成13(2001)年3月に長野県選択無形文化財に指定されます。

長野県の西端に位置する木曽地域は、食文化の豊かな地域です。
前述5品目のうち、すんき漬は木曽特有の食べ物ですし、蕎麦切り、御幣餅なども木曽と関係があります。
平成12(2000)年3月には、王滝村の万年鮨が長野県選択無形文化財に指定されるなど、まさに、食の文化財の宝庫ともいえます。

長野県立歴史館では、9月17日(土)より、秋季企画展「木曽の宝」を開催します。
木曽の貴重な文化財等を一堂に集め、ご紹介します。
普段はなじみのない皆様を含めて、多くの方に、木曽の文化に触れていただければと思います。
どうぞお楽しみに。

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今後、「木曽の宝」に関係する木曽地域や企画展の話題や写真をご紹介していきます。

木曽の宝1−食の文化財の宝庫・木曽−
木曽の宝1−食の文化財の宝庫・木曽−
[ 2016-09-01 ]

失われた鉄路をたどる9 明治時代の土木技術をみる

イベント

 本展示で、問い合わせの多い古写真に目録?21「篠ノ井線西条ー明科間淀ケ沢地区の工事」があります。旧篠ノ井線、安曇野市内の淀ケ沢で煉瓦積み橋梁(暗渠)を造り、その上に大規模な足場を組んで土砂を運ぶ途上、記念写真を撮ったものです。古い文献には「大正時代に起きた土砂災害の復旧工事」と記された例もありますが、所蔵者の話(安曇野市教育委員会経由)や工事内容から、明治時代の篠ノ井線建設当時の写真で間違いないようです。
 注目を浴びる理由の一つは、その勇壮な?作業スタイル(企画展示室か図録で見てください)。二つめは、今どうなっているのか?ということのようです。安曇野市教委によると安曇野市東川手地籍「けやきの森自然園」近くにあたるとのことです。残念ながら、大正時代に大規模な土砂災害があったため、コンクリート製の小規模な暗渠に変わってしまっています。ただし、線路敷までの盛土は健在です。
 小規模な煉瓦造り橋梁と大規模な盛土の組み合わせは、大規模な橋梁を造るよりもお値段的に安あがりで、近くのトンネル廃土を使える利点もあったようです。現在残っている類例には、淀ケ沢から歩いてすぐの小沢川に架かる橋梁と盛土に見ることができます。また、歴史館から最も近い場所では、現在も活躍中の篠ノ井線(千曲市内)で見ることができます。
 小沢川橋梁は煉瓦の積み方に特色があり、美しい仕上がりになっています。このシリーズで紹介した漆久保トンネルの直下ですので、併せてご覧になることをお勧めします。千曲市滝沢川橋梁の近くにも龍洞院架道橋(ともに登録有形文化財)があります。

失われた鉄路をたどる9 明治時代の土木技術をみる
旧篠ノ井線小沢川橋梁と盛土(安曇野市) 淀ケ沢の隣接地で類似工法が現存、盛土はさらに上まで
失われた鉄路をたどる9 明治時代の土木技術をみる
篠ノ井線:滝沢川橋梁(千曲市) 盛土は少ないが、歴史館から一番近い場所にある
[ 2016-08-11 ]
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