古文書公開日記69 「時の公方」-江戸時代の文書リテラシーと中世文書-
当館で収集している文書をなにげに読んでいると、ときにあっと驚くものに出会うことがあります。以下、本日整理した寄託文書をとりあげます。
以下の文書は江戸時代の土地売券で、溝(みぞ)畑(はた)筑しうという人物が畠一ヶ所を岩内孫右衛門へ売却した文書です。「酉年の年貢に詰まる(=やりくりができなくなる)」ということで貨幣ではなく二石あまりの現米(米そのもの)での取引で畠を永代売買しています。
この文書の年紀は明暦3年(丁酉:ひのととり、1657年)12月27日。年の瀬も押し迫った中で、本当に背に腹は代えられぬ状態だったと思われます。土地売券の日付が年末のものが多い、といった中村直勝氏の論考が思い出されます(「キキミミのある文書」)。
もっとも、わたしが面白いのは文言なのです。本文を読むと、この契約について、あとになって本人や子孫達が難癖をつけてこないことが明記されているのですが(これ自体常套句です)、にもかかわらず、この取引を妨害する者が現れたら「時の公方、沙汰人として堅く曲事仰せつけらるべく候」とあえて本文に記載されているのです。これを文字通り解釈すれば、契約に違えれば「時の公方が執行官として厳しく処分する」というものです。
「公方」といえば江戸時代はもっぱら「将軍」(「公儀」は「幕府」)を指したといいます(百瀬今朝雄氏)。いっぽうで笠松宏至氏があきらかにしたように、中世の場合、当初は公方とは、人びとによって「特定の人物を指す対象ではなかった」と思われます。とくに中世の在地の文書に見える「時の公方」という表現が、「その時代の支配者」という程度の意味で、やはり中世特有の地域の裁判者をあらわすことばであったと考えられます(笠松「中世在地裁判権の一考察」)。その意味で「明暦」という江戸時代前期にあって、この文言の文書があるということ自体が驚きです。
また売却者、および請人をみるとすべて花押もしくは略押(ごく簡略化されたサイン)で記されていることにも驚きます。江戸時代初期には、農村での黒印の使用が飛躍的に高まっており、とくに戦国時代の村落内土豪レベルの家(江戸時代には庄屋・名主などになっていく指導者層)は印判の使用が一般的となっていると考えられているからです。
また売買の対象となっている土地も「下地」と記されているのも、とても異彩を放っています。江戸時代以前の中世社会では、土地の所有権は重層的なものとなっていて、土地からの収穫物・年貢をあらわす「上分」、「土地そのもの」を表す「下地」、さらに土地を耕作する権利や様々な諸収入など、上から下へ積み重なっていったもの「もろもろ」が、「中世的所有権」です。ひとつの土地にはこのような折り重なって諸権利があり、所有権を複数で持ち合うしくみとなっていたのです。これを変えたのが豊臣秀吉の一地一作人制であることはいうまでもありません。
このようにこの文書の表現・用句については、前時代的な文言が並び合っているというイメージが強く感じられるのです。
江戸時代前期には農村では文書社会となり、文書作成能力が求められていきました。これらの村々のなかでは、文書を必要に迫られて作成することになります。ひょっとすると手近にあった中世文書をひな形にして見よう見まねで文書が作成されていき、後世までその様式が継承されていったのではないでしょうか。だから江戸時代の文書の中に中世的な表現がちりばめられてしまった、というのが真相なのかもしれません。しかし見方を変えれば、過去の文書を参照する必要がでてくることで、知としての「文書リテラシー」が村の百姓たちの内部に次第に形成されていったともいえるのでしょうか。(村石正行)