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河童だより4 河童登場!

お知らせ

 江戸時代に入ると、いよいよ河童の活躍が始まります。水を制御する技術が進むと、水への畏れが薄らぎ、河童が誕生します。最初に「河童」という言葉が現れたのは室町時代の辞書である「下学集」と言われていますが、河童を実在する生き物として世に広めていったのは、江戸時代の本草学者たちでした。本草学とは、もともと中国で生まれた医薬に関する学問でしたが、日本に伝わると、対象を広げ、博物学として発達していきました。本草学者は、百科事典としての本草書を作成する中で、それまで各地に伝わっていた伝承をもとに、河童がどのような生き物であるのかを追究していったのです。そこには、現代の河童のイメージにつながる特徴も記されています。
 江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には、河童が「川太郎(かはたろう)」と紹介されています。西国、九州の谷間、池、川に多く生息し、10歳くらいの子どものようで人の言葉を話す生き物とされ、頭に皿があり、水がなくなると力が出なくなると記されています。また、全身が毛で覆われた「川太郎」の図が紹介されています。描かれた河童としては初期のものと思われます。背や腹には甲羅が見られず、どちらかというと、サルに近い風貌になっています。
 実在する生き物として扱われていた河童なので、この後、捕獲・目撃された河童たちがつぎつぎに登場していきます。

河童だより4 河童登場!
『和漢三才図会』に紹介されている「川太郎」
河童だより4 河童登場!
和漢三才図会 1712(正徳2)年
[ 2018-06-28 ]

河童だより3 河童はウマが大好き!

お知らせ

 河童の大好物といえば「キュウリ」を思い浮かべる方が多いと思いますが、他にも「シリコダマ(肛門の奥にあるといわれる架空の臓器)」や「相撲」、「ウマ」が文献や伝承に登場します。
 県内に数多く残る河童の伝承の中で、最も多く登場するが「ウマ」です。河童はウマを見ると、飛びついて水に引き込もうとします。ほとんどの場合は失敗し、人間に捕まってしまうので、成功率は低いと思われますが、それでも飛びついてしまうのです。
 柳田国男をはじめとする多くの民俗学者が、河童の正体は水神が零落したものであると唱えています。かつて、水神に対する信仰は厚かったのですが、信仰が薄らぐ中で水神は河童へと零落したというものです。その根拠の一つが河童が馬を水に引き込む「河童駒引」です。水神へウマを供えていた習慣のなごりが、河童駒引きへとつながっているというものです。
 今回の展示では、河童が登場する江戸時代以前の人と水との関わりがわかる考古資料も展示しています。その中の一つが水辺の祭祀用のお供えと考えられる「ウマ下顎骨」(飛鳥時代 千曲市屋代遺跡群出土 当館蔵)です。大切なウマをお供えするわけですから、それだけ水に対する思いも強かったことが予想できます。河童が本格的に登場するのは江戸時代以降ですが、それ以前の人と水との関わりについての展示も、河童につながる興味深いものになっています。夏の企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」は7月29日(日)まで開催しております。ぜひお越しください。

河童だより3 河童はウマが大好き!
ウマ下顎骨 飛鳥時代 千曲市屋代遺跡群出土
河童だより3 河童はウマが大好き!
河童駒引イメージ
[ 2018-06-26 ]

河童だより2 河童の顔出しパネルがお待ちしています!

お知らせ

 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」では、河童が活躍し始める江戸時代以降の資料だけでなく、河童が誕生する前の人と水との関わりに関する考古資料など、100点以上を展示しています。資料をじっくり見ていただき、人と水との関わりを象徴する河童の姿を感じ取っていただければと考えています。しかし、見どころは企画展示室の中だけではありません。展示室前には、河童の顔出しパネルが皆さんをお待ちしています。リアルな河童の姿に一瞬とまどいを感じるかも知れませんが、観覧者のみなさまには好評で、連日多くの皆さんが撮影をされています。パネルの背景には、水をイメージした青いシートが敷かれています。
 ぜひみなさんも、夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」にお越しいただき、河童と出会ってください。

河童だより2 河童の顔出しパネルがお待ちしています!
[ 2018-06-21 ]

河童だより1 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」がはじまりました。

お知らせ

 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」が6月16日(土)より開催されています。オープニングでは、河童が薬の作り方を教えてくれた伝承が残る駒ヶ根市の本多教育長様と長野県教育委員会の原山教育長、当館の笹本館長がテープカットを行い、7月29日(日)までの展示がスタートしました。午後には、関西学院大学教授の西山克先生による講演「妖物の誕生」があり、展示と合わせ、大勢のみなさまにご参加いただきました。
 はっきりとしない梅雨空が続きますが、こんな天候こそが「河童日より」です。ぜひ、当館夏の企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」にお出かけください。

河童だより1 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」がはじまりました。
河童だより1 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」がはじまりました。
[ 2018-06-19 ]

夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」 6/16(土)〜7/29(日)

お知らせ

平成30年度夏季企画展
君は河童を見たか!−水辺の出会い−
開催期間:平成30年6月16日(土)〜7月29日(日)

 水は人にとって必要不可欠である一方、災いをもたらす原因でもありました。そのため、水と人の接点となる水辺は、生産の場であると同時に祈りの場でもありました。やがて水を制御できると考えはじめると、圧倒的な力を持つ神ではなく、河童が姿を現します。
 水辺に暮らす河童は、人が暮らす世界と水の世界を往き来し、人に幸を運んできたり、あるいは恐怖を与えてきたりしました。そして、人に寄り添いながら、時代とともに立場を変えていきます。
 本展示では、各時代における河童のイメージを通して、人の水に対する意識の変化を示します。そのことを通して、県内の水にまつわる景観を再認識し、河童ともども水辺への関心が高まることを願います。

○求む!河童情報 メール rekishikankappa@outlook.jp まで

○主な展示史資料
・「蛙状装飾付有孔鍔付土器」中越遺跡出土 縄文時代中期 宮田村教育委員会蔵
・「銅鑵子」長野市松代町大鋒寺蔵
・「寛永年中豊後肥田ニテ捕候水虎之図」 川崎市市民ミュージアム蔵
・「河伯手(河童の手)」 江戸時代 個人蔵
・月岡芳年「錦絵 和漢百物語 白藤源太」 江戸時代 国立歴史民俗博物館蔵
・「『つうふうの妙茶』内包紙下書」 天竜かっぱ広場おもしろかっぱ館蔵
・小川芋銭「河童百図第六十五図 カッパ」昭和12年 牛久市蔵

○講演会「妖物の誕生」
6月16日(土) 13:30〜15:00
講師:関西学院大学文学部教授 西山 克 氏

○関連講座
7月14日(土) 13:30〜15:00
「河童が登場するまで−水と人との関係史−」
講師:寺内隆夫(当館職員)
「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」
講師:溝口俊一(当館職員)

夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」 6/16(土)〜7/29(日)
「銅鑵子」長野市松代町大鋒寺蔵
夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」 6/16(土)〜7/29(日)
夏季企画展ポスター
[ 2018-05-17 ]

古文書公開日誌12 書判と印判の「判物」

お知らせ

5月の連休も終わり、日常生活に戻りました。古文書整理作業もこれからも順調にすすめていきます。
 さて、当館に収蔵される古文書はどういうルートではいってくるかご存知ですか。
 1つは書店から購入する方法です。各月、県外の古書店から「古書目録」が送付されてきます。そのなかで県内関係の古文書をピックアップします。場合によっては、該当する市町村の担当の方に情報を提供し状況を共有しています。
 第2は寄贈・寄託というルートです。個人の所有者の方から寄付されるものが「寄贈」、緊急避難的に史料をお預かりするのが「寄託」。とくに近年では、土蔵を壊した際に古文書が保管できなくなったというお話もたびたび耳にします。「古いものだから」といって焼却したり、ごみとしてしまうと、ご先祖様の大切な記録が永久に失われます。そんなときなどお困りのことがありましたら、捨ててしまう前に当館までご一報いただければ幸いです。地元の教育委員会様と連携しながら適切な解決方法が見出せればと思います(ただし収蔵スペースの問題もあり当館でのお引き受けを確約するものではありませんが)。
 さて5月には飯田藩士杉本家文書(寄託史料)を整理しました。
 系譜によると、杉山家はもともと烏山藩(栃木県)初代堀親良に仕官したといいます。堀家御普請奉行・代官を勤め、その後堀家が飯田に転封になって飯田藩士となった家です。最後は300石高の知行取でした。
 藩士の家の史料は、様ざまな書簡や知行証文、借用証文、家の芸能書(故実書)など多様な史料で構成されています。しかし本史料群には、系譜および歴代藩主より与えられた知行判物しか残っていません。ある段階で家の重要書のみが分けられそれ以外は散逸したのでしょうか。
 この史料は飯田藩主のうち初代を除く代々の藩主からの判物が含まれています。判物とは、将軍や藩主の花押の据えられた文書で知行の給与がおこなわれるものです。また本史料群には同じ家に対して黒印状による知行安堵も見られます。書判の「判物」と印判の「判物」の差は、前者が重臣ランク、後者はそれ以下の武士対象、という言わば「家格の高低」の差によるとされます。杉本家はその中間にあったランクの家といえるのでしょうか。

古文書公開日誌12 書判と印判の「判物」
元文3(1738)年 堀親蔵判物
[ 2018-05-09 ]

ナウマン君復活!

お知らせ

 常設展示室入口のナウマン君(ナウマンゾウのオス模型)が復活しました。
 22歳を過ぎた頃から体調をくずし、首を振ってごあいさつできなくなっていました。この春、二度目の手術が成功し、ようやく元気になりました。春先に見学に来てくれた人たちから「動かなくて残念だな」という声をたくさんいただきましたが、もう大丈夫です。今まで以上に大きく首を振ってごあいさつできるようになりましたので、みなさん、会いに来てください。
 また、縄文時代の竪穴住居の中で、縄文人に捕まって吊されていた、という設定だったキジが移動しました。お気づきになったでしょうか。今年度は自由の身になって、阿久ムラの中のとある場所で、活き活きとムラの様子をうかがっています。どこに居るか探してみましょう。また、一昨年からムラの中をうろうろしているウ〜リ〜ちゃん(イノシシの幼獣=うり坊)も健在です。縄文時代のムラは、動物たちが出入り自由な空間だったことを感じていただければ幸いです。
 ウ〜リ〜ちゃんは、今年度も居場所が時々変わりますので、楽しみにしてください。どこに行ったかは、時々、このブログでご報告します。

ナウマン君復活!
ナウマン君復活!
[ 2018-05-05 ]

古文書公開日記11−宝寿院殺人事件−

お知らせ

 平和な江戸時代の農村。しかし突然、村中を揺るがす事件が起こることもあります。埃だらけの文書のなかから、突如殺人事件の記録が出てきました。
 ときは1724(享保9)年9月。小県郡のある村で事件は起こりました。9月14日の夜半、手塚新町村(上田市)在住の六兵衛がこの村の住民によって不意に打ち殺されたというのです。早速取調がおこなわれました。山伏の宝壽院という下手人がいうには、「自分の村で夏に出火があり、村人が用心していた、秋になり六兵衛が来村し村人に絡んできたので怪しいやつだと思っていた、そしてその日の夜六兵衛が又三郎という男の家に入り込んだのです、又三郎当人は不在で母親だけが寝ていたが、彼女は驚き、私の所へ通報してきた。夜半であったので私も様子をうかがい(翌日役所へ)届け出ようとしたが、もってのほかのことに六兵衛が悪口を浴びせてきて脇差しで抵抗してきたのです。私と打ち合いになりました。そして当たり所が悪かったのか、六兵衛は即死してしまった。六兵衛は当村のあた(仇)であると思ったので打ち殺したが、役人に届け出ず報告が延行してしまったのは当方の不調法です」と弁明しています。これに対し、妻は「夜中であったので寝ていたのでまったくわからない」と答えています。村名主らも「村内外において宝壽院を手伝ったものは壱人もいない、また今後一切この件について難癖をつける者がおりませんことを連印してお誓いします」と述べています。
 これらからは緊迫感の伝わる文書が何通も含まれています。これらは現在整理中ですが、面白い文書だったので紹介しました。これらは「小県郡関係地方(じかた)文書」として近々目録が完成する予定です。

古文書公開日記11−宝寿院殺人事件−
古文書公開日記11−宝寿院殺人事件−
[ 2018-04-14 ]

常設展示室に河童形土偶が登場

お知らせ

 3月の常設展示室リニューアルに合わせ、初めてお披露目する資料を縄文コーナーに登場させました。千曲市屋代遺跡群(高速道地点?区)の地下6mで発見された、縄文中期前葉(約5,500年前)のムラ跡から出土した土偶です。
 そんなに深い所に埋まっていたのだから、完全な形で残っていても良さそうなものですが、すべてバラバラな状態で見つかっています。実は全国的にみても、約20?以下の小形の立像土偶には、完全な形をしたものがほとんどありません。これは、祭りや呪いなどに使われた後、わざと壊してしまったためと考えられています。この点は、丁寧に埋められていた国宝「縄文のビーナス」(複製を展示)などの大形の立像土偶とは明らかに扱い方が違っています。
 さて、屋代遺跡群の土偶を見ると、頭の上が真っ平らか、わずかに凹んでいることがわかります。こうした特徴は、縄文時代中期の長野県北半部〜北陸・新潟方面に多くみられ、現代の考古学者たちは「河童形土偶」と呼び習わしています(縄文人が何と呼んでいたかは不明です)。
 どうして、こんな頭の形をしているのでしょうか。土偶は、精霊(カミ)の姿を表現したものと考えられています。そのため、人間に似せていたとしても人間ではないことを示すため、形やバランスを変えていたようです。頭が平らな方が、何か特別な力が出ると考えたのでしょうか。そのあたりの事情も、今ではわからなくなっています。みなさんも想像をふくらませてみてください。
 河童形土偶は、夏季企画展「君は河童を見たか!」(6月16日〜7月29日)の期間中も常設展示室で展示しています。ぜひ、あわせてご覧下さい。

常設展示室に河童形土偶が登場
[ 2018-03-24 ]

長野県立歴史館「信州を学ぶ」シリーズの発刊

お知らせ

 長野県立歴史館では、「信州を学ぶ」シリーズ第1弾・足元を探る編として、『日常生活からひもとく信州』を発刊します。
 信州の衣食住にかかわる歴史をさまざまな角度からわかりやすく掘り下げた1冊です。
 当館ミュージアムショップでは、3月21日(祝・水)から発売します。
 どうぞお買い求めください。

●編著者:長野県立歴史館
●出版社:信濃毎日新聞社
●種 類:単行本(ソフトカバー)
●頁 数:226ページ

長野県立歴史館「信州を学ぶ」シリーズの発刊
[ 2018-03-10 ]

カプセルトイに新シリーズ「ふにわ」登場!

お知らせ

来館したみなさまに好評な当館1階エントランスのカプセルトイに新シリーズが加わりました。やわらかい埴輪「ふにわ」です。1回200円で、全7種類があります。何とも愛嬌のある表情で、持つと想像以上のやわらかく、こちらの力も抜けそうです。日頃感じている緊張感をほぐしてくれます。お子様にも人気が出そうです。
「ふにわ」以外にも変わらぬ人気を誇る「埴輪と土偶+土器&青銅器」(1回200円)、コップの縁にかけることができる「土偶と埴輪」(1回300円)、子どもたちに人気の「武将甲冑フィギュア」(1回300円)もあります。当館見学の記念にいかがでしょうか。

カプセルトイに新シリーズ「ふにわ」登場!
カプセルトイに新シリーズ「ふにわ」登場!
[ 2018-03-09 ]

河童とヒョウタン

お知らせ

ご存じのとおり、河童の好物といえばキュウリなどのウリ(瓜)です。一方、苦手なのがヒョウタン(瓢箪)です。いずれも、日本列島で古くから食用や道具の材料として重宝されてきた栽培植物で、水や水の神様と関わりの深い使い方もされてきました。
 河童が水分をたっぷりのウリを好むのはわかります。では、なぜヒョウタンが苦手なのかと言うと、その浮力にあるようです。『まんが日本昔ばなし』の「かっぱとひょうたん」では、河童が「田んぼに水を引くかわりに娘を嫁にくれ(水中に引き込む)」と条件を出しますが、機転の利く娘が「嫁入り道具の大きなヒョウタンを運んで」と答えます。河童はどんなに頑張っても浮いてしまうヒョウタンに根負け、自分が田んぼの水を抜いたことを白状して詫び、その後は、無条件で水を引いてくれるようになった、という話です。熊本では、河童はヒョウタンを持った人を見ると逃げる、との話もあります。
 似た話で最も古いのは『日本書紀』仁徳天皇11年(古墳時代)、現在の淀川(大阪府)に茨田堤(まんだのつつみ)を作る際、神のお告げで人柱にされることになった茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)が「真の神なら、ひさご(ヒョウタン)を沈めてみろ」と返答、沈まないのをみて難を逃れた、という話があります。
 水界に引き込まれ(溺れ)ないためのヒョウタン、引き込めない河童=真の神ではない、よって河童はヒョウタンが苦手、ということのようです。
 蛇足ですが、近・現代になって描かれた河童は、そんなことはお構いなしに、ヒョウタン徳利に入ったお酒をたしなむようになります。河童も成長?したのでしょうか。
 前置きが長くなりましたが、県内では、長野市篠ノ井遺跡群の古墳時代の井戸枠のさらに下から、たくさんの土器とともにヒョウタンが出ています。この場合、ヒョウタンが浮いてくることを期待されていないので、井泉の神への捧げものの一つだったのかもしれません。
 ※「君は河童を見たか!−水と人の関係史-」展 6月16日(土)〜7月29日(日)

河童とヒョウタン
井戸底近くまで広く掘削し、井戸枠を取りあげる
河童とヒョウタン
井戸枠をはずすと井戸底からヒョウタンが出土
[ 2018-02-16 ]

古文書公開日記10−古文書愛好会 今日もゆく−

お知らせ

 毎年恒例の古文書愛好会演習の季節です。古文書愛好会は、当館の古文書講座を数年受講された方々で、さらに実力を付けたいという方が中心になって結成された学習サークルです。現在約60名の方が参加されています。そのなかで、冬季に当館の未整理文書群の読み込みをおこない、粗目録を作成し整理する作業が「古文書演習」です。本年度は佐久郡上平尾村森泉家文書、水内郡古山村戸谷家文書、そして埴科郡森村中澤家文書の整理をおこなっています。今年は30名の参加で2月末まで計18日間開催します。いずれも昨年度および今年度に当館へ寄贈された史料です。まったく未見の史料ですので、一通一通何が出てくるかワクワクしながらの作業です。古文書読解は、当時生きていた人びとの「生の文字」を読むものです。そこから江戸時代の人の声やにおいが伝わってきそうです。なのでコピーや写真では分からない発見もしばしばです。
 整理するのは古文書だけではありません。今日も近世後期の和歌結社(サークル)の連歌短冊や、養蚕関係の蚕種紙、和宮降嫁時の助郷役の苦労談などがでてきました。江戸時代の庄屋は地域の文人の集まる場でもありました。中澤家の当主を描いたと思われる肖像画、きっとお酒が好きだったのでしょうね。作業されている最長老のTさんに似ているともっぱらの評判です。
 愛好会にご関心のある方は、事務局(県立歴史館文献史料課)までお問い合わせ下さい。大勢の方に古文書へ興味を持っていただければ幸いです。

古文書公開日記10−古文書愛好会 今日もゆく−
江戸時代の一人酒(森村中澤家文書)
古文書公開日記10−古文書愛好会 今日もゆく−
愛好会の整理作業風景
[ 2018-02-14 ]

復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示

お知らせ

 昨秋の企画展「進化する縄文土器」にあわせ、常設展示室の縄文コーナーも縄文中期の土器が大半を占めていました。ご堪能いただけたでしょうか。1月からは、徐々に縄文人の生活全般がわかる展示に戻していく予定です。
 その第1弾として、1月11日(木)より、長野市松原遺跡出土の「の」字状石製品など、装身具5点を復活させました。当館HPのトップページや「展示のご案内(原始)」に写真を載せていた優品です。待望されていたみなさん、お待たせいたしました。
 松原遺跡の装身具は、縄文時代前期末〜中期初頭(約5,700〜5,500年前)のものです。玦状耳飾(けつじょうみみかざり)は、縄文時代前期に流行した耳飾で、原形は中国大陸にあります。残念ながら上部が割れているので、図を参考にして全体像をご確認ください。素材の石は白っぽい緑泥岩を使っています。残りの4点は、ちいさな孔にひもを通して胸元に下げた垂飾(たれかざり)です。素材の石は、つやのある深い緑色をした蛇紋岩を使っています。新潟県糸魚川市や周辺が原産地で、木を伐りたおす斧(磨製石斧)の材料に使われたひじょうに硬い石です。そんな石を、ギターのピックのようになるまで薄く磨きあげ、形を整えるのは、たいへんな作業だったと考えられます。
 すぐ隣りには、原村阿久(あきゅう)遺跡出土の装身具を展示しています。こちらも縄文時代前期ですが、松原遺跡より古い前期前葉〜後葉(約6,600〜5,800年前)のものです。玦状耳飾は全体に丸い形をしており、流行の違いが感じられます。その他の垂飾品は、丸い石や管状の石に孔を空けただけで、松原遺跡よりも簡素な印象です。
 みなさんは、どちらがお好みでしょうか。常設展示室で品定めをするとともに、縄文人の技術力の高さや、おしゃれの意味(女性に限らず、男性有力者や呪術者だったかも)に思いを寄せててみてください。

復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示
長野市松原遺跡出土の装身具
復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示
原村阿久遺跡出土の装身具
[ 2018-01-17 ]

古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−

お知らせ

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。新年早々新しい購入史料の整理が終わりましたのでご紹介します。今回ご紹介するのは「高島藩医関家文書」10点です。江戸時代の地方の医者の系譜類が残されています。
 関氏は佐久源氏平賀氏の流れで、戦国時代は木曽義昌、ついで諏方頼重に仕えていました。頼重の死後、武田氏の家臣となり50石の地侍として仕官し、江戸時代は高島藩士となります。
 高島藩の医師としての活動が見いだせるのは江戸時代中期1738(元文3)年、盛信の孫盛喜が江戸の医師大澤玄随に学んでからです。盛喜は玄悦を名乗ります。 
 興味深いのは玄悦の経歴です。高島藩士でありながら、玄悦は尼崎藩松平氏の扶持を得ていました。三人口(扶持)という少禄でした。さらに鳥羽藩藩主稲垣氏に召し抱えられ、扶持米も増えました。家の歴史を記した系譜「家乗(かじょう)」によれば鳥羽藩時代には藩主から白無垢着用、帯刀も免許されたと記されています。そしてふたたび諏訪へ戻ることになり、上諏訪へ転居したのが1785(天明5)年でした。諏方氏ゆかりの頼岳寺に祀られました。
 以上の「家乗」の記述からは、武士でありながら医業に携わっていた関家の経歴がわかるのですが、興味深いことは、藩医として各藩のお抱えとして仕官先をたびたび代えていたことです。医業は専門職で、求めに応じて仕官先を転々としたことがわかります。
 まるで江戸時代の「Doctor X」と言えるのではないでしょうか。

古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−
写真1 「系譜」関氏の武士としての出自が記される
古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−
写真2 関玄悦の項
[ 2018-01-11 ]

SJD91総選挙!集計結果

お知らせ

 秋季企画展「進化する縄文土器」で実施した人気投票「SJD91総選挙」(S:進化する、J:縄文、D:土器、91点)には、1,363票もの投票をいただきました(複数回答有効)。ありがとうございました。上位20位までのランキングは以下の通りです。

 1位 群馬県渋川市    道訓前遺跡  40 デカい焼町    150票
 2位 山梨県南アルプス市 鋳物師屋遺跡 68 踊る精霊    142票
 3位 山梨県北杜市    竹宇?遺跡  64 樽子ちゃん     76票
 4位 長野県御代田町    川原田遺跡   36 これぞ焼町      73票
 5位 山梨県南アルプス市  鋳物師屋遺跡  70 お猿さん(土製品) 69票
 6位 新潟県糸魚川市    六反田南遺跡  22 緻密な流線れもよう 62票
 7位 山梨県北杜市     海道前C遺跡  65 端正なお顔     60票
 8位 山梨県笛吹市     一の沢遺跡   57 センスの良い抽象文 59票
 9位 長野県大桑村     大野遺跡    66 デカい顔      55票
 10位 長野県朝日村     熊久保遺跡   39 焼町の逸品     49票
11位 山梨県笛吹市 一の沢遺跡 67踊る縄文人 42票。12位 山梨県北杜市 平林遺跡 63丸い目 39票。13位 山梨県笛吹市 58釈迦堂遺跡 きっちり縦区画 28票。14位 釈迦堂遺跡 きっちり横区画 25票。15位 鋳物師屋遺跡 55 ビールがうまそう 24票。16位 長野県富士見町 藤内遺跡 42 おたまちゃん 23票。17位 富山県砺波市松原遺跡 ヘビ付き有鍔 21票。18位(同数) 長野県中野市千田遺跡 33大きい土器 20票。藤内遺跡 41 シンプルな縦区画 20票。20位(同数)長野県茅野市 棚畑遺跡 50片口 19票。茅野市下ノ原遺跡 8イノシシふち子 19票。

 出だしは「68踊る精霊」が飛び出し、10月には上位5点によるデッドヒートが続き毎日トップが入れ替わりました。10月後半から「40道訓前」がスパートし他を引き離しました。11月後半には68が再び猛追しましたが及ばず、といった状況でした。
 面白かったコメントなどは、今後も随時紹介していきます。また、当館内で結果を貼りだします。?だけでは土器を思い出せない方、ぜひ図録でご確認ください。

SJD91総選挙!集計結果
首位となった渋川市道訓前遺跡出土土器
SJD91総選挙!集計結果
最終投票結果とコメント
[ 2017-12-07 ]

カプセルトイに新シリーズ登場!

お知らせ

当館の1階エントランスの階段横にあるカプセルトイをご存知でしょうか?これまでも「埴輪と土偶+土器&青銅器」シリーズ(1回300円)の人気がありましたが、それに加えて「土偶と埴輪」(1回300円)と「南方熊楠菌類図譜シール」(1回200円)シリーズが新たに加わりました。まずは、「土偶と埴輪」シリーズですが、今までと違うところは、何とコップの縁にかけることができます。写真の遮光器土偶は、ずり落ちないように両面テープでノートパソコンに固定してありますが、工夫次第でいろいろ場所に取り付けることができそうです。もう一つの「南方熊楠菌類図譜シール」シリーズは、一つのカプセルの中になんと20枚ものきのこのシールが入っています。自分の持ち物にどんどん貼れます。
当館の見学の記念に、また、お子様のおみやげにいかがでしょうか。

カプセルトイに新シリーズ登場!
カプセルトイに新シリーズ登場!
[ 2017-12-05 ]

古文書公開日記8−職人の由緒−

お知らせ

 古文書の整理を進めていくと様ざまな史料にであいます。今回は「寛文六年」(1666年)の銘記がある長巻の写しです。これは松本藩の職人の由緒書です。二十八の職人衆の出入免許を獲得した由緒を記したものですが、こうした由緒は後世に造作されたものが多いのです。造作された偽書だから取るにたらないもの、というのはちょっと早計です。むしろそのなかに偽作の作られる歴史的背景が読み取れます。
 この文書の後半には座頭と松本城下本町菓子職人との相論を幕府朱印で裁許した藩役所による裁許状の写しがのこされています。内容は、座頭による悪口喧嘩を停止すること、小商人へ菓子の売場は免許し、神社・寺内は宮司および法主より借り受けること、座頭は家財残らず取り上げ追放のことなどが記されています。裁判の際に、職人の免許の正当性が問われ由緒が必要になったのでしょう。
 2枚目の写真は当館古文書書庫の配置棚です。今回の文書もここに収められますが、スペースが少なくなってきています。最上部の高い棚に収めるには長い脚立が必要です。これもまた気をつかう作業なのです。

古文書公開日記8−職人の由緒−
古文書公開日記8−職人の由緒−
[ 2017-11-30 ]

縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式

お知らせ

 秋季企画展最終日の11月26日(日)、「縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式」をおこないました。優秀作品を描いてくれた6名には檀上で、日本中世史研究の第一人者でもある笹本正治館長から直々に賞状を手渡してもらいました。誰かこの中から、将来の歴史研究者が出てくれたら、「あの時!」を思い出して感動してくれるかもしれません。
 受賞者インタビューでは、一人ひとり客席にむかって「紙一杯に大きく描けました」「難しかったけど○○がうまく描けました」等々、物おじせず、しっかりと話をしてくれました。
 縄文土器写生会には、次のようなねらいがありました。
?走り去るように展示を見る(子どもにありがち)のではなく、展示品を比べて1点だけ選び、じっくり観察し、描くことで、土器に親近感を持ってもらうこと。
?頑張って描くと「ここの模様がうまく描けたよ」とか「難しい所はこうやって描いたんだよ」などと話したいことがたくさん出てきます。発見した点を話すことで、さらに興味を持ってもらうこと。
?表彰というイベントで記憶にとどめてもらうとともに、絵と記念品が家庭に残り、縄文土器と歴史館を思い出してもらうことなどです。
 そのため「勝手にどうぞ」と突き放すのではなく、学芸員や職員がそれとなく寄り添うようにして描いてもらうよう心がけました。
 子どもたちの視点は、頭の固くなった我々にはいい刺激になります。「区画もよう」と「流れるもよう」の違いは、前々回の縄文土器展の写生作品でよく表現されており確信が持てました。次回の展示にあたっては、今回の作品からヒントを得たいと思っています。

縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式
縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式
[ 2017-11-28 ]

デッドヒートが続く、SJD91総選挙!

お知らせ

 秋季企画展「進化する縄文土器〜流れるもようと区画もよう〜」も1ヶ月を切りました。
 本展では、来館者の皆さんによる人気投票を実施しています。「進化する」のS、「縄文土器」のJ、「土器」のD、エントリーされた91点で、「SJD91総選挙」です。企画展示室に入っていただければ、1人で何点選んでも結構です。
 ねらいは、「土器にそれほど関心があるわけではないけど来てみた」という方や、走り抜けるように展示室を去っていく子どもたちに、好きな土器を選ぶことで、1点1点しっかり見てもらうことが一つ。選んだ理由を書いてもらうことで、お気に入りの土器を憶えて帰ってもらうことが一つ。それに加えて、土器の面白さに気づいてくれたらいいなぁ、ということです。
 投票はこちらが思っていた以上に、多くの方が参加してくれています。用紙の裏まで土器?を記入して、びっしりとコメントを書いていただいた例もあり、展示する側の参考にさせていただいています。専門家の人でしょうか、石膏復元がほとんどの標式資料も、意外と票を伸ばしています。
 9月後半は、「区画もよう」の世界が強く、山梨県南アルプス市鋳物師屋遺跡の人体文のついた有孔鍔付土器がトップでした。10月に入ると、同じ鋳物師屋遺跡の猿形土製品、同県北杜市竹宇?遺跡や海道前C遺跡、笛吹市の人体文付き土器等々、毎日首位が入れ替わるデッドヒートでした。ただし、いずれも顔や人体文がついた土器に集中していた感じです。
 10月後半からは、「流れるもよう」の長野県御代田町川原田遺跡、群馬県渋川市の道訓前遺跡、新潟県糸魚川市の六反田南遺跡の土器が追い上げ、11月初めの時点では、鋳物師屋の人体文と、道訓前の焼町式土器の一騎打ちの様相を呈しています。
 みなさんも、ぜひ、1点1点じっくりと鑑賞していただき、好きな土器を選んで投票してみてください。最終結果はこのHPでお知らせいたします。

デッドヒートが続く、SJD91総選挙!
現在首位を走る南アルプス市鋳物師屋遺跡の土器
デッドヒートが続く、SJD91総選挙!
SJD総選挙 投票壺・速報・いただいたコメント
[ 2017-11-02 ]

ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)

お知らせ

 阿久縄文ムラ(常設展示室)のウ〜リィちゃん(イノシシの子どもの剥製)もヒトに慣れてきたという設定で、大胆にもムラの中央にある立石群まで出てきました。
 ところで、縄文土器のもようを見ていくと、もしかしてイノシシ?という造形に出会います。しかも、最初はヘビだったのが、しだいにイノシシに進化・変身する場合もあります。
 そこで、現在おこなわれている秋季企画展「進化する縄文土器」の展示品を見てみると、「いました!」左の写真を見てください。平らで大きな鼻先(↓)を、鍋(土器)の縁から出して、美味しい料理の匂いを嗅いでいるようです。落ちないように、両方の前足を鍋の縁にかけているのもかわいいですね。土器を横から見ると、右の写真。つぶらな丸い瞳の顔がわかります。
 この作り方は、大きな鼻先がなければ、ヘビのもように似ています。例えば、常設展示室にある札沢の動物装飾土器(?71)のように、少し古い時期の土器では、「三角頭に丸い目」と言えばヘビでした。ところが、時代が進むと、ヘビの頭の先端に大きなブタ鼻のようなモノが合成され、ヘビ→イノヘビ→イノシシに進化していきます。どうしてなのかはよくわかっていませんが、中期縄文人の信仰の対象がヘビからイノシシに移った可能性があります。
 さて、この土器、企画展示室入口付近で、皆さんをお迎えしています。茅野市下ノ原遺跡から出土した土器(?8)です。どこにイノシシ?がついているか、じっくりと探してみてください。

ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)
鼻先
ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)
イノシシ
[ 2017-10-05 ]

『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜

お知らせ

 9月16日(土)に始まる秋季企画展「進化する縄文土器」に関連し、「第3会場」とした常設展示室では、すでに展示資料が出そろいました。
 3月からお目見えしていた中信地区の塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡、筑北村東畑(ひがしばた)遺跡に、東信から長和町大仁反(おおにたん)遺跡、岐阜県下呂市から桜洞神田(さくらぼらじんでん)遺跡の土器が加わりました。
 企画展示室では、北陸〜東北信と、中南信〜山梨といった信州を南と北に二分し、その違いをテーマに展示しています。これに対し、常設展示室では、岐阜県〜中・東信といった東西を軸に、さまざまな地域の土器が行き交っていたことをテーマにしています。もちろん南と北も盛んに交流しているのですが、頭の中がごちゃごちゃになるといけないので、企画展示室では、しっかりと本場の土器を見ていただきます。その分、こちらでは他の地域の土器が運びこまれ、まねされるといった複雑な関係を見ていただきます。
 桜洞神田では、地元や多数派の北陸系土器ではなく、遠方から運ばれてきた信州・東海・西日本の土器を展示しています。いずれも、持ち運びに便利な?コンパクトサイズですが、各地の特徴がしっかりと表現された優品です。
 黒曜石原産地に近い東信の大仁反遺跡には、分水嶺を挟んで対峙する西側の勝坂式土器がたくさん持ち込まれています。今回は、浅鉢を作らない焼町の人びと向けに贈られた浅鉢の優品をご覧いただきます。ところが話は複雑で、勝坂式土器の浅鉢とは少し形が違い、台までついています。贈答向けに特注で作ったのか?考えさせられる土器です。
 企画展・常設展の共通券は500円です。企画展300円だけでなく、こちらにもぜひ足を運んでください。損はしないと思いますよ。

『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
下呂市桜洞神田遺跡出土品
『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
長和町大仁反遺跡出土の台付浅鉢形土器
[ 2017-09-13 ]

伊那谷の伝統文化ー大田切人形

お知らせ

 常設展示室内の「近世展示コーナー」の展示替えを行いました。上伊那郡宮田村から大田切人形をお借りして展示しています。

 天保5年(1834)、代々竹本座(大坂)に属する人形遣いの家系に生まれた吉田金吾は吉田国三郎を名乗り、天保12年から文久2年(1862)まで大坂に拠点を置いて人形を操っていました。
 幕末から明治の初め頃、金吾は家族とともに、大坂から大田切村(上伊那郡宮田村)に住み着きました。金吾は人形を操るだけではなく、頭の制作も行い、彼が制作した頭は、大田切だけでなく、黒田・今田(飯田市)、早稲田(下伊那郡阿南町)などにも残っています。

 大田切に定住した金吾は、村人に人形浄瑠璃を教え人形芝居を盛んにしていきました。金吾に指導を受けた村人は、他村に招かれて興行に出かけるようになりました。また、金吾自身は黒田などへも人形浄瑠璃の指導に出かけていました。
 明治16年(1883)に金吾が亡くなった後も大田切の人々は興行を続けましたが、大正末頃興行が不振となり、人形と道具を7・8軒で保管するようになりました。昭和34年以降は全く活動が途絶え、田中・飯島両家から村へ人形・道具類が寄贈されたのです。大田切に残された頭は38点で、吉田金吾が確実に作ったとされるのが8点です。

 寄贈された頭の中に徳島を代表する人形師天狗久(1858〜1943年)が制作した頭が5点含まれていました。天狗久は本名を吉岡久吉といい、昭和18年(1943)に亡くなるまで、徳島市国府町和田の工房で人形の頭を作り続け、優に千を越える頭を作ったと言われています。大きさを見ると金吾が作った頭より1〜2cm大きく作られています。ろうそくの明かりでもはっきり顔が見えるように大きな頭を作って提供したといわれています。

 信州から遠く離れた大坂・淡路・徳島の伝統文化が伊那谷を中心に残されている姿をぜひご覧ください。

伊那谷の伝統文化ー大田切人形
吉田金吾が作った頭「検非違使」(宮田村教育委員会)
伊那谷の伝統文化ー大田切人形
天狗久が作った頭「娘」 (宮田村教育委員会)
[ 2017-09-06 ]

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−

お知らせ

 博物館実習が行われ、古文書の整理実習をおこないました。史料は芦田宿本陣土屋家文書のうちのC群を選びました。選択理由は豊富な近現代史料を含み、江戸時代の崩し字にくらべて比較的読みやすい史料ということ、第2に、対象とした時代(昭和初期)に長野県庁学務課の視学(現在の指導主事)だった土屋傳さんが残した教育行政関係のものが多く含まれており、博物館学や教職を学ぶ学生さんたちにも触れていただきたかったからです。すでに江戸時代の部分は公開されていますが、仮目録だけできているものの電子化されておらず未公開部分が多く残っていました。
 実習生は文書を仮目録にならって整理し、現物とつきあわせながら文字を解読し直します。最初は独特のペン文字に難儀していたようですが、次第に読み込んでいくことができたようです。おかげさまでかなり整理することができました。
 この史料の中には、当時の長野県知事の数々の告辞(卒業式などの祝辞など)を土屋が代理で作成した際の草稿がたくさんあります。時局の進展にともなって、「国家の難局」「銃後」など戦時色の濃い言葉が並んでくることに気づかされます。視学による現場の教師の授業指導書類、教職員の思想動向について県側がかなり神経をとがらせていることをうかがわせる史料も多数あります。今回整理した者は戦前・戦中期の中等教育の指導的な立場にいた側の実態を教えてくれるものです。近日中に公開されることになります。

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
実習生の整理の様子
古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
土屋傳による知事告辞の草稿
[ 2017-08-31 ]

古文書公開日記6−電気のはなし−

お知らせ

 8月になり毎日蒸し暑い日が続いています。いかがお過ごしでしょうか。クーラーの稼働率が高くなる夏は電気の使用量が増えるのでクールビズや省エネなどできる工夫をしたいものです。
 みなさんは信濃電気株式会社という電気会社があったことはご存じでしょうか。今回、この会社が作成した大正期の図面約150点の整理が終わりました。
 近代の長野県は養蚕業が盛んで、各地に製糸場が作られました。山がちで川が多い長野県では、水力を活用した電力会社も設立されました。多くは製糸工場の経営者によって作られました。須坂町にあった製糸会社山丸組は、1912年には県内外に5工場・1514釜、1927年には県内8工場、県外3工場、総釜数約5000釜を誇る日本最大規模の大製糸場でした。その創設者越寿三郎は夜業が増えたことから防犯・防災のため須坂町内に広く電灯を設置するため電灯会社を設立することを企図しました。1903年、こうして信濃電気株式会社は生まれました。米子(須坂市)に水力発電所を設立したことを皮切りに電力供給が進み、1914年(大正4)には東北信地域に402kmの電線路網を広げ、長野県内最大の電力会社になりました。その後も長野地域を基盤とする電力会社長野電灯に電力を供給するなど順調に運営されていきました。しかし昭和恐慌後の養蚕業の打撃とともに経営が悪化し、長野電灯との合併により社は消滅しました。
 今回の図面は須坂・中野・飯山・山ノ内など北信の村の図で、そこには電線架設場所や電灯の位置などを測量技師によって正確に図面上に落としています。この時期は信濃電気の最盛期であり、須坂地域も野口雨情・中山晋平により「須坂小唄」が作られる(1923年)など華やかな時代でした。今回の図面の多くは、電力需要に湧いたそんな時代を象徴するもので、貴重なものといえます。

古文書公開日記6−電気のはなし−
古文書公開日記6−電気のはなし−
[ 2017-08-11 ]

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)

お知らせ

 いよいよ夏休みですね。山へ海へ歴史館へ・・・楽しいことがいっぱい!。動物好きな子は、動物園だけでなく、当館の縄文ムラに来てみてください。探せば探すほど、たくさんの動物、鳥、昆虫がみつかります。
目で探すだけではありません。耳をすますと、いろいろな動物の鳴き声が聞こえます。あるいは竪穴住居の敷物に触っていたら、ホンモノの動物の毛皮だったりします。展示品には動物の骨で作った製品や縄文人が食べ残した骨。よーく見ると、土器のかざりがヘビの形だったり・・・。ぜひ、縄文ムラと展示コーナーで、どんな生き物が何匹いるか数えてみてください。
 縄文時代と同じように、「昭和のころまでは、こんな風に家の近くにいろいろないきものがいたんだなぁー」と実感してみてください(「今でもいるよ」との声も聞こえそうですが)。
 近ごろ、数が増えて、人里近くにも出没するようになった動物。そのうちの一種類が鳴いていますが、当ててくれる子どもがなかなかいません。「鳥?」とかん違いされます。さて、どんな動物でしょうか。ヒント、近ごろ増えたといえばシカ、イノシシ、クマ、サル、さて正解は常設展示室で鳴き声を聞いてみてください。
 ちなみに、かわいい!と評判になったウ〜リィちゃん(幼いイノシシの子)も縄文ムラの中をほんの少し移動しました。猛毒のトリカブトの近くです。動物は毒のある草をよく知っているので、噛んだりはしなかったと思います。縄文人も、よ〜く知っていたと思われるので、この草は薬になる。この草は食べられる・・・。トリカブトは毒があるから矢の先(石鏃)につけて・・・なんて風に使っていたかもしれません。

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)
[ 2017-07-28 ]

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−

お知らせ

筑摩郡上生坂村(現在の東筑摩郡生坂村)文書を整理し終わりました。点数は33点ですが、いずれも18世紀前半のものばかりで、当館では比較的古い時代の文書群に位置付きます。文書自体は金子の受取覚や訴訟関係のものなどで構成されています。上生坂村は江戸時代は麻績組に属しており、安曇郡とも接する中山間地でした。生坂煙草と呼ばれる葉煙草や麻の産地でした。今回の整理で興味深かったのはこの地域の絵図面が袋に束ねて収められていたことです。近村の市野川村(現在の麻績村)や麻績町村(同村)の絵図は彩色豊かに描かれています。このなかで唯一異色だったものは、1866(慶応2)年の第二次長州征討(長州藩では四境戦争と呼びます)の配陣図が混入していたことです。文書の持ち主によって描かれたものか収集したものかは不明ですが、絵図面の袋に他の村絵図とともにまとめて入っていたものなので何らかの経緯でこの家にもたらされたのでしょうか。寅六月十四・十五日の打合と記され、小瀬川を挟んで毛利隊と幕府軍が対陣している様子から大竹村(広島県大竹市)の「藝州口の戦い」の様子を描いているようです。長州軍が鉄砲を放ち雷鳴をとどろかしていることなどが見て取れます。彦根藩主井伊直憲、高田藩主榊原政敬などの名前も見えます。小瀬川を渡ろうとする井伊軍は、川岸から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮山から大砲が浴びせられ、小瀬川が血の海になったと伝えられています。幕府方の人名記述が詳細なことから、おそらく幕府方に参加したものによって記されたものでしょう。長州征討が失敗に終わったことから幕府の威信は急速に失墜し翌年の幕府滅亡へとつながりました。幕末の動乱を示す資料といえるのではないでしょうか。

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
[ 2017-07-13 ]

お待たせしました! ナウマン君復活です。

お知らせ

 常設展示室でみなさんをお迎えしていたナウマン君。観覧者がやってくると、まばたきしながら、大きく首を振って歓迎していたのですが・・・。首筋を痛めてしまい、連休明けから6月いっぱい、お休みをいただいておりました。
 「このゾウ動くんだよ」と教えてくれたリピーターの子どもたち、待っても待っても動かないので「あれ?・・・」。がっかりさせてごめんなさい。7月2日・3日に行った手術が成功し、7月4日(火)には元気いっぱい復帰しました。
 ところで、この子の年齢は23歳。復元された体格から男の子。開館当時に出会った子どもたちもりっぱな大人ですね。元気になったナウマン君に、もう一度会いに来てみませんか。そして、いっしょに来たお子さんや家族、恋人・友人、あるいはたまたま居合わせた人に、変わらぬ勇姿を伝えてあげてください。ナウマン君も自慢げにうなずいてくれることでしょう。
 ちなみに動物園で飼育されているアジアゾウの国内最高齢は、昨年、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園で亡くなった花子の69歳。また、北海道で発掘されたナウマンゾウ化石は、少なくとも40歳以上とされています。
 さて、完全復活したわが歴史館のナウマンゾウは、何歳くらいまでみなさんをお迎えできるでしょうか。

お待たせしました! ナウマン君復活です。
7月4日 「元気になったよ!」職員と復活のごあいさつ
お待たせしました! ナウマン君復活です。
2ヶ月ちかく、休養してました。
[ 2017-07-05 ]

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!

お知らせ

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」の見どころ
 「銀座nagano」は、長野県が首都圏、世界とつながっていく拠点として平成26年に開設されたものですが、正式には「銀座nagano しあわせ信州シェアスペース」と呼びます。「nagano」と「信州」。一つの地域を指すのに、なぜわざわざ二つの地名を使うのか、皆さまは首都圏や世界の方々にうまく説明できますか。
 行政単位としての長野県の誕生は明治9年、1876年ですが、名実ともに県の基盤が確立するのは明治33年(1900年)の府県制・郡制の制定を待ってでした。明治33年は、浅井 洌・北村季晴コンビによる「信濃の国」が誕生した年でもあります。そして「信濃の国」は、昭和43年、長野県歌に指定されました。
 「長野県」と「信濃(あるいは信州)」。同一の地域を指しながら、なぜ私たちはこの2つの地名を使い続けているのでしょうか。なぜ、「信濃(信州)」という地名に今もこだわりを持ち続けているのでしょうか。
 幕末の信濃地域は十余の藩と幕府領が複雑に入り込み、統一した社会のかたちをなしていませんでした。また、もともと広い地域です。東西南北で気候も文化も違い、とくに南北では日常生活のなかの習俗や考え方が随分異なっていると言われています。多くの峠と川によって区切られた地域毎に独自の文化が息づいているところに、この地域の特色があります。このように考えたとき、明治のはじめ、わずか十年ほどで現在の長野県が成立したという史実は驚くべきことです。
 しかし、であるからこそ、長野県誕生への道は平坦なものではありませんでした。わずかな期間に、伊那県、中野県、筑摩県などいくつもの新しい行政組織が誕生し、消えていきました。複雑な入り込みを解消して一つの県に統合しようとする力が強く働く一方、地域ごとの独自性を尊重する立場から分散を指向する力も絶えず働いていたのです。また、長野県誕生後も、統合と分散の力のせめぎ合いから、分県論、県庁移転論が度々主張されることになりました。「長野」と「信濃(信州)」という、言葉ではうまく説明できない微妙なニュアンスの違いに対する私たち県民のこだわりは、今から150年前の長野県誕生の瞬間に由来するといってもよいでしょう。
 県立歴史館では、7月8日(土)から「平成29年度夏季企画展 長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」を開催します。当館は、長野県の公文書館としての役割を担っています。当館が所蔵する幕末明治期の行政文書(長野県宝)を精査し、長野県誕生のその時何が起こったのか、この体験から私たちは今、何をくみ取ればよいのか、県民の皆さまと一緒に考えてようとする企画です。
「人間は歴史的動物」と言われます。歩んできた道を振り返り、過去を見つめることで、たくさんのヒント、教訓を発見し、今を変革し、未来を創造する動物です。「長野県」や「長野県民」は当たり前のように存在するものではありません。また、住民の中に初めから「私たちは長野県民である」という一体感(アイデンティティ)が備わっているわけでもありません。
 リニア時代をひかえ、県下の諸地域がそれぞれ独自のかたちで首都圏や世界と繋がる方法を模索しています。県民意識も大きく変わろうとしています。こうした時期に、もう一度長野県誕生の瞬間に立ち会ってみませんか。「長野」と「信濃(信州)」の2つの言葉に向かい合ってみませんか。
 長野県誕生から約1世紀半が経ちました。つぎの1世紀に向けて私たちは何を手渡せばよいのでしょうか。この企画展は、そのヒントを見つけ出す絶好の場です。是非、ご来館下さい。
(学芸部長 青木 隆幸)

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!
筑摩県博覧会「錦絵」 1873(明治6)年 (当館蔵)
夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!
五榜の掲示 1868(慶応4)年 (個人蔵・上田市立博物館寄託)
[ 2017-06-30 ]

友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜

お知らせ

 秋季企画展の名称が「進化する縄文土器〜流れるもようと区画もよう〜」に決まり、本格的な準備に入りました。縄文時代中期中葉(約5,400〜5,000年前)における縄文土器のかざりは、(1)流れるもようが軸になる東北信〜北陸と、(2)区画もようが基盤の中南信〜西関東のように、地域差を強調する方向で進化します。
 例えば、土偶を土器のかざりに取り込んだ南信〜西関東では、土偶はしだいに大きく、丁寧に、さまざまな文様が追加され、他のかざりと合成・合体して進化します(土偶とはわからなくなっていきます)。その到達点が、富士見町藤内(とうない)遺跡の「神像土器」と呼ばれる土器です(写真右)。一方、その他の地域では、土器に土偶が貼りつくなどもっての外、と言わんばかりに、ほとんど作られることがありません。
 しかし、縄文人が排他的な人たちだったのかというとそうでもなく、交流は盛んだったようです。あえて他地域とは違う「おクニ自慢」の優品を持ち込んだり、現地製作?しています。そして、持ち込まれた土器を見ては、ちょっぴり真似したりしています。「神像土器」に描かれた区画文も、元はと言えば、北陸の前時代に流行っていたのを南信〜西関東の縄文人が真似し、アレンジして独自進化をとげた文様です。
 もう一つ、交流関係を示す面白い土器が、今、常設展示室に飾ってあります。筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡の土器(写真左)です。よくみると、最高傑作の「神像土器」を一回りも二回りも小さくし、土偶のかざりも簡略化した妹(弟)分のような土器です。この時期の東畑遺跡では東北信の焼町式土器が主になっています。もしかすると、友好関係のために諏訪・松本方面から運ばれてきたのかもしれません。
 同じような事例は、茅野市棚畑(たなばたけ)遺跡出土の国宝「縄文のビーナス」でも見られます。ビーナスと似た顔で、簡略化された帽子を被り、一回りも二回りも小さい土偶が山梨や塩尻市の遺跡から見つかっています。友好関係のネットワークを築くため、妹分が派遣されたのかもしれません。

友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜
左>筑北村東畑遺跡 顔(円文)と土偶の肩〜背部分などが簡略化されて表現されている。右>の藤内遺跡(当館蔵レプリカ)を知らないと、土偶装飾とはわからないかも
[ 2017-06-28 ]

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開

お知らせ

平成13(2001)年6月、千曲市八幡の社宮司(しゃぐうじ)遺跡から、平安時代末期(11世紀から12世紀)の製作と推定される木製の仏塔が出土しました。仏塔は擬宝珠(ぎほうじゅ)、笠、蕨手(わらびて)、風招(ふうしょう)、風鐸(ふうたく)、幢身(どうしん)からなり、それぞれクリ、ケンポナシ、サワラ、ヒノキ、エノキと違った木材で製作されていました。これまで平安時代末期の様子を描いた『餓鬼草紙』(がきぞうし)などでしか知ることのできなかった仏塔の資料が、国内で初めて遺跡から出土したのです。その性格付けは発掘当時、供養塔あるいは信仰の対象物と考えられ、鎌倉時代以降に製作される「石幢」(いしどう)以前の製作物として「木幢」(もくどう)と名づけられました。しかし、その後研究によって、仏教儀礼の空間を飾る荘厳具との位置づけが示され、平安時代における地方の仏教文化を知る比類のない重要資料と評価され、「木造六角宝幢」と改称されて長野県宝に指定されました。

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢(複製)
特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢解説パネル
[ 2017-06-08 ]

古文書公開日記4−木下尚江肖像画−

お知らせ

 史料整理はかならずしも古文書だけに限りません。
 今回は木下尚江の肖像画を紹介します。この作品は昨年度県外流出史料の一部として購入したものです。 
 尚江は松本藩士木下秀勝の子として明治2年(1869)に生まれた自由民権運動家で、初期社会主義者として知られています。「病野老」とあることから病を得た晩年の尚江像、しかも手紙に添付されていることから、自画像と見られます。
 尚江は「信陽日報」の記者、弁護士などの活動もおこない、松本キリスト教の洗礼を受け、キリスト教人道主義者として日露戦争では非戦論を唱えた人物です。
 軸装に貼付された書翰の宛名から、この絵は高崎在住のキリスト教者住谷天来にあてたものと推測されます。住谷は内村鑑三らと交遊した「万朝報」記者で、のち郷里の群馬県に帰って伊勢崎教会、甘楽教会の牧師となっていることが知られます。キリスト教徒、非戦平和主義者として活動していたことから、尚江との交流が生まれたのでしょう。
 切手の印字が「12.3.7」となっており、また自画像も3月7日付となっています。木下は昭和12年(1937)に癌を発症しその年の11月に没しています。これが昭和12年のものと推定すると、この作品は最晩年の尚江肖像となり、意義深いと言えましょう。

古文書公開日記4−木下尚江肖像画−
[ 2017-06-04 ]

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)

お知らせ

 4月29日のブログで紹介した「縄文阿久ムラ」に居ついたウ〜リィちゃん。すでにススキの陰から移動しています。お気づきでしょうか。まだ幼いのでキノコを食べはしないでしょうが、好奇心旺盛でキノコのところまでやってきました。すぐ脇には、ワレモコウがあります。高さ数十?になるバラ科の山野草です。秋には、紫色の花をつけます。長野県内では、今でも人里近くの林と農地の境あたりで見ることができ、縄文時代のムラ周辺にも生えていたと考えられます。ワレモコウの根っこには止血効果があるそうです。縄文人は、野草に効能に詳しかったと思われるので、けがをした時に使っていたかも知れません。
 さて、ウ〜リィちゃん今度はどこへ? みなさん「縄文阿久ムラ」で探してみてください。

※阿久(あきゅう)は諏訪郡原村にある遺跡で、中央自動車道建設に伴い1976〜78年に発掘調査されました。歴史館で再現した縄文時代前期のムラ跡は、保存を求める声がたかまり、現在は道路の下に埋没保存されています。

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)
キノコとウ〜リィちゃん
縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)
「縄文阿久ムラ」のウ〜リィちゃんとワレモコウ
[ 2017-05-30 ]

調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−

お知らせ

当館2階にある閲覧室をご存知でしょうか。閲覧室には、原始時代から近現代にわたる基本文献など多数の図書・雑誌10万冊以上が収蔵され閲覧できます。館内コンピュータで検索することもできます。また、閲覧申請をしていただければ、当館収蔵の行政文書や古文書もご覧いただけます。専門家だけでなく、一般のみなさまも調べ物にご利用いただいております。写真は長野県PRキャラクターのアルクマがを閲覧室を利用した時の様子です。

利用の仕方がわからないときや当館職員へのご質問がある場合は、閲覧室に職員が常駐しておりますので、遠慮なく声を掛けてください。なお、閲覧室のみのご利用は、観覧料をいただいておりません。また、本の貸し出しは行っておりませんのでご承知ください。(申請をしていただければ複写も可能です。)

くわしい利用の仕方については、下のリンクより「閲覧室利用のご案内」をご覧ください。

調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−
閲覧申請をするアルクマ
調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−
閲覧中のアルクマ
[ 2017-05-26 ]

古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−

お知らせ

伊那郡三日町村鳥山家資料が寄贈され、ようやく整理が終わりました。文書だけでなく、地図や写真、絵葉書、雛道具類など多様な資料が満載されていて飽きませんでした。そのなかでコインのコレクションに面白いものがありました。鳥山家資料のなかには中国北宋からの渡来銭や、江戸時代の寛永通宝(古いタイプと新タイプ)がありましたが、何気なくみた一枚が不思議な文字が刻まれています(写真)。「南無阿弥陀仏」と時計回りに読むことができます。念仏銭とよばれているこのような銭の形をした類似品は珍しいものです。もちろんこれが物を購入する際に使用されていたわけではありません。玩具(おもちゃ)という考えもあるようですが、重みや表面のようすはまさに「銭1匁(もんめ)」そのものですので、一見すると通常の銅銭と変わらぬ精巧さです。
江戸時代の墓の埋納された銭について集成したした鈴木公雄氏によると、17世紀後半から通常の貨幣といっしょにこのような念仏銭が墓に埋納されるようになるそうです。「三途の川の渡し賃」とよく言いますが、六道銭として知られる「6枚の銭貨を死者に持たせる」習俗(もっとも銭は6枚とは限らないようです)と関係があるのでしょうか。今でも死者の棺に紙に印刷された六道銭を封入する地域もあるそうです。似たものに「南無妙法蓮華経」と刻まれた「題目銭」もあります。
鈴木先生によるとこの貨幣は17世紀後半から18世紀前半の中で鋳造されたらしいこと、1999年の段階で大都市の近世墓から全部で300枚以上見つかっているそうですから、全国でもっとたくさん広まっていたことが想像できます。亡くなった死者を無事極楽浄土へ送ってあげるために考案された江戸時代ならではのコインではないでしょうか。興味のある方は鈴木公雄『出土銭貨の研究』(東京大学出版会、1999年)をご参照下さい。歴史館の閲覧室でも読めます。

古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−
念仏銭
古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−
読み方
[ 2017-05-23 ]

古文書公開日記2−明治の残像−

お知らせ

このたび佐久郡大日向村浅川家文書の整理が完了し、ようやく公開にたどり着きました。この史料は昨年度古書店より購入したもので、いくつかに分散して売られていたものをまとめて購入しました。購入当初ははっきりとした点数は分からなかったのですが、整理を終えてみると目録件数で900件、全部で1012点もの数になりました。大日向村というと、昭和初期の満蒙開拓で分村移民をした村で有名です。残念ながらその関係の史料は含まれていませんでした。しかし思いがけない史料に出会いました。1884(明治17)年の秩父事件に関する被害を示す史料が5点あったのです。大日向村は十石峠を介して上州と直接つながっている村です。埼玉県秩父郡で立ち上がった自由民権運動に参加した農民や知識人たちが結成したのが秩父困民党です。このうち急進派と呼ばれる人々のリーダーが菊池貫平(北相木村出身)でした。十石峠をこえて信州に入って来ました。信州の最初の入り口がこの大日向村でした。この村の龍興寺というお寺を本陣として高利貸に賃金の半数放棄、他は据え置き、年賦返済を交渉します。きかないときは家屋破壊または放火するといった、中世の徳政一揆に近い行動を起こしました。当時は佐久や秩父で作られた繭の値段が暴落していたので農村は極めて困窮し、借金を抱える者もたくさんいたのです。この浅川家は江戸時代の名主を代々務めた家で、明治時代は大日向村戸長役場の戸長を務めていました。そういう関係もあったので秩父困民党の襲撃を受けてしまいました。役場(といっても浅川家)は荒らされ、紛失した物品も数多くあったようです。事件が沈静化したあと、浅川源助さんはなくなってしまった品物のリストを作り警察に届けています。淡々としたものですがかえって生々しい記録です。

古文書公開日記2−明治の残像−
紛失並毀壊物御届
古文書公開日記2−明治の残像−
紛失物リスト
[ 2017-05-19 ]

歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−

お知らせ

当館受付横にミュージアムショップがあります。規模はそれほど大きくありませんが、黒曜石や歴史好きにはたまらない商品が並んでいます。また、当館から出された企画展の図録やブックレットなどの出版物の販売もしています。

このミュージアムショップで、当館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」の販売をはじめました。価格は600円(税込み)です。「アルクマ」はみなさんご存知のように長野県PRキャラクターで、3月には、当館オリジナルの「アルクマピンバッチ」500円(税込み)の販売も始まっています。どちらも、当館ミュージアムショップでのみ手に入れることができる商品です。当館に来館された記念にぜひお買い求めください。

また、3月に設置したアルクマの来館記念パネルも好評で、多くの方が記念撮影に利用されています。「長野県立歴史館」の文字と日付が入っており、来館記念の写真撮影にぴったりです。こちらもご利用ください。

歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−
アルクマまが玉ストラップ
歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−
当館ミュージアムショップ
[ 2017-05-16 ]

“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜

お知らせ

毎月、小出しに手を加えてきた常設展の縄文中期コーナー。5月6日(土)の“新(展示)台入れ替え”で、アクリルボード・解説パネル・展示台と続いたリニューアルが完了しました。借用の塩尻市剣ノ宮、筑北村東畑、原村阿久遺跡と当館の優品が、以前にも増して引き立った感じです。ぜひ、見に来てください。
 筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡のコーナーでは、縄文時代中期中葉(約5,300〜5,200年前)、東北信に多い焼町式(やけまちしき)土器が主になっています。今では、電車や自動車で松本平(中信)へ行くにも近く、行政区分は松本平の村と同じ東筑摩郡です。しかし、縄文中期中葉の筑北は、東・北信との結びつきの方が強かったようです。
 さらに、塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡出土の焼町式土器も含めて比較してみると、興味深いことがわかります。曲がりくねった粘土ひもで文様(曲隆線文)を描く焼町式と一口に言っても、北信と東信で違うからです。北信は白っぽい土器が多く、東信は赤黒い感じです。また、文様に迷いがなく、きっちりと、“力”のある装飾に仕上がっているのは北信の土器です。約5,500年前から伝統的に曲隆線文を使ってきた地域だけのことはあります。対して、約5,300年前の少し前に曲隆線文を採用しはじめた東信では、少しぎこちない感じを受けます。
 こう見てくると、焼町式土器(曲隆線文)の本場は北信?といった推測が生まれます。しかし、北信ではこの時期の遺跡が少なく、決定打がない状況です。千曲市屋代遺跡群の縄文時代中期のムラが地下4〜6mに埋まっていたことを考えると、焼町式土器の本拠地は長野盆地の深くに眠っているような気もします。
 
※焼町式土器(やけまちしきどき) 塩尻市焼町遺跡で出土した縄文時代中期中葉の土器1点が研究の端緒となっており、この名で呼ばれる。研究途上のため、「焼町類型」、あるいは暫定的に「焼町土器」と呼ぶ研究者もいる。曲がりくねり・流れ・つながる粘土紐を軸線として、空白部を沈線などで埋める。同時期の勝坂式土器等で流行した区画文を基本的には使わない。分布は、千曲川流域を主に県内各地や、隣接する群馬県・新潟県などに広がる。

“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜
筑北村東畑遺跡出土土器 厳密な製作地は不明だが、白っぽく、円と三叉文の組合せを多く用いるなど、北信の可能性が高い土器。 
“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜
塩尻市剣ノ宮遺跡出土土器 赤黒く、下部の無文帯との境に分帯線を持つ。東信からの搬入品か、出張製作?模倣製作の可能性あり
[ 2017-05-12 ]

歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)

イベント

去る5月5日、ゴールデンウィークのイベントとして「歴史館でこどもの日」を開催しました。当日は、たくさんの親子連れのみなさんが歴史館を訪れ、体験を通し、楽しく歴史に触れることができたようです。

「石のアクセサリーづくり」に参加された方は、時間を忘れるほど熱心に石をけずり、まが玉やハート型の世界でひとつだけのオリジナルのアクセサリーを仕上げていました。また、「縄文人になって遊ぼう」のコーナーでは、本物の縄文土器に触れたり、当時の服装に身を包んだりして、縄文人になりきっているほほえましいご家族がいらっしゃいました。今回から新たに加わった「プラ板マスコットづくり」では、当館オリジナル長野県PRキャラクター「アルクマ」や土器などの絵をもとに、かわいいマスコットを多くの子どもたちが作ることができました。

こういったイベントを通して、さらに、歴史に関心をもっていただければと考えております。夏休みにも同様の企画を計画しておりますので、ご期待下さい。

歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)
縄文人になって遊ぼう!
歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)
石のアクセサリーづくり
[ 2017-05-10 ]

本日も多くの小学生が見学に来てくれました。

お知らせ

 当館には、年間約250校、13,000人ほどの小学生が見学に訪れます。長野県内の小学生の半数以上が来ていることになります。また、県内に宿泊施設をもつ東京都の小学生もたくさん見学に訪れます。
 学校見学が一番多いのが5月です。ちょうど小学校6年生の社会科の学習で、日本の歴史について学びはじめた頃で、季候もよく、見学にはもってこいのシーズンです。本日も小学校9校、高校2校、合計800人ほどの子どもたちが見学に訪れ、熱心に見学する姿が見られました。
 当館の見学で好評なのが、職員による展示解説です。クラス毎に1名の職員がつき、展示の解説を行います。経験豊富な職員が、子どもたちに問いかけながら、専門的な知識をもとに解説をしていきます。また、普段は入れないバックヤードの見学も好評です。本物の土器に触れたり、3,500年前の縄文人と対面したり、教室ではできない貴重な体験ができます。

 今年度も大変多くの予約をいただいておりますので、見学を検討されている学校の先生方は早めに申込をお願いいたします。申込につきましては、当館ホームページ「学校団体のご利用について」をご覧いただければと思います。ご不明な点がありましたら、当館総合情報課(026-274-3991)学校見学受付担当までご連絡ください。なお、予約が重なった場合は、ご希望に添えないこともありますのでご了承ください。

本日も多くの小学生が見学に来てくれました。
芝生広場で楽しい昼食
本日も多くの小学生が見学に来てくれました。
展示解説の様子
[ 2017-05-02 ]

常設展示の縄文コーナーでウ〜リィちゃん(ウリボウ)を探してみよう!

お知らせ

 先日、ボランティアの女性の方から「最近、展示のウリボウが、頻繁に場所を移動していてとてもかわいい」と褒められました。現在、「縄文阿久ムラ」に居ついたウ〜リィちゃん(良い愛称をつけてあげてください)の居場所は写真のとおりです。みなさん、歴史館にお出かけの際は、ぜひ、この子にも会ってあげてください。ただし、かわいい!からと言って、決して撫でたりしないでください。とても警戒心が強く繊細なため、手を出すとストレスで毛が抜けてしまいます。
 数年間、ウ〜リィちゃんは屋代遺跡出土のイノノシ骨の参考として展示台に登っていました。レストランの食品サンプルのように「美味しそうでしょ。縄文人が食べるとこうなります(となりの骨)」という、ちょっと悲しい役を引き受けてもらっていました。そこで昨年の展示替えでは、思い切って北村縄文人のお姉さん(模型)の脇に添わせました。縄文ムラの周辺は、標高が低くて大雪の心配が少なく、ヒトが作った草地もあるし、ヒトが育てたマメやクリ、残飯などもあって、イノシシの生息には良い場所です(ヒトに捕まらなければの話)。縄文ムラの近くをウロウロしていて、親とはぐれてしまったウリボウ(幼獣)が、ヒトになついても不思議ではありません(現代でも時々あるようです)。縄文人が、食べるためにイノシシを飼育しはじめた(賛否両論あり)と言う面だけではなく、飼い犬のように育てることもあっただろう、といったコンセプトにしてみたのです。元ネタは、千葉県下太田貝塚(晩期)の墓域で、イノシシと犬の幼獣たちの墓が、ヒトの幼児の墓近くに作られていた事例からの推論です。子犬やウリボウは縄文人にとって親しみのある仲間だったと考えられます。
 今年度の展示では、縄文ムラに住み着いたウ〜リィちゃんが、ムラの中をあちこち気ままにお散歩しているといった感じにしています。現在、ウ〜リィちゃんが身を隠しているススキは、縄文人が森を切り開いたことを暗示した植物です。そして住居の屋根材でもあります。
 さて、ウ〜リィちゃんは、どこにいるでしょうか。常設展示の縄文阿久ムラで探してみてください。
※阿久(あきゅう)は諏訪郡原村にある遺跡で、中央自動車道建設に伴い1976〜78年に発掘調査されました。歴史館で再現した縄文時代前期のムラ跡は、保存運動が高まりを受けて、道路の下に埋没保存されています。

常設展示の縄文コーナーでウ〜リィちゃん(ウリボウ)を探してみよう!
今日のうり坊
[ 2017-04-29 ]

おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜

お知らせ

 常設展の縄文コーナー。透明なアクリルボードをリニューアルし、見やすくなった点にお気づきでしょうか。スペースに余裕も生まれたため、展示資料数を増やしましたので、ぜひご覧ください。また、アンケート用紙にご意見・ご感想をいただけると幸いです。
 増えたのは、秋季企画展向けの縄文時代中期の土器です。見どころは、一つのムラ(塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡)にさまざまな地域の土器が入って来ていた状況を示した点です。「おクニ自慢の土器大集合!」といった感じです。縄文時代の研究では、土器の材料(粘土と混ぜる砂)や、同じ装飾を持つ土器の広がり方の分析が進んでおり、地域ごとに個性豊かな土器が作られていたこと、しかも盛んに各地に運ばれていた実態がわかってきています。
 剣ノ宮遺跡は、塩尻峠と善知鳥峠の麓に位置し、当時も交通の要衝だったとみられます。立地の良さもあってか、近隣の諏訪・上伊那・松本平南部と共通の装飾を持つ土器の他、下伊那地域の土器、東信地域の土器、遠くは東海地域や西日本系統の土器などが見つかっています。
 さまざまな産物が行き交う交易の場では、土器は商品の入れ物や、運び人の自炊道具として持ち込まれた可能性もありますが、最も多かったのは、物々交換での交換用や贈答品だったと考えられます。なぜなら、本家本元でもなかなか見つからないような、小形の優品が遠隔地から見つかっているからです。“おクニ自慢”の土器を見せれば、どこの地域から来たのかが一目瞭然です。長年の友好関係の証としての贈答品だったのかも知れません。一方で、遠隔地の土器に似せて作った例も見つかっています。遠隔地の珍品を欲しがる人に、中間地域で作ったまがい物を混ぜて渡していたのかも知れません。
 さて、他地域の個性豊かな作品を見た土器製作者たちは、対抗意識を燃やし?さらに独自性豊かな土器を作ろうとしました。逆に、ちゃっかり真似してみたような例もあります。そのあたりの話は、次回以降していきたいと思います。ご期待下さい。

おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜
西日本・東海・東信・下伊那の土器
おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜
常設展示室でリニューアルされた展示資料 左4個体は筑北村東畑遺跡、中央付近が塩尻市剣ノ宮遺跡の土器
[ 2017-04-22 ]

田中芳男展を開催します

お知らせ

4月19日付け信濃毎日新聞「斜面」で長野県飯田市出身の博物学者田中芳男(1838〜1916)が紹介されました。幕末から明治初、パリ、ウィーン、フィラデルフィアの3つの万国博覧会に派遣され、西欧の博物館の考え方を日本に初めて招来した人物です。博物館や美術館、動物園が建ち並ぶ上野公園の礎を築いたのが田中芳男でした。「日本における博物館の父」とも呼ばれています。
また、長野県ともゆかりの深いリンゴの移植・普及など、様々な農作物の品種改良にも取り組み、東京農業大学の初代学長も務めました。

 田中芳男が生まれた飯田は、中馬と呼ばれる民間輸送者の活躍がよく知られた地域です。東西交通の要衝、「文化の十字路」といわれています。芳男は、本草学をはじめ、医学、洋学、国学が隆盛する豊かな文化風土のなかで育ち、10代半ばに名古屋に出、やがて勝海舟らが中心になって幕府が開設した蕃書調所で西洋の物産・文化の研究に従事しました。
幕府が倒れると、新政府に出仕。万博で知り合った薩摩藩出身の町田久成や大久保利通らの支援を得ながら、大学南校、文部省、内務省、農商務省で博物館、博覧会行政の中心として活躍します。東京国立博物館、国立科学博物館、恩賜上野動物園(いずれも台東区上野公園)、国立国会図書館(千代田区)。みなさんよくご存知のこれらの施設の源をたどると、そこに田中の姿があります。

なぜ、芳男が博物館建設に人生を賭けたのか。幼年の頃、父から厳しく諭され、生涯、行動の起点にしたという言葉にヒントがあります。
「生まれたからには、自分相応な仕事をし、世の中に役に立たなければならない」。
 博物館こそは、田中にとって人生を賭して日本に植え付けるべき「世の中に役立つ」施設だったのです。人間が作り出してきた様々な文物、文化を収集、保存、研究、展示する博物館をつくることで、たくさんの人たちが、自らの歩みを振り返り、今を見つめ、未来を展望し、歩み出すことができると信じたのです。
「人々の生活をよりよいものにする」、その思いが田中の生涯にわたる膨大な実践と、博物館建設の夢を支えました。
 さらに言えば、芳男は、広い意味での博物館として動物園や植物園をも含んだ文化施設、文化空間を理想としていました。上野公園に動物園があるのは、その影響です。彼は人間だけでなく、様々な生き物たちの生命が共鳴しあう世界の建設を夢見ていたといえるでしょう。「環境の世紀」といわれる現代を先取りしています。
博物館を観光施設と考える方もいるかもしれません。確かにそういう側面はあります。けれど、博物館の本質は、田中芳男にとっては、歴史を見つめ、よりよい未来を作り出すための学びの出発点となる場だったのです。その意味で私たちは、日本に博物館を創った田中芳男を誇りに思います。

 長野県立歴史館は、田中芳男を生んだ信州の、県立としては唯一の歴史系博物館です。私たち学芸員は、よりよい長野県を作るために歴史館はどうあるべきか、何をなすべきかを真剣に考え、誇りをもって勤務しています。年間2万人近い数の県内外の小中高生が来館し、利用者は10万人を超えます。私たちは日々、たくさんの皆さんと、展示や講座を通じて語り合う営みを続けています。この「語り合い」の中から、子ども達の学ぶ意欲や、地域おこしのヒント、高齢者の方々の生き甲斐(元気)が見つかります。
たしかに、「観光」は博物館や学芸員の役割の一つといえます。しかし、本当の意味での観光や「観光マインド」は、自分の足下をしっかり見つめることから生まれる自信に支えられなければ魅力的なものにならないでしょう。遠い未来の、よりよい長野県を思い描きながら、自信をもってお客様にそれを語り、考えていただけるよう、私たち学芸員は資料の収集、整理、保存、研究、展示作業に取り組んでいます。

 そして、こうした努力は、当館だけでなく、それぞれの地域の博物館施設の学芸員が地道に続けているものです。長野県には多数の博物館があり、学芸員の要件を満たす施設の数は全国有数です。日本に博物館を創った信州人田中芳男の生涯に想いを馳せると、現在に繋がる不思議な縁(えにし)を感じます。

 当館では今年12月より来年2月にかけ、田中芳男を取り上げた企画展を開催します。田中芳男の出身地飯田市美術博物館では、長年にわたって田中芳男関係資料の収集をおこなってきましたが、このコレクションが、まとまったかたちで展示されることはこれまでありませんでした。今回の企画展では、当館と飯田市美術博物館が連携し、飯田という風土や、田中芳男のたぐいまれな業績を顕彰するとともに、みなさまが「博物館とは何か」ということを考えていただく機会になれば幸いです。(学芸部長 青木隆幸)

田中芳男展を開催します
田中芳男(飯田市美術博物館『日本の博物館の父 田中芳男』)より
[ 2017-04-20 ]

学校見学で大人気!−古代風おにぎり弁当−

お知らせ

新年度を迎え、当館への学校見学のシーズンがやってきました。連日多くの小学生が訪れ、楽しみながら歴史について学ぶ姿が見られています。
学校見学の昼食として人気があるのが、当館内の軽食・喫茶「科野の里」の「古代風おにぎり弁当」です。当館に見学に来る小中学生のために、当館開館時に開発されたメニューです。お弁当の中身は、「古代紫米入りごはん」「キビ入りごはん」「鶏肉のエゴマ入り衣揚げ」など昔の人びとが食べていた食材が使われており、歴史の学習にもつながります。科野の里歴史公園の復元住宅や山頂の森将軍塚古墳を眺めながら、当館横の芝生広場でこのお弁当を食べれば、またひと味違ったものになるかも知れません。
「古代風おにぎり弁当」は小中学生の見学限定で、価格は540円です。おにぎり3つバージョン(650円)もあります。大人用の古代風弁当(900円)、特上古代風弁当(1150円)も用意できるそうです。何れも予約制で、1週間前までにご注文をお願いします。くわしくは、軽食・喫茶「科野の里」までお問い合わせください。

長野県立歴史館内  軽食・喫茶 科野の里
電話 026−274−2000(歴史館代表)内線166
[営業時間]10:30〜16:30
[休業日]歴史館と同じ

学校見学で大人気!−古代風おにぎり弁当−
古代風おにぎり弁当(540円) 要予約
[ 2017-04-18 ]

当館所蔵の海外移民史料と、皆様へのお願い

お知らせ

 先日、当館に兵庫県の方が長野県のブラジル移民について資料調査にいらっしゃいました。建築がご専門で、移民した方々が現地で建設した建物を調査されているとのこと。長野県からの移住者が建てた家屋もあり、移民の歴史的背景や当時の現地の様子、移民者のファミリーヒストリーを明らかにしたいとのことでした。
 長野県は、日本一多くの満洲移民を送り出した県ですが、その理由の一つとして、大正期にブラジル移民が積極的に実施され、功を奏していたことが上げられます。なかでも、サンパウロ州郊外への移民は、現地の言葉で協力、和合を意味する「アリアンサ」移民と呼ばれました。
 当館にはブラジル移民を推進した信濃海外協会の史料の一部が県立図書館を経由して移管されています。320冊にのぼる貴重な史料です。
 今回調査にいらした方は、移民家族のアルバムなど、初めて見る資料が多かったと大変喜んでお帰りになりました。
 ブラジル移民を含む信濃海外協会の資料は当館ホームページで検索できます。まだまだ研究されていない膨大な資料が書庫に保管されています。
 これからもそんな史資料たちをご紹介します。ぜひご利用下さい。

(追記)
調査にこられた方からご質問をいただきました。移民する前に撮影したと思われる写真です。写っている学校の名前を知りたいとのことです。下伊那の学校だろうとのことです。ご存知の方、是非歴史館にご連絡下さい。

当館所蔵の海外移民史料と、皆様へのお願い
この校舎ご存知ですか?
当館所蔵の海外移民史料と、皆様へのお願い
当館の移民関係史料
[ 2017-04-08 ]

古文書公開日記−もうひとつの明治維新−

お知らせ

文献史料課の仕事はあまり皆さんの目に触れることはありません。現在当館は古文書約20万点、行政文書約10万点以上を収蔵しています。わたしたちは少しでも多くの史料を公開し県民の皆さんに閲覧していただけるように日々整理作業をおこなっています。そこでブログでも少しでも新着の公開情報を更新していきたいと思います。
今回は一昨年新たに所蔵し、つい1ヶ月前の3月に新たに公開対象となった「松本藩士荒川家文書」(5-38)を少しだけ紹介します。
今年は明治維新150年の年です。旧江戸幕府を倒すための内戦と新政権樹立までの過程を明治維新といいます。長岡周辺で戦闘となった北越戦争に新政府軍として参戦した松本藩士荒川右門太は、従軍記録や戦地絵図をたくさん残しています。例えば写真1は、越後国内の絵図で会津へ抜ける街道周辺の様子を書き記しています。とくに「この間人家なし」「人馬平日通行す」「馬通行できず」などといった図面上の細かな記述は、行軍の際に必要な情報を収集しながら書き込んでいったものと思われます。
また非常に面白いのは、右門太は家族にあてた書翰のなかに、戦況や行軍路などを事細かに記録し報告していることです。3ヶ月の間に15通も残されています(写真2)。これらを読み解くことで新しい北越戦争の事実が見えてくるかも知れません。
明治維新後の右門太は貞正と名を改め、建築関係の仕事についたようです。その晩年の戯作文(戯れに書いた文章)は、思わず笑いがこみ上げてくるものです。
こうした文書を書き残した150年前の右門太がどういう人物だったか。紙と墨で書かれた古文書を目の前にしてそんなことを想像してみます。文書の整理作業は、右門太のような人たちとの対話でもあるのです。

古文書公開日記−もうひとつの明治維新−
三国街道周辺絵図部分
古文書公開日記−もうひとつの明治維新−
従軍書翰
[ 2017-04-04 ]

歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ発売中!

イベント

県民のみなさまに当館をより身近に感じていただくため、長野県PRキャラクター「アルクマ」のオリジナルピンバッチを制作いたしました。去る3月20日(月・祝)には、親子映画会に合わせ、「アルクマ」が来館し、発売記念イベントを開催しました。イベントでは、オリジナル「アルクマ」パネルの除幕、笹本館長によるあいさつ、「アルクマ」との記念撮影などを行い、お子様をはじめ、多くの方々の前でお披露目をすることができました。

歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチは、おなじみの長野県PRキャラクター「アルクマ」と、当館が所蔵する長野市松代の松原遺跡出土の「トロフィー形土器」をデザインしたもので、当館のミュージアムショップでのみ販売されています。価格は500円です。来館の記念にぜひお買い求めください。

また、ピンバッチと同じデザインの来館記念のパネルも制作いたしました。「長野県立歴史館」の文字と日付が入っており、来館記念の写真撮影にぴったりです。当館エントランスに設置してあります。ご自由に写真撮影ができますので、こちらもご利用ください。

歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ発売中!
アルクマがやってきた!
歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ発売中!
県立歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ
[ 2017-03-22 ]

元祖!進化するヘビの精霊 〜縄文土器展への招待状 その2〜

お知らせ

 館長のフェイスブックに紹介された蛇体装飾付土器(小諸市郷土(ごうど)遺跡)を、3月から常設展示室に展示しました(写真上)。「これがヘビ?」「トカゲだろう?」「いや、縄文人は恐竜を知っていたんだよ」等々の声が聞こえてきそうです。みなさん、いろいろと想像をふくらませてみてください。あるいは、縄文人は精霊(カミ)を表現しているのだから「現実にいるモノではない」のかもしれません。
 それでも、私たちが蛇体と呼ぶのには、より古い土器にヘビっぽい前例があるからです。 考古学では、あるモノが時代とともに変化することを「系統」としてとらえます。このヘビの系統は、尖石遺跡出土品(図)などから変化したと考えられます。図右の古手のヘビはとてもリアルです(実物は茅野市尖石縄文考古館で見てね)。ところが、次の段階の図左では、ヘビらしかぬ動き(鋭角に、しかも上下方向に蛇行する)に変わります。さらに郷土遺跡の例では、さまざまな飾りがトッピングされ、ヘビには見えなくなります。器の形も大きなヘビの精霊を乗せやすくし、目立たせるために変形します(青→)。
 こうした縄文人の発想は、今どきの子どもたちが夢中なアニメ・ゲームの妖怪やモンスターの「進化形」と似ています。変形し、大きくなり、飾られ、合体しながらバージョンアップするのです。郷土遺跡の例は最もレベルアップした形で、「とぐろヘビ」の進化形「ごうどドラゴン」といった感じでしょうか。縄文人も形や大きさを進化させることで、精霊のパワーがアップすると考えたのでしょう。
 ところで、いにしえの精霊は今どきの妖怪につながるとの説があります。さまざまなモノに宿り、説明のつかないできごとは彼らのしわざだ、という考え方です。精霊はヒトには見えない、見てはいけないモノですが、“お願いごと”をするには形が必要です。そこで縄文人は、ヒトやヘビなど「自分たちの知っているモノ」に似せて表現したのかも知れません。この辺の発想も今どきの子ども(作者は大人ですが)と共通していそうです。 
 現在、常設展示室には、別系統の蛇体(札沢遺跡)や、人体(東畑遺跡)のついた土器も展示しています。ぜひ、ご覧になってください。また、秋の縄文土器をとりあげる企画展ではさらにバージョンアップさせますので、ご期待ください。

元祖!進化するヘビの精霊 〜縄文土器展への招待状 その2〜
常設展示室の郷土遺跡出土土器
元祖!進化するヘビの精霊 〜縄文土器展への招待状 その2〜
茅野市尖石遺跡出土土器(茅野市教委2007に加筆)
[ 2017-03-17 ]

雛人形展示しました。

お知らせ

 常設展示室近世の展示コーナーに江戸期から明治期にかけての雛人形を展示しました。
江戸時代中期以降、江戸日本橋十軒店で雛の販売が本格的になる中で、中山道、北国街道、甲州道中などを通じて、小諸、上田、松代、松本などの城下町の雛店に雛人形がもたらされました。上田城下では大坂屋、松本城下では生安寺小路(現在の通称は高砂町)の雛店が有名です。
2月の下旬には店頭に並べられ、城下町の豪商はもとより、各地の村役人層を中心に購入され、また松本押絵、土雛、達磨も手頃な贈答品として購入されました。
当館に所蔵されている享保雛や古今雛から、江戸時代の節句の一断面をご覧いただきたいと思います。

一般の庶民が紙製の雛や、土製の雛で上巳の節句(雛祭りのこと)を祝う中で、豪農や豪商クラスの人々は享保雛や古今雛など衣裳雛を贈答品として使っていました。
享保雛は江戸時代に流行した衣裳雛です。江戸時代中期以前から発達したとされるもので、面長な顔立ちや女雛の袴がふくらんでいる所などに特徴があります。「享保」という名称は当時使われていた名称ではなく、明治以降に名づけられたものです。
古今雛は江戸時代の中ごろ、安永(1772〜81年)頃に江戸の町で製作・販売が始まった人形で、現在の内裏雛はこの系譜をひきます。「古今雛」の名称も当時から使われていました。今回は、諏訪郡富士見町の旧家から寄贈いただいた二対の享保雛、千曲市の旧家から寄贈いただいた二対の古今雛を中心に展示します。
展示期間は3月7日(火)から3月26日(日)までです。 

雛人形展示しました。
古今雛(当館蔵)
[ 2017-03-08 ]

おおきなおなべとちいさなおなべ -縄文土器展への招待状 その1- 

お知らせ

 秋の縄文土器展に向け準備をはじめています。実はここだけの話ですが、3月後半から始まる常設展示室の縄文コーナーは、秋の本番に向けての前振りです。常設展を見ながら、秋の企画の意図・思惑を感じていただけばと思っております。
 と言うことで、最初にご紹介する土器(写真)は、塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡の同じ竪穴住居跡から出た大・小2点です。塩尻市平出博物館からお借りしてきました。
この二つを見ると、二宮由紀子作・石黒ヒロユキ絵『おおきなおなべとちいさなおなべ』を思い出し、ほのぼのとした笑いがこみ上げてきそうです。相手よりも自分が優れている点を自慢しあいながらも、各々の利点を生かし、協力して料理を作り、最後は同じ棚に仲良く収納されるといった筋だったと記憶しています。未就学児向けの絵本ですが、自家製土器を自慢して他地域のモノを貶(けな)しつつ、それでも相手の良さも気になってしまい、折り合いをつけていく・・・。縄文人にも、われわれにも通じる話です。
 ところで、故佐原真先生がおっしゃっていたように、暖かい国の鍋は浅く、寒さの厳しい北国の鍋は深くなる傾向があります。約5千年前の縄文時代中期ですと、常緑の照葉樹林帯にあたる西日本や東海では浅くて薄い鍋、落葉広葉樹林帯から北の中央高地〜北海道では深くて分厚い鍋が多くなります。「寒い冬は、いろりの灰の中に深い鍋を差し込んで、コトコト煮込むのが一番!」なんて思っていた剣ノ宮遺跡の縄文人、西から運ばれてきた“ちいさなおなべ”を見て、何と思ったのでしょうか?鍋と思わなかったのか、この土器の内外面には赤彩が施されていました。
 さて、あまりネタばらしをしてはいけないので、常設展示室で“凸凹コンビ”のホンモノを見つけていただき、「なぜ運ばれてきたのか」「どうしてこんなに違うのか」「似ているところは」等々、いろいろと想像を巡らせてみてください。

おおきなおなべとちいさなおなべ -縄文土器展への招待状 その1- 
地元の深い鍋と、西日本から来た浅い鍋 剣ノ宮遺跡 第27号住居跡出土土器(塩尻市平出博物館蔵)
[ 2017-02-28 ]
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