歴史館年表
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私たちの長野県、信濃の国は日本列島のほぼ中央にあります。
高い山々に隔てられた盆地や谷ごとに、独特の文化や風土が培われる一方で、人々ははるか昔から峠を超えて日本各地や世界と交流してきました。
東西南北の文化が長い時間の中で融合し、今日の長野県があるのです。
野尻湖立ヶ花遺跡の発掘によって、長野県の最古の歴史が次第に明らかになってきています。
およそ3万5000年前の日本は、今よりずっと寒い氷河期で大陸と陸続きでした。
野尻湖の周辺に住んだ人々は、骨製の槍などを使って大きなナウマンゾウやオオツノシカなどを捕り、木の実などを食べて暮らしていました。
約1万2千年前、気候が暖かくなると氷河期が終わり、現在の日本列島が出来ました。
人々は弓矢で狩りをし、落葉樹の森からより多くの木の実や山菜を採って生活するようになりました。
長野県の八ケ岳山麓を中心とする中央高地は、縄文中期の遺跡が日本列島の中で最も多く、人口密度も高かったことが分かります。
また、和田峠周辺で取れる黒曜石は、先土器時代から様々な石器として使われていました。
この黒曜石が各地から発見され、200キロメートル以上も離れた人々と交流していたことがわかります。
大陸から九州北部に伝わった米作りは、やがて信濃の地域にも伝わり、稲作が始まりました。
稲作の普及とともに農耕の祭りも始まり、その祭りを取り仕切る有力者も現れました。
古墳時代になると、地域を支配する権力者が人々を統率するようになりました。
歴史館の近くにある森将軍塚古墳は、権力者の墓で信濃で最大のものです。
現在の森将軍塚は、発掘調査によって分かったことをもとに復元されました。
この古墳の形は、前方後円墳と言います。
前方後円墳や発掘された三角縁神獣鏡は、近畿地方の中心部から、当時全国に勢力を伸ばしつつあった大和朝廷との関係を物語るものと言われています。
大和の中央政府は全国を直接支配するために律令制度を整えました。
中央政府は国司を全国に派遣し、地方の豪族は軍事として、その国司のもとで税の徴収などを行うようになりました。
科野も、信濃の国として中央政府の地方制度に組み込まれました。
上田市付近には国司の役所である国府が置かれ、国分寺や国分尼寺が建てられました。
その後、国府は松本市付近に移りました。
この時代には中央政府の指示によって、水田が碁盤の目のように整然と区画されました。
都と地方を結ぶ道も整えられました。
信濃には東山道が開かれ、この道を通って役人が往来したり、税を都に運んだりしたのです。
木簡や正倉院に残された布に記された文字から、信濃の人々の様子や、税として運ばれた特産物が分かります。
平安時代になると、信濃は麻布と馬の産地として知られるようになりました。
中でも望月牧(もちづきのまき)は、名馬の産地として平安貴族の歌に詠まれるほど有名でした。
牧は武士が生まれる舞台ともなりました。
平安時代の終わりになると、貴族に代わって武士が力を伸ばし、兵士が実権を握りました。
木曽の源義仲は兵士を倒すために都に攻め登り、信濃の多くの武士が義仲の軍に加わりました。
源頼朝が開いた鎌倉幕府は、地方の武士を地頭に任命して全国を支配しました。
信濃の武士も地頭として幕府から領地の支配を認められました。
鎌倉時代には、人々の往来が盛んになります。
一遍上人の絵巻の中に、善光寺に集まる人々の姿が描かれています。
善光寺は源頼朝をはじめ、権力者から庶民まで広く信仰を集めました。
武士の信仰を集めた諏訪大社なども全国にその信仰を広げていきました。
人々の往来が盛んになったのは産業や商業の発展があったからです。
この時代の日本人は大陸とも盛んに貿易を行っていました。
信濃でも当時の大陸で作られた陶磁器や銭が見つかり、信濃が全国そしてアジアの国々ともつながっていたことがわかります。
鎌倉幕府が倒れ南北朝の時代になると、信濃でも武士たちの争いが激しくなりました。
中央の支配が弱まり、東北信地方の武士が団結して信濃守護の小笠原氏を追い出した大塔合戦と呼ばれる戦も起こりました。
そして幕府が力を失うと、信濃も戦国の騒乱の時代になりました。
信濃は、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が争う場となりました。
両軍の戦いは何度もありましたが、1561年の川中島の合戦は激しい戦いとなりました。
その後、武田氏が信濃のほとんどを支配しました。
江戸時代の信濃には、幕府領と大名が収めるいくつかの藩の領地が置かれました。
幕府や諸藩は、年貢などの税を増やすために田畑の開墾を奨励し、各地に新田と言われる新しい村も生まれました。
農民の毎日の努力によって稲作や養蚕が発達し、農具や様々な技術が進歩していきます。
各地に特色のある地場産業も生まれました。
特産物が増えると、中山道をはじめとする街道沿いには宿場町が発達しました。
また、伊那街道などでは中馬輸送が盛んになりました。
藩や幕府の無理な要求に対しては、農民たちは力を合わせて一揆を起こすようになりました。
上田藩の宝暦騒動のような、藩全体の農民が立ち上がる大きな一揆も起こりました。
この騒動の指導者の墓は、昭和になって歴史好きの少年が発見したのです。
庶民は自分の生活や権利を高めるため、読み書きなどの知識を身につけようと寺子屋に学ぶようになりました。
信濃の寺子屋の数は全国で一番多いとされています。
黒船来航をきっかけに鎖国も破れ、世の中は大きく変わり明治維新へとつながりました。
明治維新を迎え信濃も大きく変わりました。
藩などに代わって県が置かれ、1876年に筑摩県と長野県が一つとなって、現在の長野県が生まれました。
明治政府の殖産興業政策の掛け声と共に、長野県の製糸業も近代的な装いのもとに発達し始めました。
大量生産された生糸は、横浜などから海外へ輸出され、日本の近代化を経済的に支えました。
明治中期から繭・生糸の生産高が全国一となり、長野県は蚕糸王国と呼ばれるようになりました。
1877年頃から、政府に自由と権利を求める自由民権運動が全国的に盛んになり、松沢求策らを中心とする長野県の商業者は、国会の開設を求める署名運動をしました。
不況で暮らしが苦しくなった農民たちは、安定した生活を求めて立ち上がり、秩父事件などを起こしました。
国会が開かれるようになった後も、選挙権をはじめとする権利の拡大を求めて人々の運動は続き、大正期には青年たちに引き継がれていきました。
青年たちは自主的に自分の意識を高める自由大学運動を起こしました。
こうした大学は上田・飯田・松本など各地に生まれ、やがてその運動は全国に広がっていきました。
昭和の初めの世界大恐慌は、日本経済に大打撃を与えました。
生糸の輸出に支えられていた長野県の経済は特に深刻で、繭価の大幅な値下がりは養蚕農家の収入を激減させました。
失業者や生活の苦しくなった養蚕農家を救うために、国や県は、満州(現在の中国東北区)への移民を奨励しました。
長野県は全国で一番多い3万人もの人たちを、分村移民などの形で送り出したのです。
アジアへの侵略が進み、戦争が激しくなると日本は戦時体制一色に染まりました。
長野県には空襲を逃れて多くの人々や工場が疎開してきました。
政府は敗戦が濃厚な戦況の中で、天皇や軍の最高機関である大本営の松代移転工事を進めました。
この工事では中国や朝鮮からも多くの人たちを強制的に連行し、過酷な労働をさせました。
戦争は多くの人の命を奪ったり、生活の場を破壊し、深い傷を残しながら終わりました。
戦争が終わった後、社会全体の民主化が進められ、長野県でも革新知事が誕生するなど、民主主義運動が高まりました。
蚕糸業を母体として発展してきた長野県は、戦争中に疎開してきた工場の設備や技術を基に、戦後、電気機械工業・精密機械工業を中心に大きく発展し始めました。
高度経済成長による豊かさが、一方では農山村の過疎化や高齢化の問題、さらには環境保護などの新たな課題も生み出しました。
物質的な豊かさとともに精神的な豊かさも味わえる、長野県の発展が望まれています。
人々の暮らしと、様々な地域との結びつきの中で作られてきた信濃の歴史には、皆さんが新たに発見することができるものがまだまだたくさんあります
先人が歩んだ歴史の教訓を、未来の歴史を作り上げていく中に活かしていきたいものです。