古文書公開日記74 児玉勝子日記-民主化を志した信州女性の戦時下の記録―
去る7月10日投開票された参議院選挙の女性当選者は全国で35人。2016年、2019年の28人を上回り過去最高となりました。戦前における女性の権利拡大ということでは、「新婦人協会」を創立し、戦後参議院議員を通算5期25年務めた市川房枝のことがよく知られています。その市川が親友の一人として慕い、戦前から戦中、戦後を通して女性の権利獲得に生涯を捧げた女性が坂城町出身の児玉勝子(1906-1996)です。
当館では、2000点以上に及ぶ児玉勝子史料を所蔵しており、特に勝子が一19歳から85歳まで書き続けた73冊の日記は、当時の社会状況や政治、生活の様子等を伺い知ることができる大変貴重な史料です。昭和3(1928)年22歳の時に上京した勝子は、「婦選獲得同盟」の職員として市川の片腕となり、婦選運動を推進していきますが、この時代は日本が大陸へと進出し、戦争へと舵をきっていく時代と重なります。日記には戦時下を生きた勝子の思いが綴られています。今回はその一部を見ていきましょう。
中国、東南アジアへと戦線を拡大し、昭和16(1941)年12月にはアメリカとの開戦にも踏み切った日本ですが、時とともに徐々に追い詰められていきます。昭和17年2月13日の日記には「マーシャルのその後の戦況発表あり、ついにやって来やがったと思うのみ、これでもギリギリと口惜しがらぬ人間がいたらそいつは日本人ではない。この頃雑誌も殆ど読むことはないが、矢張りよんでいなければならぬ。」とあります。さらに、政府に対しては、「只心構え、心構えを強要されるばかり、それを実践励行する強力な組織体が一つもないでないか、それが腹が立つのだ。こんなことで勝てたら虫がよすぎる、否こんなことでは敗けてしまう。」と戦争を肯定しつつ、負けることへの危機感を募らせていることがわかります。
昭和19年(1944)年本土への空襲が激しくなると、勝子も故郷である坂城町への疎開を余儀なくされ、「とうとう坂城へ来てしまった。学童疎開が急速に実施されることになって、結局落ちのびるより手がなくなった。・・・」(7月19日)と本意ではない疎開の思いを綴っています。
昭和20(1945)年8月13日には、「とうとう来た。艦載機は絶対優勢な条件の下でなければ信州へはこぬといってゐたのもついこの間ながら今朝早朝より警報も何もあったものでなく・・・上田、長野と一日中波状攻撃である」と長野空襲の様子も書かれています。
勝子はそのまま、坂城で「終戦」を迎えます。昭和20(1945)年8月15日、昭和天皇の玉音放送を聴き、「屈辱、こんな屈辱があろうと誰が思ったであろう。…」と戦禍を必死で耐え抜いてきた率直な心情を吐露しています。戦時下における思想統制下においては、同じような思いを抱いた国民も多かったかもしれません。ただ、同日のその後の記述に「しかし考えてみればこれが当然なのかも知れぬ。ここまで来なくてはならぬほどのくさったものが日本の底にはよどんでいたのであろう。…」と葛藤の中にも当時のこの国に内在していた問題に目を開こうとする姿があり、そこに確かな志をもって真に国を思う賢明な女性像を見ることができます。敗戦後は周知の通り、GHQ主導による民主化政策が進められ、勝子らの念願であった女性参政権も、いち早く認められていくこととなりました。
明治から大正、昭和、そして平成までをたくましく生き抜き、戦争に翻弄されつつも民主化の志を貫いた児玉勝子という一人の信州女性の生き方に、今学ぶ意義は大きいと感じます。
ちなみに、現在当館常設展示の近現代エリアにて、8月限定の終戦特別展示として、児玉勝子日記を展示中です。8月ももうわずか。ぜひ、ご来館ください。(大森昭智)