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2018年の投稿

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常設展示室:弥生コーナーに人形土器が帰ってきました。

お知らせ

 巡回展「長野県の遺跡発掘2018」で、長らく旅に出ていた松原遺跡の人面付き土器(弥生時代中期、約2,000年前)と西一里塚遺跡の人形土器(後期、約1,800年前)が常設展示室に戻ってきました。
 弥生時代の県内、特に千曲川流域の状況をみると、中期以降、川沿いでムラが急増しました。水田や水路の跡も見つかっており、水田開発技術や稲作文化を持った人びとが多く移住してきた可能性があります。その証拠に、長野市篠ノ井遺跡群では、在地の縄文人とは異なる渡来系弥生人の特徴を持つ人骨(歯)が見つかっています。
 新たな文化を持った人びとを迎えたことで、いわゆる“イケメン”にも変化が現れたようです。その変化は人骨だけでなく、人面付き土器や人形土器に描かれた顔でも確かめることができます。
 弥生時代中期までの顔は、縄文時代からの伝統的な顔で、丸顔で眉毛と鼻が太く強調されています。入れ墨のような表現もみられます(写真2右の破片)。いわゆる“濃い顔”とか“ソース顔”と呼ばれる顔です。この人面付き土器が出土したのは、前述した西からやって来た人も住んでいた篠ノ井遺跡群です。この頃までは、まだ、地元の伝統的な縄文顔の方が良いとされていたようです。
 ところが、中期の終わり頃(約2,000年前)から後期(約1,800年前)になると、面長で切れ長の目、筋の通った長い鼻が強調されるようになります(写真1左の佐久市西一里塚遺跡例)。あっさり系の“しょうゆ顔”です。この背景には、実際にこのような顔の人びとがさらに増えたこと、あるいは最先端技術や文化を持ってきた人の顔が憧れの顔になったことが予想されます。
 さて、長野市松原遺跡の人面付き土器は、人面と言いながら耳しかありません。作られた時期は弥生時代中期後半で、“ソース顔”から“しょうゆ顔”に移った時期のものです。どんな顔だったのでしょうか?常設展示室でじっくり眺めながら、想像してみてはいかがでしょうか。

常設展示室:弥生コーナーに人形土器が帰ってきました。
写真1 帰ってきた西一里塚遺跡の人形(ひとがた)土器(左)と、松原遺跡の人面付土器(右)
常設展示室:弥生コーナーに人形土器が帰ってきました。
写真2 留守を守っていた人面付き土器 左が中期後半以降、右が中期前半の顔
[ 2018-12-06 ]

縄文コーナーに、顔や土偶のついた土器が登場

お知らせ

 常設展示室の縄文コーナーでは11月末から、新県宝「信州の特色ある縄文土器」に指定された土器(複製)を増やしました。
 「縄文土器=縄のもよう」と思っている方も多いかも知れませんが、実は信州の縄文人は芸術家ぞろいです。その「特色ある」とされた土器には(1)釣手土器、(2)有孔鍔付土器、(3)顔や人体の装飾がついた土器があります。いずれも、信州~西関東の縄文時代中期に多く見られる特徴です。(1)は、すでに9月から諏訪市穴場遺跡出土の動物装飾付釣手土器を展示しています(写真手前)。ヘビとイノシシが合体したような不思議な飾りがついています。そして、今回(2)南箕輪村久保上ノ平遺跡出土の人体装飾付有孔鍔付土器(写真右)と、(3)伊那市月見松遺跡出土の顔面装飾付土器(写真左)を加えました。
 久保上ノ平遺跡の人体文をよく見てください。背中からお尻の形は国宝土偶「縄文のビーナス」(複製を展示中)が痩せたような感じです。お尻が正面に見えると言うことは後ろ向きで土器に貼り付いています。ところが、頭の方に目をやると、ドクロのような顔がこっちを向いているではありませんか? これには、見た目通り体と頭が反転しているとする説と、後頭部によく見られる装飾が変形して顔のように見えるにすぎない、という説があります。みなさんはどう思いますか。
 月見松遺跡の土器には、器の上に顔が乗っています。樽形のようにふくらんでいる器本体が女神の体を現し、豊穣や子宝に恵まれることを祈ったという説があります。
 信州には、特色ある縄文土器がたくさんあります。当館で釣手・有孔鍔付・顔面付の3点セットを確認してから、県内の各博物館、資料館にある実物を見に行ってはいかがでしょうか。
 また、弥生コーナーには、長らく県内の巡回展で旅に出ていた松原遺跡の人面付土器(中期)と西一里塚遺跡の人形土器(後期)がもうすぐ戻ってきます。こちらもお見逃しなく。 

縄文コーナーに、顔や土偶のついた土器が登場
9月27日に、あらたに県宝に指定された3点(複製品)
[ 2018-11-27 ]

今シーズンの最後の学校見学がありました。

お知らせ

 県立歴史館には、県内外の多くの学校が見学に訪れていますが、気温下がるこの時期になると、だんだんその数が減ってきます。現在ご予約をいただいている中では、今シーズン最後の学校見学が11月21日(木)にありました(年度内の見学はまだまだ可能です)。
 この日は県内の2校の小学校が訪れ、熱心に解説を聞いたり、楽しそうに見学をしたりして有意義な時間を過ごしていきました。また、2校とも当館の学校見学で人気のあるバックヤード探検をしていただき、貴重な文化財に触れることで、歴史に対する理解を深めることができたようです。
 来年度の学校見学の申込みについては、2月はじめに受付を開始する予定です。県内の学校については、事前に資料を送付させていただきます。また、ホームページ上にも掲載する予定ですので、県外の学校関係の方はそちらでご確認ください。来年度も当館のご利用をお待ちしております。

今シーズンの最後の学校見学がありました。
バックヤード見学の様子
今シーズンの最後の学校見学がありました。
常設展示室での解説の様子
[ 2018-11-25 ]

秋季企画展「最古の信州ブランド黒曜石」は、11月25日(日)までの開催です。

お知らせ

 秋季企画展「最古の信州ブランド黒曜石-先史社会の石材獲得と流通-」の会期が11月25日(日)までと、残りわずかとなっております。
 長野県の霧ヶ峰から八ヶ岳にかけての「信州黒曜石原産地」は本州最大規模を誇り、日本を代表する黒曜石原産地です。文化の十字路信州では、旧石器時代より黒曜石を求めて人びとは集い、やがては縄文王国といわれるほどの繁栄を遂げました。その繁栄には黒曜石の存在が欠かせませんでした。
 今回の展示では、日本の中の信州文化について黒曜石を通じて描き出しています。また、本年5月「星降る中部高地縄文世界-数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅-」が日本遺産として認定されました。この日本遺産の紹介や縄文鉱山をはじめ構成文化財も展示しています。
 今週末は、ぜひ当館にお越しいただき、黒曜石の魅力にふれてみてください。お待ちしております。

秋季企画展「最古の信州ブランド黒曜石」は、11月25日(日)までの開催です。
秋季企画展「最古の信州ブランド黒曜石」は、11月25日(日)までの開催です。
[ 2018-11-21 ]

「お出かけ歴史館」事業をご利用ください。(3月末日まで)

お知らせ

 当館には、社会科の歴史学習の一環として多くの小学生が見学に訪れています。平成29年度には243校、約14,500人の小学生が見学に訪れ、県内の半数以上の小学校に利用していただいています。しかし、当館から離れた地域では、移動に時間や費用がかかるため、利用していただけないのが現状です。そこで、当館から離れた地域の学校にも、何かできることはないかと検討し、昨年度より実施しているのが「お出かけ歴史館」事業です。
 今年度は、木曽・上伊那・下伊那地方の学校・公民館を対象に実施しています。期間は、当館への学校見学が少なくなる10月~3月です。内容の詳細はチラシ・申込用紙(PDF)をご覧いただきたいと思いますが、当館の職員と収蔵品がお出かけをし、出前授業を実施しています。必要な物品のほとんどは持ち込みですので、事前の準備はほとんど必要ありません。今年度もすでに南木曽小学校(木曽郡南木曽町)、王滝小学校(木曽郡王滝村)、どんぐり向方学園(下伊那郡天龍村)で実施し、たいへん好評をいただいております。すでに申込みをいただいている学校・公民館様もありますので、お早めに申込みください。申込方法は下のチラシ・申込用紙(PDF)に必要事項にご記入いただき、FAXで送っていただければ結構です。ご利用お待ちしております。

お問い合わせ先
県立歴史館総合情報課 担当:溝口
TEL 026-274-3991 FAX 026-274-3996

「お出かけ歴史館」事業をご利用ください。(3月末日まで)
「お出かけ歴史館」の様子(王滝小学校)
[ 2018-11-20 ]

「広い世界とつながる信州」当館編(「信州を学ぶ」シリーズ第2弾)の発刊のご案内

お知らせ

 長野県立歴史館では、「信州を学ぶ」シリーズ第2弾・視野を育てる編として、『広い世界とつながる信州』を発刊します。
 「黒曜石は輝ける最古の信州ブランド」「諏訪信仰はこうして広がった」「松本城に博覧会がやってくる!」「受け継いでゆく長野五輪の遺産」など信州の歴史をさまざまな角度からわかりやすく掘り下げた1冊です。
 当館ミュージアムショップでは、11月17日(土)から発売します。なお、シリーズ第1弾・足元を探る編『日常生活からひもとく信州』も好評発売中です。
 どうぞお買い求めください。

●編著者:長野県立歴史館
●出版社:信濃毎日新聞社出版部
●種 類:単行本(ソフトカバー)
●頁 数:284ページ
●定 価:1400円+税(当館ミュージアムショップでの販売価格は1400円です。)

「広い世界とつながる信州」当館編(「信州を学ぶ」シリーズ第2弾)の発刊のご案内
「広い世界とつながる信州」 長野県立歴史館編 信濃毎日新聞社
「広い世界とつながる信州」当館編(「信州を学ぶ」シリーズ第2弾)の発刊のご案内
「日常生活からひもとく信州」 長野県立歴史館編 信濃毎日新聞社
[ 2018-11-16 ]

古文書公開日記16-戯作雑誌「寄笑新聞」-

お知らせ

 明治150年の年、各地でイベントが行われています。最近整理し終えた「1-16細川賢一収集史料」には維新期のたくさんの書籍が入っています。林務技師細川賢一氏は戦前東京帝国大学農学部を経て、林野庁に務め、技師として台湾総督府・朝鮮総督府に勤めています。細川氏の集めた農業関係資料、近世の本草学書物がたくさんあります。多いものは地理や歴史関係の和本があります。また第2次大戦中の世相がわかるグラフ誌もまとまっています。あわせて江戸末期から昭和の各種和本が1000点以上寄贈されました。そのなかに珍しい書物が4冊含まれていました。
 「寄笑新聞」(創刊号~四号)という明治時代初期の戯作新聞を紹介します。戯作文学とは江戸時代の後半に、町人を中心に読まれた通俗的な読み物です。江戸幕府は武家の学問として漢学・歴史学・経書などを推奨します。いわば支配者の学です。いっぽうでそれでは堅苦しいと、世の中を風刺したり言葉遊びをして町人のあいだに広がったのが「文の学問」としての戯作文学です。従って、寛政の改革や天保の改革で風紀を乱すとして度々処分されたジャンルです。幕末から明治維新になると、こうした戯作文学者は壊滅的な打撃をうけて、明治5年の仮名垣魯文の上申書では全国で作者は5名にまで減ったと言います。ところが、支配者階級だった武士が明治時代になって特権階級でなくなると、士族たちの不満が高まっていきます。そうした士族階級をパロディーにする「戯作文学」が再び脚光を浴びます。「寄笑新聞」は、明治8年3月刊行に週刊として11号まで発刊した雑誌です。発行者は幕末の戯作者で梅亭金鳶こと、橋爪錦造。内容は、新たな商法にとまどう士族、収入を立たれた士族の借金問題などをパロディにしています。また、実学を唱える福沢諭吉や西洋開化の風潮を風刺した論説も特徴的です。「寄笑新聞」は士族階級を滑稽の対象と見なし、また西洋化に狂奔する世相を皮肉る戯作とみることができるものです。しかし明治初期の戯作文学はあっという間に下火になってしまいます。近代文学のうねりが旧来の文学を押し流したといえます。

古文書公開日記16-戯作雑誌「寄笑新聞」-
寄笑新聞(創刊号表紙)
古文書公開日記16-戯作雑誌「寄笑新聞」-
発行者
[ 2018-11-14 ]

森将軍塚まつりが盛大に開催されました。

お知らせ

 11月3日(文化の日)に科野の里歴史公園を会場に第27回森将軍塚まつりが晴天のもと開催されました。会場内にある県立歴史館にもたくさんのみなさまにお越しいただき、にぎやかな一日となりました。
 当館では「縄文人になって遊ぼう!」「まが玉をつくってみよう!」「プラ板マスコットづくり」の体験イベントを実施しました。「まが玉をくってみよう!」では、自分だけのまが玉をつくろうと親子で熱心に石を磨いている姿も見られました。各イベントを通して、小さなお子様から年配の方まで、楽しみながら歴史に親しんでいただくことができました。
 また、現在開催中の秋季企画展「最古の信州ブランド黒曜石-先史社会の石材獲得と流通-」の関連イベントとして、シンガーソングライターとして活躍している葦木ヒロカさんにお越しいただきました。葦木さんには、まず、森将軍塚まつりの野外ステージですばらしい歌声を披露していただきました。秋の澄み渡った青空のように澄んだ葦木さんの歌声に会場の皆さんが聞き入っていました。その後、当館講堂にてトークショー「黒曜石の世界」にも出演していただきました。
 気温が下がり、当館周辺の山々の紅葉も見頃となってきています。秋季企画展は11月25日(日)までですので、ぜひご来館ください。お待ちしております。

森将軍塚まつりが盛大に開催されました。
中央が葦木ヒロカさん、右が長和町教育委員会の大竹幸恵さん
森将軍塚まつりが盛大に開催されました。
[ 2018-11-12 ]

abn長野朝日放送「駅前テレビ」のみなさんが秋季企画展の取材に訪れました。

お知らせ

当館で11月25日(日)まで開催されている秋季企画展「最古の信州ブランド黒曜石-先史社会の石材獲得と流通-」の取材でタレントの三四六さんをはじめとするabn長野朝日放送「駅前テレビ」のみなさんが当館を訪れました。
「黒曜石」をテーマとした番組づくりをしているとのことで、秋季企画展を担当している当館の大竹総合情報課長も出演する予定です。番組を見て黒曜石に興味をもっていただき、実物の黒曜石を当館でご覧いただければと思います。
なお、放送は11月24日(土)の予定です。当館の秋季企画展は翌日の25日(日)までですので、ご注意ください。

abn長野朝日放送「駅前テレビ」のみなさんが秋季企画展の取材に訪れました。
左からタレントの三四六さん、abnの松坂さん、大竹総合情報課長
abn長野朝日放送「駅前テレビ」のみなさんが秋季企画展の取材に訪れました。
収録の様子
[ 2018-11-08 ]

歴史館パートナーの日「県立歴史館・KOAの日」を開催しました。

お知らせ

 昨年に引き続き、本年度も伊那谷に拠点を置く、電子部品の開発・製造・販売の「KOA株式会社」様のご協賛により、「県立歴史館・KOAの日」を10月28日(日)に実施いたしました。当日は入館料が無料で、絵巻「木曽願書」の特別公開、考古バックヤード探検、赤外線透視など特別なイベントも開催し、秋の晴天のもと多くのみなさまにお越しいただきました。
 KOA株式会社が拠点を置く上伊那からは上伊那広域連合歴史館ツアーの皆さま約50名が来館し、当館の展示やバックヤードなどをしっかりと見学していただきました。見学後、子どもたちから館長への積極的な質問もありました。歴史に親しみ、その楽しさを味わうことができたのではないでしょうか。
 来週11月3日(土・祝)は森将軍塚まつりで入館料が無料、この日もさまざまなイベントをご用意しておりますので、ぜひお越しください。

歴史館パートナーの日「県立歴史館・KOAの日」を開催しました。
上伊那広域連合歴史館ツアーのみなさまにあいさつをする向山KOA株式会社会長
歴史館パートナーの日「県立歴史館・KOAの日」を開催しました。
黒曜石ナイフ体験をする上伊那広域連合歴史館ツアーのみなさま
[ 2018-10-31 ]

山梨県立博物館と包括的な連携協定を締結しました。

お知らせ

 長野県立歴史館と山梨県立博物館は、両館の発展と両県の県民の文化と生涯学習の振興に寄与するために、業務運営について連携・協力するための協定を締結しました。10月26日(金)には、当館において山梨県立博物館の守屋正彦館長と当館の笹本正治館長をはじめ、関係者の出席のもと調印式が行われました。県内の多くの報道機関も取材に訪れ、関心の高さが伺えます。なお、この連携の目的は次のようになっております。

連携の目的
長野県立歴史館は限られた予算・人材の中で、資料の収集・保管をしていかなければなりません。それと同時に、県立の歴史館として今以上に質の高い調査研究を行い、その成果を展示・各種講座・出版などを通じ広く情報を県民に提供していくことが求められています。さらに、災害時の文化財保護についても私たちは大きな役割を負っています。
このために近隣の博物館と協定を締結することで、相互の資源(人的資源、収蔵品等)の活用、学際的な研究の推進、人材の育成と地域貢献活動の推進、展示等による効果的な情報の発信、災害時における文化財保護を推進していきたいと思っています。
そこで協定締結に当たっては、両施設が距離的に近いこと、日本遺産・山岳文化・武田氏などの分野で関係が深いことから、山梨県立博物館と最初に連携協定を締結することにしました。今後、随時、近隣県の博物館との連携を進めていきたいと考えています。
 
 具体的な取り組みは現在検討中です。県民の皆さまの文化的向上に貢献につながるよう取り組んで参りますので、ご期待ください。

山梨県立博物館と包括的な連携協定を締結しました。
山梨県立博物館 館長 守屋正彦 様 (左) 当館 館長 笹本正治 (右)
山梨県立博物館と包括的な連携協定を締結しました。
[ 2018-10-28 ]

コッキー、ヨッキー、セッキーがお待ちしています。

お知らせ

当館では、秋季企画展「最古の信州ブランド黒曜石-先史社会の石材獲得と流通-」を11月25日(日)まで開催中です。今年5月に日本遺産に認定された「星降る中部高地の縄文世界-数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅-」の構成文化財も展示しています。ぜひご覧ください。
この企画展に伴い、黒曜石の石器をモチーフに当館オリジナルキャラクター「コッキー」「ヨッキー」「セッキー」が登場。1階受付のミュージアムショップでは、オリジナルカンバッチを販売しております(1つ100円)。10月20日(土)の国際交流子どもサミットや21日(日)の国際シンポジウムに合わせて、英語バージョンもご用意しております。当館にお越しの際はぜひお買い求めください。

コッキー、ヨッキー、セッキーがお待ちしています。
コッキー、ヨッキー、セッキーがお待ちしています。
[ 2018-10-17 ]

新・旧県宝のそろい踏み~縄文時代の動物装飾付釣手土器~

お知らせ

 9月、主に諏訪地区の縄文土器158点が「信州の特色ある縄文土器」として県宝に指定されました(9月27日告示)。新たに県宝になった土器は、各市町村の博物館などでみることができます。
 これにあわせて当館常設展示室では、諏訪市穴場遺跡の動物装飾付釣手土器(複製品)を新たに登場させました(写真左)。縄文時代中期(約5,000年前)、ヘビ?を思わせる装飾が3匹、香炉の釣手の上に乗っています。また、器の両側の縁では2匹がとぐろを巻いています。すでに県宝になっている富士見町札沢(ふださわ)遺跡出土品(約5200年前:当館蔵:写真右)と並んで展示しました。
 札沢例は、器全体がとぐろを巻く親ヘビと見ることも可能です。そこへ、三角頭の子ヘビ?(ツチノコのような形)3匹が上端に並んで乗っており、最後の一匹が下から登って来る途中のようにみえます(1枚目写真)。最後の一匹は、2枚目の写真と同じ角度でみると、器の向こう正面にちょうど顔がのぞき、4匹そろってこちらを見ているように配置されています。縄文人の絶妙でオシャレな感性を味わってみてください。
 一方、時期が新しい穴場例は、釣り手部分の装飾が華美になります。札沢例では三角頭だったヘビ?が、鼻先の平らな何者かに変化しています。体の装飾も派手で、ドラゴン?あるいはイノヘビ?(イノシシとヘビが合体?)へ進化したように感じられます。
 みなさんはどんな動物、精霊を想像されるでしょうか。常設展示室で、両者の変化をじっくりと見比べてみてください。

新・旧県宝のそろい踏み~縄文時代の動物装飾付釣手土器~
新・旧県宝のそろい踏み~縄文時代の動物装飾付釣手土器~
[ 2018-10-11 ]

古文書公開日記15-軍馬を送る-

お知らせ

 1937(昭和12)年に「久保田俊彦先生追悼謝恩会」が開催されました。久保田俊彦の名を聞いて、上諏訪村角間(諏訪市)出身の歌人島木赤彦の本名と分かる方はきっと短歌をたしなまれる人ではないでしょうか。しかし島木赤彦13回忌の記念事業で、追悼短歌が広く募集されたことはあまり知られていないでしょう。短歌の選者は、正岡子規の門下であり赤彦とともに結社「氷むろ」(のち「比牟呂」)を立ち上げた森山汀川(諏訪郡落合村出身)です。今回整理したのは、森川が選者となった赤彦追悼のために投稿された100通以上の葉書(短歌)です(3-28 森川汀川蔵島木赤彦追悼短歌)。アララギ派歌人ゆかりの富士見野公園(富士見町)に追悼歌碑を建立することが発議され、昭和12年10月24日に信濃教育会・諏訪教育会と合同で挙行されました。この事業の賛同者は、北は北海道はいうまでもなく樺太、南は南洋諸島・南米、大陸には中国・満州、朝鮮、台湾からと幅広い地域の賛同者がありました。赤彦や汀川が教員だったことも反映して県内小学校教員の投稿も目立っています。
 面白いのは投稿された短歌が時局の世相を反映したものが多いということです。とくに同年7月の日中開戦直後でもあることから、「馬廠陥落」「石家荘占拠」といった戦争関連の題が多くみられ当時の世相を伝えています。
 写真の題は「秋日和この頃つづき献納の 馬糧の草のよく乾きたり」です。良質の馬の多い信州からは多くの軍馬が徴用され大陸へ送られました。その様子がよく分かる歌ではないでしょうか。

古文書公開日記15-軍馬を送る-
[ 2018-10-06 ]

ウーリーちゃんを捜せ ~ライバル現る?~

お知らせ

 一昨年から、常設展示室の阿久ムラに居ついたイノシシの幼児“ウーリーちゃん”。ムラの周囲に広がるススキの原をウロウロしていたら、なにやら、今まで阿久ムラでは会ったことのないお友だちと遭遇。
 さて、この後ろ姿(左写真)は?
 良く見ると、工事休館前まで、竪穴建物の柱につり下げられていた野ウサギ(右写真)ではありませんか。縄文人に捕まって食べられてしまう寸前!という設定で長年展示されていましたが、来館者に「ホンモノ?」「(つり下げられていて)かわいそう」「毛がふわふわ」などと言われ、なでられ・いじられ・引っ張られ、回されたりして、痛々しかったので野に放ってあげました。
 なんとなく、ウキウキしているように見えますが・・・いかがでしょう。
どこにいるのか、常設展示室で探してみてください。愛称もつけてあげてください。

ウーリーちゃんを捜せ ~ライバル現る?~
ウーリーちゃんを捜せ ~ライバル現る?~
[ 2018-09-20 ]

古文書公開日記14-信濃の桶茶-

お知らせ

 昨年寄贈を受けた伊那郡石曽根村(現在の飯島町)飯島家文書のなかに面白い史料がありました。タイトルは「七十之日記」です。江戸時代後期の飯島家の当主為仙(ためのり)が七十歳になる文政九(一八二六)年の正月に思い立って書き始めた日記です。日々の記録の中に、跡取りや、飯田に住む娘と孫娘たちとの交流を書き記しています。特に注目したいのは、七十歳の為仙が、すでになくなってしまった風習や言葉遣いなどを懐かしみ、しばしば記録に残していることです。例えば、こんなくだりがあります。「(文政九年七月十八日)我が若かったころは午前10時ごろと午後2時頃、耕作に出た男どもが田畑の畦に打ち寄せあい休んでいると女の人が柴茶をこく煎じてきて、小さい茶振り桶を携えてそこにお茶を汲み大きな茶筅で泡をたて、茶碗にこぼれるほど入れたものを2・3杯ずつ飲んだものだ。家の中でもこのように汲んでいたのを五十年ほど前にこの風習はなくなってしまった。信濃の桶茶といって他国にも知られていたが、この里だけでなくよそでも絶えてしまったそうだ」という文章から、南信地域には桶茶と呼ばれるものがあったようです。これは、抹茶ではないが、煎茶を茶筅でかき回して泡を立ててそれをいただいたものだということが分かります。
 この文章から南信地域には、茶筅で大きな桶を振りまわして泡をたてるお茶があったことを知ることができます。一般にこのようなお茶を「振り茶」といいます。「振り茶」といえば、ソフトクリーム状に盛り上がった、沖縄の伝統茶「ぶくぶく茶」を思い出します。
 『長野県史』民俗編によると、南信とくに飯田より南の地域には「お茶を食べる」という方言があったことが分かります。信濃の「桶茶」と「お茶を食べる」。関係があるのかないのか、大変興味をそそられます。

古文書公開日記14-信濃の桶茶-
古文書公開日記14-信濃の桶茶-
[ 2018-09-17 ]

古文書公開日記13-松本藩鷹待役と青木昆陽-

お知らせ

 先日、県外の古書店から松本藩の鷹待(たかまち)に関わる家の史料約70点を購入しました。鷹待とは鷹の巣のある山から鷹を捕獲する役で、殿様の免許がいる職でした。捕獲した鷹を調教し殿様の鷹狩りに伺候するのが鷹匠(たかじょう)です。今回はその整理のなかで見つかった1通の嘆願書を紹介しましょう。
 松本藩領安曇郡小室(おむろ)村(現在の松本市梓川)の左五兵衛の家は小笠原秀政の時代に鷹待免許の朱印状を拝領して以来、先祖代々その役を勤めた家柄だったといいます。ところが、寛政のころ与惣右衛門は同村で同役を仰せつかっていた与惣右衛門と口論となり、その後なぜか左五兵衛の家の免許が取り消されてしまったという事件が起きました。
左五兵衛はかつて、1741(寛保元)年に幕府御書物御用達の青木昆陽(文蔵)が信州へ古文書調査をおこなった際に、先祖の朱印状を文蔵に渡したと述べています。そして昆陽は江戸へこれを持参しています。ちなみに青木昆陽といえばサツマイモの栽培で有名ですが、昆陽は将軍吉宗の命で全国の古文書の収集・調査に当たったアーキビストの先駆者です。
左五兵衛はこの嘆願書のなかで、自分の家が鷹待役であるという経歴は、昆陽はおろか、「御上様御存被遊」と将軍まで知っていることなのに今回その役目を取り上げられるのは心外だ、と述べています。この嘆願書は、不当な決定をなんとか覆していただきたいという訴えを村役人を通じて上申したものなのです。
 なお、昆陽が借用した朱印状なのですが、昆陽が調査史料を編集した史料集「信州古文書」には残念ながら掲載されていません。『信濃史料』(巻22、8頁)にはそれと思われるものが翻刻されていますが、今回購入した文書のなかには含まれていません。
これらの文書70点は整理が終わり次第、公開の予定です。

古文書公開日記13-松本藩鷹待役と青木昆陽-
[ 2018-09-14 ]

河童だより13 河童のモデル「すっぽん」

お知らせ

 江戸時代にはさまざまなタイプの河童の絵が描かれていますが、多くの河童には背中とお腹に甲羅がついています。しかし、描かれた河童の甲羅には、亀甲模様があまり見られません。このことから、甲羅も皮膚で覆われているスッポンの姿が大きく影響していると思われます。スッポンは、もともと日本に生息していたカメの一種です。「和漢三才図会」(1712年)に登場するスッポンは、中国の川の神である河伯に仕えている存在とされています。水の神と深い関係がある河童とも通じるものがあります。このようなことからもスッポンの姿が河童の姿のモデルとされたのかも知れません。

河童だより13 河童のモデル「すっぽん」
すっぽん(和漢三才図会より)
[ 2018-07-19 ]

河童だより12 河童ほど有名になれなかった「山童」

お知らせ

 河(川)に住む子どものような生き物なので「河童」という呼び名がついたとも考えられていますが、山に暮らす子どものような生き物である「山童(やまわろ)」が「和漢三才図会」(1712年)に紹介されています。山童は、九州の山奥にいて、姿は10歳くらいの子どものようで、全身に柿褐色の細い毛が生えています。足が長く、腹が短い、人の言葉を話す、食べ物を与えれば喜んで食べ、手伝いをし、力は強いなどと紹介されています。子どものような大きさで、全身が毛に覆われている点などは「和漢三才図会」の河童(川太郎)の絵に共通する部分がたくさんあります。しかし、残念ながら山童は河童ほど有名にはなれませんでした。山よりも水との結びつきの方が強かったからなのかも知れません。

河童だより12 河童ほど有名になれなかった「山童」
山童(和漢三才図会より)
[ 2018-07-17 ]

河童だより11 中国の河童?「水虎」

お知らせ

 「河童」のことを「水虎(すいこ)」と呼ぶ場合もあります。本来の水虎は中国の川に生息する想像上の動物で、日本の河童とは違うものと『和漢三才図会』(1712年)には書かれています。「大きさは3、4歳の子どもほどで、全身が鯉のような鱗に覆われて固く、矢も刺さらない。膝に虎の爪のようなものがあり、水の上に出している。これに、子どもが悪戯をするとかむ」と紹介されています。子どものような大きさであったり、水中に生息していたり、河童の仲間と思われたのか、中国の文化への憧れからなのか、江戸の知識人は、河童のことを好んで水虎と呼んでいました。

河童だより11 中国の河童?「水虎」
水虎(和漢三才図会より)
[ 2018-07-15 ]

河童だより10 河童だけではない不思議な生物−信濃奇勝録−

お知らせ

 『信濃奇勝録』(全5巻)は、江戸時代末期に、佐久郡の井出道貞が信濃国各地を調査した結果をまとめたものです。残念ながら河童は登場しませんが、不思議な生き物がいくつも紹介されています。
 一巻には、いわゆる「つちのこ」が「野槌(のつち)」として紹介されています。木曽の馬籠と妻籠と間の山中に、8月頃時々出現するされ、形は「蛇の如く中太らか」とあります。大きなものは「長さ一尺二三寸太さ一尺廻り」と書かれおり、「敢て害をなす事なしといへり」とあることから、毒はなくマムシのように危険なヘビとは考えていなかったようです。
 三巻には立科山(蓼科山)に生息する雷獣(らいじゅう)が紹介されています。「この山に雷獣ありて住む故に雷岳という。その姿は子犬のようで、毛はムジナに似て、目のまわりは黒い。鼻つらは細く、下唇が短く、尾も短い。足の裏は皮が薄く、小児の足のようだ。つめは5本あってワシのようであり、冬は穴を掘って土中に入るので、千年モグラとも呼べる。常には軟弱にして人にもなれ、雨が降ろうとするときは勇ましく、接することが難しい」とあります。人になれる子犬のような姿には、恐ろしい幻獣のイメージは見られません。

河童だより10 河童だけではない不思議な生物−信濃奇勝録−
野槌(信濃奇勝録より)
河童だより10 河童だけではない不思議な生物−信濃奇勝録−
雷獣(信濃奇勝録より)
[ 2018-07-13 ]

河童だより9 不思議の国 信濃

お知らせ

 佐久郡の瀬下敬忠が1753(宝暦3)年に著した『千曲之真砂』には「信濃の国は板東一高き国なり、甲斐よりものぼり、越後よりものぼる、美濃よりものぼるといへり」「この国外より流れ入る水無し、近国の大河、この国を川源とす」と書かれています。信濃には高い山が連なり、そこから流れる水は、やがて大河となって他国を潤すようになります。現代の長野県に対しても、同じようなイメージを持つ人は多いのではないでしょうか。
 日本中の不思議を集めた江戸時代の番付「大日本国中ふ志ぎくらべ」には、行司として「戸隠山」、頭取として「善光寺」があります。また、番付順に「諏訪郡すわ湖の氷」「妻子ははき木」「戸隠山九頭竜神供」「小県郡浅間山のけむり」「諏訪者釘なしの回廊」「水内郡善光寺の通夜」「善光寺りう燈」「戸隠山拝殿ばかりの社」「諏訪毎日雨のふる処」「諏訪社すわの塔のかげ」「犀川まがりばし」「「木曽かけはし」「ねづみ足のつく人」の13箇所が紹介されています。これは、奥州、武州に続いて3番目の多さです。江戸の人びとにとって山深い信濃は、神秘的なイメージがあり、不思議な魅力を感じさせる場所でもあったようです。
 芥川龍之介の小説「河童」や水木しげるのマンガ「河童の三平」に出てくる河童の世界が長野県を舞台にしていることにもつながっているのかも知れません。

河童だより9 不思議の国 信濃
大日本国中ふしぎくらべ 江戸時代 1846(弘化3)年 当館蔵
[ 2018-07-11 ]

河童だより8 河童の妙薬「加減湯」長野県駒ヶ根市に残る河童伝説

お知らせ

 山がちな長野県内では、いくつもの谷筋に水が流れ、人びとは水と深く関わりながら生活をしてきました。そこに情報の広まりとともに河童が入り込み、多くの河童伝承が誕生しました。
 現在の駒ヶ根市の東伊那地区には、次のような伝承が残ります。昔、太田切川が天竜川に合流し、天竜川東岸に突き当たる地点に「下り松の淵」と呼ばれる淵がありました。そこへ、高遠藩の川奉行である中村新六が見回りのため、馬に乗って通りかかりました。河童は馬のシリコダマが大好物です。たまらず馬に飛びつき水に引き込もうとしましたが、驚いた馬が走り出しました。馬のしっぽの毛に絡まってしまった河童は、必死で抵抗しましたが、馬の力にはかなわず、新六の屋敷の馬小屋まで連れてこられてしまいました。捕らえられた河童は「二度とこのような悪戯はしません。お詫びに痛風の薬の作り方をお教えします」と必死に訴えました。河童をかわいそうに思った新六は、河童を許してあげました。河童は屋敷の裏にある池で暮らしながら、約束通り痛風薬の作り方を教え、中村家では戦前まで痛風薬「加減湯」の製造・販売を行っていたそうです。

河童だより8 河童の妙薬「加減湯」長野県駒ヶ根市に残る河童伝説
「つうふうの妙茶」内包紙下書 天竜かっぱ広場おもしろかっぱ館蔵
河童だより8 河童の妙薬「加減湯」長野県駒ヶ根市に残る河童伝説
薬研 天竜かっぱ広場おもしろかっぱ館蔵
[ 2018-07-09 ]

河童だより7 河童とニホンカワウソ

お知らせ

 「河童」という文字の初出は、室町時代の国語辞典『下学集』と言われています。「獺(カワウソ)」の説明として「獺老いて河童という者になる」とあります。カワウソが老いると河童になると考えられていたようです。長野県内では、河童のことを「カワウソ」と呼んでいた地域もあり、カワウソが河童のモデルの一つなのかも知れません。
 ニホンカワウソは、かつて日本全国に生息していましたが、乱獲と開発によって生息数が激減していきました。ニホンカワウソの冬毛は緻密な毛が密集して生えており、保温性に優れ、防寒着としての需要が高く、高価な価格で取引されていたようです。
 昭和の初め頃には狩猟が禁止となりましたが、その後も減り続け、1965(昭和40)年には特別天然記念物に指定されます。1979(昭和54)年6月に高知県で目撃されたのを最後に国内での目撃情報は途絶えます。ついに2012(平成24)年には絶滅種に指定されています。
 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」に展示しているニホンカワウソの剥製は、新潟県柏崎市周辺で捕獲されたものと思われます。この個体はまだ子どもで夏毛です。状態がよく、水辺に生息していた当時の姿をそのまま残しています。泳ぎがうまく、滅多に見ることができなかったニホンカワウソは、当時の人にとって河童と同じような不思議な存在だったのかも知れません。

河童だより7 河童とニホンカワウソ
ニホンカワウソ剥製 柏崎市立博物館蔵
[ 2018-07-07 ]

河童だより6 捕獲・目撃された河童たち

お知らせ

 江戸時代に入ると本草学者たちにより、実在する生き物として河童が紹介されていきました。河童が実在する生き物ならば、捕獲されたり目撃されることもあるはずです。という訳で、さまざまな場所で捕獲・目撃されたとする河童の記録が当時の文献に見られます。長野県内では、伊那郡を中心として奇談が収められている『信濃奇談』に、天正(1573〜1592年)の頃に、羽場村(現在の辰野町)で捕らえられた河童について記述があります。天竜川のほとりに放しておいたウマを河童が川に引きずり込もうとしますが、ウマが暴れ、河童は引きずられて人間に捕まってしまいます。馬屋の柱に縛り付けられた河童を親切な人が逃がしてあげると、その恩に報いるため、川魚などを戸口に置いていくようになったという話です。
 「水虎十式品之図」には、各地で捕獲されたり目撃されたりした河童が描かれている刷り物(印刷物)です。カメに似た河童だけでなく、人やサルに似たものなどその姿は様々です。このような河童の情報は、印刷物となることでさらに多くの人びとの間に広まっていくことになります。

河童だより6 捕獲・目撃された河童たち
水虎十式品之図 江戸時代 1855(安政2)年 国立歴史民俗博物館蔵
河童だより6 捕獲・目撃された河童たち
信濃奇談 江戸時代 1829(文政12)年 当館蔵
[ 2018-07-05 ]

河童だより5 人気商品です。

お知らせ

 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」(7月29日まで開催中)にちなみ、カプセル・トイもニューバージョンが登場しています。「葛飾北斎浮世絵立体図録」です。葛飾北斎の絵が立体作品となったものです。一番人気は、やはり「河童」です。水辺で膝を抱える河童は、さみしそうでもあり、悟りを開いたようでもあります。当館来館の折にはぜひ挑戦してみてください。
 また、当館のミュージアムショップでは、夏季企画展オリジナルのマグネットを販売しています。クリップがついており、工夫次第でいろいろな使い方ができそうです。一つ100円と手ごろな価格も魅力です。また、同じくミュージアムショップでは、夏季企画展図録「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」も販売しています。夏季企画展の展示物の写真や説明だけでなく、豊富なコラムで、人の水への意識の変化と河童との関わりをわかりやすく解説してあります。期間中に売り切れてしまうこともありますので、お早めにお買い求めください。

河童だより5 人気商品です。
カプセルトイの「河童」
河童だより5 人気商品です。
オリジナルマグネット
[ 2018-06-30 ]

河童だより4 河童登場!

お知らせ

 江戸時代に入ると、いよいよ河童の活躍が始まります。水を制御する技術が進むと、水への畏れが薄らぎ、河童が誕生します。最初に「河童」という言葉が現れたのは室町時代の辞書である「下学集」と言われていますが、河童を実在する生き物として世に広めていったのは、江戸時代の本草学者たちでした。本草学とは、もともと中国で生まれた医薬に関する学問でしたが、日本に伝わると、対象を広げ、博物学として発達していきました。本草学者は、百科事典としての本草書を作成する中で、それまで各地に伝わっていた伝承をもとに、河童がどのような生き物であるのかを追究していったのです。そこには、現代の河童のイメージにつながる特徴も記されています。
 江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には、河童が「川太郎(かはたろう)」と紹介されています。西国、九州の谷間、池、川に多く生息し、10歳くらいの子どものようで人の言葉を話す生き物とされ、頭に皿があり、水がなくなると力が出なくなると記されています。また、全身が毛で覆われた「川太郎」の図が紹介されています。描かれた河童としては初期のものと思われます。背や腹には甲羅が見られず、どちらかというと、サルに近い風貌になっています。
 実在する生き物として扱われていた河童なので、この後、捕獲・目撃された河童たちがつぎつぎに登場していきます。

河童だより4 河童登場!
『和漢三才図会』に紹介されている「川太郎」
河童だより4 河童登場!
和漢三才図会 1712(正徳2)年
[ 2018-06-28 ]

河童だより3 河童はウマが大好き!

お知らせ

 河童の大好物といえば「キュウリ」を思い浮かべる方が多いと思いますが、他にも「シリコダマ(肛門の奥にあるといわれる架空の臓器)」や「相撲」、「ウマ」が文献や伝承に登場します。
 県内に数多く残る河童の伝承の中で、最も多く登場するが「ウマ」です。河童はウマを見ると、飛びついて水に引き込もうとします。ほとんどの場合は失敗し、人間に捕まってしまうので、成功率は低いと思われますが、それでも飛びついてしまうのです。
 柳田国男をはじめとする多くの民俗学者が、河童の正体は水神が零落したものであると唱えています。かつて、水神に対する信仰は厚かったのですが、信仰が薄らぐ中で水神は河童へと零落したというものです。その根拠の一つが河童が馬を水に引き込む「河童駒引」です。水神へウマを供えていた習慣のなごりが、河童駒引きへとつながっているというものです。
 今回の展示では、河童が登場する江戸時代以前の人と水との関わりがわかる考古資料も展示しています。その中の一つが水辺の祭祀用のお供えと考えられる「ウマ下顎骨」(飛鳥時代 千曲市屋代遺跡群出土 当館蔵)です。大切なウマをお供えするわけですから、それだけ水に対する思いも強かったことが予想できます。河童が本格的に登場するのは江戸時代以降ですが、それ以前の人と水との関わりについての展示も、河童につながる興味深いものになっています。夏の企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」は7月29日(日)まで開催しております。ぜひお越しください。

河童だより3 河童はウマが大好き!
ウマ下顎骨 飛鳥時代 千曲市屋代遺跡群出土
河童だより3 河童はウマが大好き!
河童駒引イメージ
[ 2018-06-26 ]

河童だより2 河童の顔出しパネルがお待ちしています!

お知らせ

 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」では、河童が活躍し始める江戸時代以降の資料だけでなく、河童が誕生する前の人と水との関わりに関する考古資料など、100点以上を展示しています。資料をじっくり見ていただき、人と水との関わりを象徴する河童の姿を感じ取っていただければと考えています。しかし、見どころは企画展示室の中だけではありません。展示室前には、河童の顔出しパネルが皆さんをお待ちしています。リアルな河童の姿に一瞬とまどいを感じるかも知れませんが、観覧者のみなさまには好評で、連日多くの皆さんが撮影をされています。パネルの背景には、水をイメージした青いシートが敷かれています。
 ぜひみなさんも、夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」にお越しいただき、河童と出会ってください。

河童だより2 河童の顔出しパネルがお待ちしています!
[ 2018-06-21 ]

河童だより1 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」がはじまりました。

お知らせ

 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」が6月16日(土)より開催されています。オープニングでは、河童が薬の作り方を教えてくれた伝承が残る駒ヶ根市の本多教育長様と長野県教育委員会の原山教育長、当館の笹本館長がテープカットを行い、7月29日(日)までの展示がスタートしました。午後には、関西学院大学教授の西山克先生による講演「妖物の誕生」があり、展示と合わせ、大勢のみなさまにご参加いただきました。
 はっきりとしない梅雨空が続きますが、こんな天候こそが「河童日より」です。ぜひ、当館夏の企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」にお出かけください。

河童だより1 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」がはじまりました。
河童だより1 夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」がはじまりました。
[ 2018-06-19 ]

夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」 6/16(土)〜7/29(日)

お知らせ

平成30年度夏季企画展
君は河童を見たか!−水辺の出会い−
開催期間:平成30年6月16日(土)〜7月29日(日)

 水は人にとって必要不可欠である一方、災いをもたらす原因でもありました。そのため、水と人の接点となる水辺は、生産の場であると同時に祈りの場でもありました。やがて水を制御できると考えはじめると、圧倒的な力を持つ神ではなく、河童が姿を現します。
 水辺に暮らす河童は、人が暮らす世界と水の世界を往き来し、人に幸を運んできたり、あるいは恐怖を与えてきたりしました。そして、人に寄り添いながら、時代とともに立場を変えていきます。
 本展示では、各時代における河童のイメージを通して、人の水に対する意識の変化を示します。そのことを通して、県内の水にまつわる景観を再認識し、河童ともども水辺への関心が高まることを願います。

○求む!河童情報 メール rekishikankappa@outlook.jp まで

○主な展示史資料
・「蛙状装飾付有孔鍔付土器」中越遺跡出土 縄文時代中期 宮田村教育委員会蔵
・「銅鑵子」長野市松代町大鋒寺蔵
・「寛永年中豊後肥田ニテ捕候水虎之図」 川崎市市民ミュージアム蔵
・「河伯手(河童の手)」 江戸時代 個人蔵
・月岡芳年「錦絵 和漢百物語 白藤源太」 江戸時代 国立歴史民俗博物館蔵
・「『つうふうの妙茶』内包紙下書」 天竜かっぱ広場おもしろかっぱ館蔵
・小川芋銭「河童百図第六十五図 カッパ」昭和12年 牛久市蔵

○講演会「妖物の誕生」
6月16日(土) 13:30〜15:00
講師:関西学院大学文学部教授 西山 克 氏

○関連講座
7月14日(土) 13:30〜15:00
「河童が登場するまで−水と人との関係史−」
講師:寺内隆夫(当館職員)
「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」
講師:溝口俊一(当館職員)

夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」 6/16(土)〜7/29(日)
「銅鑵子」長野市松代町大鋒寺蔵
夏季企画展「君は河童を見たか!−水辺の出会い−」 6/16(土)〜7/29(日)
夏季企画展ポスター
[ 2018-05-17 ]

古文書公開日誌12 書判と印判の「判物」

お知らせ

5月の連休も終わり、日常生活に戻りました。古文書整理作業もこれからも順調にすすめていきます。
 さて、当館に収蔵される古文書はどういうルートではいってくるかご存知ですか。
 1つは書店から購入する方法です。各月、県外の古書店から「古書目録」が送付されてきます。そのなかで県内関係の古文書をピックアップします。場合によっては、該当する市町村の担当の方に情報を提供し状況を共有しています。
 第2は寄贈・寄託というルートです。個人の所有者の方から寄付されるものが「寄贈」、緊急避難的に史料をお預かりするのが「寄託」。とくに近年では、土蔵を壊した際に古文書が保管できなくなったというお話もたびたび耳にします。「古いものだから」といって焼却したり、ごみとしてしまうと、ご先祖様の大切な記録が永久に失われます。そんなときなどお困りのことがありましたら、捨ててしまう前に当館までご一報いただければ幸いです。地元の教育委員会様と連携しながら適切な解決方法が見出せればと思います(ただし収蔵スペースの問題もあり当館でのお引き受けを確約するものではありませんが)。
 さて5月には飯田藩士杉本家文書(寄託史料)を整理しました。
 系譜によると、杉山家はもともと烏山藩(栃木県)初代堀親良に仕官したといいます。堀家御普請奉行・代官を勤め、その後堀家が飯田に転封になって飯田藩士となった家です。最後は300石高の知行取でした。
 藩士の家の史料は、様ざまな書簡や知行証文、借用証文、家の芸能書(故実書)など多様な史料で構成されています。しかし本史料群には、系譜および歴代藩主より与えられた知行判物しか残っていません。ある段階で家の重要書のみが分けられそれ以外は散逸したのでしょうか。
 この史料は飯田藩主のうち初代を除く代々の藩主からの判物が含まれています。判物とは、将軍や藩主の花押の据えられた文書で知行の給与がおこなわれるものです。また本史料群には同じ家に対して黒印状による知行安堵も見られます。書判の「判物」と印判の「判物」の差は、前者が重臣ランク、後者はそれ以下の武士対象、という言わば「家格の高低」の差によるとされます。杉本家はその中間にあったランクの家といえるのでしょうか。

古文書公開日誌12 書判と印判の「判物」
元文3(1738)年 堀親蔵判物
[ 2018-05-09 ]

ナウマン君復活!

お知らせ

 常設展示室入口のナウマン君(ナウマンゾウのオス模型)が復活しました。
 22歳を過ぎた頃から体調をくずし、首を振ってごあいさつできなくなっていました。この春、二度目の手術が成功し、ようやく元気になりました。春先に見学に来てくれた人たちから「動かなくて残念だな」という声をたくさんいただきましたが、もう大丈夫です。今まで以上に大きく首を振ってごあいさつできるようになりましたので、みなさん、会いに来てください。
 また、縄文時代の竪穴住居の中で、縄文人に捕まって吊されていた、という設定だったキジが移動しました。お気づきになったでしょうか。今年度は自由の身になって、阿久ムラの中のとある場所で、活き活きとムラの様子をうかがっています。どこに居るか探してみましょう。また、一昨年からムラの中をうろうろしているウ〜リ〜ちゃん(イノシシの幼獣=うり坊)も健在です。縄文時代のムラは、動物たちが出入り自由な空間だったことを感じていただければ幸いです。
 ウ〜リ〜ちゃんは、今年度も居場所が時々変わりますので、楽しみにしてください。どこに行ったかは、時々、このブログでご報告します。

ナウマン君復活!
ナウマン君復活!
[ 2018-05-05 ]

古文書公開日記11−宝寿院殺人事件−

お知らせ

 平和な江戸時代の農村。しかし突然、村中を揺るがす事件が起こることもあります。埃だらけの文書のなかから、突如殺人事件の記録が出てきました。
 ときは1724(享保9)年9月。小県郡のある村で事件は起こりました。9月14日の夜半、手塚新町村(上田市)在住の六兵衛がこの村の住民によって不意に打ち殺されたというのです。早速取調がおこなわれました。山伏の宝壽院という下手人がいうには、「自分の村で夏に出火があり、村人が用心していた、秋になり六兵衛が来村し村人に絡んできたので怪しいやつだと思っていた、そしてその日の夜六兵衛が又三郎という男の家に入り込んだのです、又三郎当人は不在で母親だけが寝ていたが、彼女は驚き、私の所へ通報してきた。夜半であったので私も様子をうかがい(翌日役所へ)届け出ようとしたが、もってのほかのことに六兵衛が悪口を浴びせてきて脇差しで抵抗してきたのです。私と打ち合いになりました。そして当たり所が悪かったのか、六兵衛は即死してしまった。六兵衛は当村のあた(仇)であると思ったので打ち殺したが、役人に届け出ず報告が延行してしまったのは当方の不調法です」と弁明しています。これに対し、妻は「夜中であったので寝ていたのでまったくわからない」と答えています。村名主らも「村内外において宝壽院を手伝ったものは壱人もいない、また今後一切この件について難癖をつける者がおりませんことを連印してお誓いします」と述べています。
 これらからは緊迫感の伝わる文書が何通も含まれています。これらは現在整理中ですが、面白い文書だったので紹介しました。これらは「小県郡関係地方(じかた)文書」として近々目録が完成する予定です。

古文書公開日記11−宝寿院殺人事件−
古文書公開日記11−宝寿院殺人事件−
[ 2018-04-14 ]

常設展示室に河童形土偶が登場

お知らせ

 3月の常設展示室リニューアルに合わせ、初めてお披露目する資料を縄文コーナーに登場させました。千曲市屋代遺跡群(高速道地点?区)の地下6mで発見された、縄文中期前葉(約5,500年前)のムラ跡から出土した土偶です。
 そんなに深い所に埋まっていたのだから、完全な形で残っていても良さそうなものですが、すべてバラバラな状態で見つかっています。実は全国的にみても、約20?以下の小形の立像土偶には、完全な形をしたものがほとんどありません。これは、祭りや呪いなどに使われた後、わざと壊してしまったためと考えられています。この点は、丁寧に埋められていた国宝「縄文のビーナス」(複製を展示)などの大形の立像土偶とは明らかに扱い方が違っています。
 さて、屋代遺跡群の土偶を見ると、頭の上が真っ平らか、わずかに凹んでいることがわかります。こうした特徴は、縄文時代中期の長野県北半部〜北陸・新潟方面に多くみられ、現代の考古学者たちは「河童形土偶」と呼び習わしています(縄文人が何と呼んでいたかは不明です)。
 どうして、こんな頭の形をしているのでしょうか。土偶は、精霊(カミ)の姿を表現したものと考えられています。そのため、人間に似せていたとしても人間ではないことを示すため、形やバランスを変えていたようです。頭が平らな方が、何か特別な力が出ると考えたのでしょうか。そのあたりの事情も、今ではわからなくなっています。みなさんも想像をふくらませてみてください。
 河童形土偶は、夏季企画展「君は河童を見たか!」(6月16日〜7月29日)の期間中も常設展示室で展示しています。ぜひ、あわせてご覧下さい。

常設展示室に河童形土偶が登場
[ 2018-03-24 ]

長野県立歴史館「信州を学ぶ」シリーズの発刊

お知らせ

 長野県立歴史館では、「信州を学ぶ」シリーズ第1弾・足元を探る編として、『日常生活からひもとく信州』を発刊します。
 信州の衣食住にかかわる歴史をさまざまな角度からわかりやすく掘り下げた1冊です。
 当館ミュージアムショップでは、3月21日(祝・水)から発売します。
 どうぞお買い求めください。

●編著者:長野県立歴史館
●出版社:信濃毎日新聞社
●種 類:単行本(ソフトカバー)
●頁 数:226ページ

長野県立歴史館「信州を学ぶ」シリーズの発刊
[ 2018-03-10 ]

カプセルトイに新シリーズ「ふにわ」登場!

お知らせ

来館したみなさまに好評な当館1階エントランスのカプセルトイに新シリーズが加わりました。やわらかい埴輪「ふにわ」です。1回200円で、全7種類があります。何とも愛嬌のある表情で、持つと想像以上のやわらかく、こちらの力も抜けそうです。日頃感じている緊張感をほぐしてくれます。お子様にも人気が出そうです。
「ふにわ」以外にも変わらぬ人気を誇る「埴輪と土偶+土器&青銅器」(1回200円)、コップの縁にかけることができる「土偶と埴輪」(1回300円)、子どもたちに人気の「武将甲冑フィギュア」(1回300円)もあります。当館見学の記念にいかがでしょうか。

カプセルトイに新シリーズ「ふにわ」登場!
カプセルトイに新シリーズ「ふにわ」登場!
[ 2018-03-09 ]

河童とヒョウタン

お知らせ

ご存じのとおり、河童の好物といえばキュウリなどのウリ(瓜)です。一方、苦手なのがヒョウタン(瓢箪)です。いずれも、日本列島で古くから食用や道具の材料として重宝されてきた栽培植物で、水や水の神様と関わりの深い使い方もされてきました。
 河童が水分をたっぷりのウリを好むのはわかります。では、なぜヒョウタンが苦手なのかと言うと、その浮力にあるようです。『まんが日本昔ばなし』の「かっぱとひょうたん」では、河童が「田んぼに水を引くかわりに娘を嫁にくれ(水中に引き込む)」と条件を出しますが、機転の利く娘が「嫁入り道具の大きなヒョウタンを運んで」と答えます。河童はどんなに頑張っても浮いてしまうヒョウタンに根負け、自分が田んぼの水を抜いたことを白状して詫び、その後は、無条件で水を引いてくれるようになった、という話です。熊本では、河童はヒョウタンを持った人を見ると逃げる、との話もあります。
 似た話で最も古いのは『日本書紀』仁徳天皇11年(古墳時代)、現在の淀川(大阪府)に茨田堤(まんだのつつみ)を作る際、神のお告げで人柱にされることになった茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)が「真の神なら、ひさご(ヒョウタン)を沈めてみろ」と返答、沈まないのをみて難を逃れた、という話があります。
 水界に引き込まれ(溺れ)ないためのヒョウタン、引き込めない河童=真の神ではない、よって河童はヒョウタンが苦手、ということのようです。
 蛇足ですが、近・現代になって描かれた河童は、そんなことはお構いなしに、ヒョウタン徳利に入ったお酒をたしなむようになります。河童も成長?したのでしょうか。
 前置きが長くなりましたが、県内では、長野市篠ノ井遺跡群の古墳時代の井戸枠のさらに下から、たくさんの土器とともにヒョウタンが出ています。この場合、ヒョウタンが浮いてくることを期待されていないので、井泉の神への捧げものの一つだったのかもしれません。
 ※「君は河童を見たか!−水と人の関係史-」展 6月16日(土)〜7月29日(日)

河童とヒョウタン
井戸底近くまで広く掘削し、井戸枠を取りあげる
河童とヒョウタン
井戸枠をはずすと井戸底からヒョウタンが出土
[ 2018-02-16 ]

古文書公開日記10−古文書愛好会 今日もゆく−

お知らせ

 毎年恒例の古文書愛好会演習の季節です。古文書愛好会は、当館の古文書講座を数年受講された方々で、さらに実力を付けたいという方が中心になって結成された学習サークルです。現在約60名の方が参加されています。そのなかで、冬季に当館の未整理文書群の読み込みをおこない、粗目録を作成し整理する作業が「古文書演習」です。本年度は佐久郡上平尾村森泉家文書、水内郡古山村戸谷家文書、そして埴科郡森村中澤家文書の整理をおこなっています。今年は30名の参加で2月末まで計18日間開催します。いずれも昨年度および今年度に当館へ寄贈された史料です。まったく未見の史料ですので、一通一通何が出てくるかワクワクしながらの作業です。古文書読解は、当時生きていた人びとの「生の文字」を読むものです。そこから江戸時代の人の声やにおいが伝わってきそうです。なのでコピーや写真では分からない発見もしばしばです。
 整理するのは古文書だけではありません。今日も近世後期の和歌結社(サークル)の連歌短冊や、養蚕関係の蚕種紙、和宮降嫁時の助郷役の苦労談などがでてきました。江戸時代の庄屋は地域の文人の集まる場でもありました。中澤家の当主を描いたと思われる肖像画、きっとお酒が好きだったのでしょうね。作業されている最長老のTさんに似ているともっぱらの評判です。
 愛好会にご関心のある方は、事務局(県立歴史館文献史料課)までお問い合わせ下さい。大勢の方に古文書へ興味を持っていただければ幸いです。

古文書公開日記10−古文書愛好会 今日もゆく−
江戸時代の一人酒(森村中澤家文書)
古文書公開日記10−古文書愛好会 今日もゆく−
愛好会の整理作業風景
[ 2018-02-14 ]

復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示

お知らせ

 昨秋の企画展「進化する縄文土器」にあわせ、常設展示室の縄文コーナーも縄文中期の土器が大半を占めていました。ご堪能いただけたでしょうか。1月からは、徐々に縄文人の生活全般がわかる展示に戻していく予定です。
 その第1弾として、1月11日(木)より、長野市松原遺跡出土の「の」字状石製品など、装身具5点を復活させました。当館HPのトップページや「展示のご案内(原始)」に写真を載せていた優品です。待望されていたみなさん、お待たせいたしました。
 松原遺跡の装身具は、縄文時代前期末〜中期初頭(約5,700〜5,500年前)のものです。玦状耳飾(けつじょうみみかざり)は、縄文時代前期に流行した耳飾で、原形は中国大陸にあります。残念ながら上部が割れているので、図を参考にして全体像をご確認ください。素材の石は白っぽい緑泥岩を使っています。残りの4点は、ちいさな孔にひもを通して胸元に下げた垂飾(たれかざり)です。素材の石は、つやのある深い緑色をした蛇紋岩を使っています。新潟県糸魚川市や周辺が原産地で、木を伐りたおす斧(磨製石斧)の材料に使われたひじょうに硬い石です。そんな石を、ギターのピックのようになるまで薄く磨きあげ、形を整えるのは、たいへんな作業だったと考えられます。
 すぐ隣りには、原村阿久(あきゅう)遺跡出土の装身具を展示しています。こちらも縄文時代前期ですが、松原遺跡より古い前期前葉〜後葉(約6,600〜5,800年前)のものです。玦状耳飾は全体に丸い形をしており、流行の違いが感じられます。その他の垂飾品は、丸い石や管状の石に孔を空けただけで、松原遺跡よりも簡素な印象です。
 みなさんは、どちらがお好みでしょうか。常設展示室で品定めをするとともに、縄文人の技術力の高さや、おしゃれの意味(女性に限らず、男性有力者や呪術者だったかも)に思いを寄せててみてください。

復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示
長野市松原遺跡出土の装身具
復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示
原村阿久遺跡出土の装身具
[ 2018-01-17 ]

古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−

お知らせ

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。新年早々新しい購入史料の整理が終わりましたのでご紹介します。今回ご紹介するのは「高島藩医関家文書」10点です。江戸時代の地方の医者の系譜類が残されています。
 関氏は佐久源氏平賀氏の流れで、戦国時代は木曽義昌、ついで諏方頼重に仕えていました。頼重の死後、武田氏の家臣となり50石の地侍として仕官し、江戸時代は高島藩士となります。
 高島藩の医師としての活動が見いだせるのは江戸時代中期1738(元文3)年、盛信の孫盛喜が江戸の医師大澤玄随に学んでからです。盛喜は玄悦を名乗ります。 
 興味深いのは玄悦の経歴です。高島藩士でありながら、玄悦は尼崎藩松平氏の扶持を得ていました。三人口(扶持)という少禄でした。さらに鳥羽藩藩主稲垣氏に召し抱えられ、扶持米も増えました。家の歴史を記した系譜「家乗(かじょう)」によれば鳥羽藩時代には藩主から白無垢着用、帯刀も免許されたと記されています。そしてふたたび諏訪へ戻ることになり、上諏訪へ転居したのが1785(天明5)年でした。諏方氏ゆかりの頼岳寺に祀られました。
 以上の「家乗」の記述からは、武士でありながら医業に携わっていた関家の経歴がわかるのですが、興味深いことは、藩医として各藩のお抱えとして仕官先をたびたび代えていたことです。医業は専門職で、求めに応じて仕官先を転々としたことがわかります。
 まるで江戸時代の「Doctor X」と言えるのではないでしょうか。

古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−
写真1 「系譜」関氏の武士としての出自が記される
古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−
写真2 関玄悦の項
[ 2018-01-11 ]
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