古文書公開日記70 日本測定器須坂工場 -井深さんのお礼状-
以前、新聞のコラムでSONYの前身日本測定器の須坂移転について紹介しました。https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022021800017
これに続いて信濃毎日新聞でも設計図面について大きく取り上げてもらいました。https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022041901033
長野県の基幹産業だった養蚕が昭和恐慌によって衰退していきました。空洞化が進む中で、都市部からの工場移転が県の政策で進められたのです。いっぽう太平洋戦争の戦局悪化によって、疎開企業が多く信州へ移転してきたことはよく知られています。日本測定器はその工場の一つでした。 今回、疎開工場の設計に当たった宮本組から設計図など28点が寄贈されたのですが、その後改めて設計書や井深大氏の書翰も追加で寄贈されています。
井深大さんの手紙には次のようにあります。
ご無沙汰して居ります。色々御骨折りにておかげ様で工事木材の件等も着々進行致し居る様子にて、一同御尽力に感謝致して居ります。専務も國広も公私共さぞかし御厄介になつて居ることと存じますが、我々はただ須坂新工場が一日も早く完成し一日もゆるがせに出来ない現下の状勢に少しでもお役に立てばとのみ念願してゐる次第ですから、何卒よろしくお願い致します。
又此の度は林檎澤山御恵送に与り誠に有難う存じました。何よりのもの珎重致しながらいただいて居ります。
来年は又伺ふ機会も多いことと存じますからその節又お礼を申し上げることに致します。先づは、お礼まで。
十二月二十一日 井深 大
宮本様
文面から須坂工場完成の前ですので昭和18年12月のものと考えられます。須坂の特産りんごを送った際の礼状。木材の調達なども苦心していた様子がうかがえます。追加寄贈されたものは、宮本組須坂工務所の代表だった宮本茂次氏による工場各所の設計書です。図面とともに見比べると、より具体的な様子がうかがえるでしょう。
面白いのは、この工場が「皇国第四〇三号工場」として工事されたということ、さらに建坪五坪の地下壕も付随していたことがあらたにわかったということです。この見積もり額が4800円程度でした。
なお、終戦後、日本測定器の井深たちは直ちに上京し、10月に新会社東京通信研究所を設立しました。いっぽう10月27日付けで、9月・10月分の支払として現金の入った支払袋を宮本茂次へ支払ったことがわかります。戦時中の紙幣16円10銭です。
大変興味深い史料が当館へ寄贈されました。戦中戦後の日本の疎開企業の一面を垣間見ることのできる重要史料といえます(村石正行)。