若林忠一史料

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資料No G0-8
カテゴリー
資料内容 大正末年~昭和52年、社会運動家、農民運動家、満洲の新聞記者、林・西沢県政のブレーン、更埴市長として活躍した若林忠一に関わる史料群
解題

(1)寄贈の経過

 2008年6月、当館資料選定委員上條宏之氏(長野県短期大学長・近代史)から、若林忠一氏の長男忠之氏(京都府在住)より、以前に同委員に託された資料の受け入れを検討すること、及び千曲市の若林氏自宅にも多数資料があるので調査するよう要請があった。

 上條氏から託された史料は、昭和30年代に若林忠一氏が中心となって「長野県農民運動史」の刊行を計画した際の関連史料である。当事業はその後中断してしまったが、長野県の農民運動は南佐久郡と小県郡の運動史が刊行されているのみで、中絶したとはいえ県全域の農民運動史の刊行計画に関る資料は貴重であると判断し、若林忠之氏と寄贈の手続きを行うと同時に、来県の折には自宅に残る資料の調査をお願いした。

 2009年4月、忠之氏から千曲市杭瀬下の自宅を含む不動産物件を処理するため来県するので、資料の調査と寄贈の申し出があり、4月と5月の2度、忠一氏の書斎に残る書籍・書類等を調査し、収集対象としたものについては2009年6月19日寄贈いただいた。

 2009年寄贈の史料と、2008年寄贈の「長野県農民運動史関連資料」と命名した史料は、本来一括史料であるので、今回両者を合体させ、新たに「G0-8若林忠一史料」とした。資料は総数1,393点である。

 (2)若林忠一略歴

〈生誕から本格的社会主義運動への歩み〉

 若林忠一は1903年(明治36年)4月若林忠之助、さ志の五男として埴科郡屋代に生まれ、屋代町立尋常小学校、県立長野中学校を経て1922年(大正11年)法政大学経済学部に進んだ。入学後は左翼思想団体「ヴァガボンド連盟」に加盟し、「法政大学社会問題研究会」の結成に参加し、その中心的人物として活動した。1923年(大正12)からは、マルクス主義の研究とともに社会主義啓蒙活動を開始した。同年9月の関東大震災に際し、多くの社会主義者が警察に拘束される事態に直面し、忠一は警察への不信感とともに社会奉仕や社会運動の必要性を深めていった。

 1924年(大正13年)実践運動に参加すべく法政大学を退学し、報知新聞社に印刷工として入社し、労働運動のボルシェビキ化(革命的左翼勢力の形成)の活動に身を転じた。その当時の心境を彼は「私は実践運動の中に参加し己の思想に生命を捧げることが、人生の究極の目的なりというような、大それた信念を抱くようになっていた。それまでの、親がかりの生活と訣別し、肉親との絆を断って新たな出発をすべく、親に内緒で今まで住んでいた牛込区神楽坂の下宿を引き払い、松尾博人氏の見つけた早稲田大学の近くのうす汚れた下宿に引っ越した。」と記している。(『若林忠一遺稿追悼誌』)

〈長野県での社会主義運動から満州での新聞記者時代の波乱〉

 1924年(大正13年)、長野県で社会主義運動を行うべく故郷に戻った忠一は、屋代を中心に精力的な活動を展開する。十数名ほどの小さな集会を重ねる中で、近隣は戸倉上山田、北は須坂などから人々が徐々に集まり始めたが、もちろん警察の目は厳しく、会の開催には苦労する。しかし、考えを同じくする仲間と共に1925年(大正14年)1月「北信社会思想研究会」を母体により広範につながる「政治研究会北信支部」を設立し、2月には上山田温泉で「政治研究会長野県評議会」を創設して、幹事長に就任する。たびたび上京し政治研究会本部とも連絡を取り合い、日本全国の情勢を把握しつつ地方の運動を進めていった。また、農民運動の支援にも力を入れ、同年10月の北佐久郡海瀬村の小作争議を応援するなどの活動も行った。

 この頃を彼は「振り返ってみれば、激しい弾圧から逃れるべく、昭和8年に渡満するまでの数年間は、私の人生におけるもっとも起伏にとんだ激動の時代であったような気がしてならない。当時あの命を懸けた農民運動と、執拗なる弾圧のはざまにあって、私の神経はカミソリのように研ぎ澄まされ、頬はそげ、落ちくぼんだ瞳が異様に鋭く輝いていたものであった。初孫にも恵まれ、穏やかな老境に入った昨今からは、想像もできないことである。」(『若林忠一遺稿追悼誌』)と回想している。

 1926年(昭和元年)政治研究会活動本部の分裂により支部活動を停止せざるを得なくなった彼は、農民運動への転進をはかっていくが、これは長野県の農民運動の出発点とされている。

 また、この年の警廃事件(註)では、屋代町の民衆の先頭に立ったため首謀者として検挙、起訴される。翌年には屋代劇場にて「長野県小作組合連合会」を設立して会計に選任され、長野市城山館に労農党大山郁夫委員長を招き「労働農民党北信支部」の結成大会を主宰し、書記長に就任している。

  • 註 警察署の統廃合に対する住民の反対運動。7月県の告示の施行で、岩村田、屋代、中野の警察署が廃止となった。3町では、7月18日長野市で県民大会を開くことにし、大挙して長野市に参集した。その過程で激化した住民らは県庁等を襲撃し、知事や護衛の警察官を負傷させ、大量の器物を損壊した。2,136名が検挙され、555名が起訴された。社会主義者が指導者として参加したことは、この事件の特徴の一つとされる。

 1931年(昭和6年)には実践運動から政治への転身を試みる。長野県議選に出馬したが、折しも満州事変が勃発した年であり「支那から手を引け」という訴えで選挙戦を展開するが落選した。日本帝国主義の海外進出、資本家のための満州略奪は、結果的に農民のためにはならないという主張であったが、満州進出に酔っていた県民には受け入れられる主張ではなかった。1932年(昭和7年)には、全国農民組合全国会議常任全国委員に就任し全国組織で活躍の場を得ることとなったが。1933年(昭和8年)の2.4事件(註)の際に、東京で検挙されて屋代署に護送された。釈放後、11月に忠一は大連新聞社(満州日々新聞の前身)に入社し、陸軍省担当として東京在駐となった。農民運動が2.4事件以降壊滅状態になり、生活面でも追い詰められた忠一は、心の中ではマルクス・レーニン主義は真理だと疑ってはいなかったが、当時の情勢は厳しく、苦々しい挫折感を味わっていた。

  • 註 1933年(昭和8年)2月4日に長野県内の多數の農民や教員が治安維持法違反で捕まり、弾圧された事件。この事件は「教員赤化事件」とも呼ばれ、禁じられていた労働組合活動をした教員ら約600人が一斉検挙された。これを機に長野県内でも軍国主義教育が広がっていったとされる。

 1934年(昭和9年)12月、満州に渡り新京(現長春)支社に勤務する。1937年(昭和12)には小県郡青木村の桜田義雄の長女鈴子と結婚、翌年には長男忠之氏が誕生し、忠一個人としては落ち着いた幸せな日々を過ごす時期となる。以後満州日々新聞の奉天(現瀋陽)本社に転勤し、約2年に渡り東亜部長、論説委員といった重要なポジションで活動した。日米開戦や中国での蒋介石の様子など、当時の重要な動向に注視しており、寄贈資料の中には満州鉄道に関する丸秘文書など重要資料が含まれている。

〈満州引き上げから長野県政のブレーンとしての活躍〉

 1942年(昭和17)、満州から日本に戻った忠一は東京支社通信部長に就任し、神奈川県藤沢市に移転するも翌1943年(昭和18年)には再び単身で満州に渡り、新京本社論説委員となった。その後、牡丹江支店長に昇進するが、生来の感性と記者として入手した情報から敗戦がそう遠い日でないことを予測し、帰国の計画を進めた。退社を願い出るも叶わず東京支社勤務を命じられ、敗戦直前満州からの引き揚げ船に乗船し急遽帰国する。1945年(昭和20年)敗戦とともに満州日々新聞社が解散となったため、妻の実家である小県郡青木村に仮寓することとなった。

 翌1946年(昭和21)衆院選に立候補するも落選し、その後は日本農民組合長野県連の要請により、全県下を回り農地問題の講演を続けることとなる。1947年(昭和22)長野県農地委員に任命されたのをきっかけにして県政への関わりが生じ、同年民選初の知事である林虎雄県政が誕生すると、副知事の有力候補に推されもする。翌1948年(昭和23年)県嘱託として、県政の中枢に参画するとともに(林県政と西沢県政15年間)、長野県農業共済保険審議会委員、長野県部落解放委員、長野県都市計画委員に任命され、農業分野を始め各種団体で精力的に県内の諸問題解決に取り組むこととなる。

 地道な県内の活動が認められ1949年(昭和24)には日本農民組合長野県連合会委員長、1951年(昭和26)には日本社会党長野県連合会書記長就任など重要なポストに就き、労農党大山郁夫氏とのつながりも以前にも増して強いものとなっていった。

 1957年(昭和32)に林県政の業績をまとめた「県政10年の歩み」(林県政の歴史)を出版し、次期長野県知事選では西沢権一郎県政誕生のために奔走した。県政赤字解消問題に取り組むなど、林、西沢という戦後の大きな転換期2代の県政の陰にあって、重要な役割を果たした。

〈更埴市長時代から太陽の園に関わる福祉活動への展開〉

 そうした県政ブレーンとしての手腕を地元で発揮するべく、1963年(昭和38年)に更埴市長選に出馬し第2代更埴市長に当選する。こうして彼の活動の場は国や県から、愛するふるさと更埴(現千曲市)となった。

 彼の市政は、1965年(昭和40)にその保存・保護が注目された森将軍塚古墳の発掘調査を開始するなど、文化行政にも深い理解を示し、翌1966年(昭和41)には町村合併によって成立した更埴市の要を形成するべく、新市庁舎を完成させるとともに、市の財政赤字の解消に尽力し黒字に転換するなどの行政手腕を発揮した。

 市政を預かる間、現在千曲市の市民の憩いの場である大池開発への着手や県立養護学校の誘致(現稲荷山養護学校)、千曲川大改修工事、東小学校建設促進や電話自動化といった各種の懸案事項の解決や公共事業を推進するなど目に見える形の行政施策を実施した。また彼は、福祉行政にも力を入れ 1969年(昭和44)経営不振にあえぐ療育園の再建にあたり、市長退職後の1975年(昭和50)には「稲荷山太陽の園」園長に就任している。

 1977年(昭和52)新年早々、東京三井病院において肺ガンが見つかった。丸山ワクチンに一縷の望みを託し、再起を信じ退院を果たすが、同年5月28日地元更埴中央病院で逝去した。享年74歳であった。園長を務めていた「稲荷山太陽の園」および「稲荷山療育園」による法人葬が挙行され、最期の別れに約千人もの弔問客が駆けつけた。

 1979年(昭和54)には、林前知事臨席のもと三回忌が挙行されるとともに、彼を慕う有志の手により「若林忠一遺稿追悼誌」が作成された 。

(3)史料概要

 若林忠一の略歴からも分かるように、大正末年より社会運動、農民運動に携わり、1933年(昭和8年)からは満州に渡り新聞記者として活動し、戦後は林県政、西沢県政のブレーンとして活躍し、後に更埴市長となった間の多彩な史料群である。

 当史料は、社会問題が激化し、列強間の鋭い対立がやがて戦争にいたる激動の時代を、社会運動、農民運動の実践家として生き、軍国主義下の満州生活、戦後の民主化時代の県政への関与と、波乱の人生を生きた若林氏の歴史と社会に対した人間の資料としても貴重である。

 また、満州からの最終引き上げ船に乗り込むことが出来たことで、満州帝国時代終盤の資料や、満州鉄道に関する丸秘文書なども存在し、国内外を含めて日本の時代の流れを跡づける史料でもある。

 以下、史料に関する分類については概ね以下のように5つに分類し整理を行い、目録に記載した。

   1 農民運動関係

   2 満州関係

   3 社会党関係

   4 県政関係

   5 その他

 また、その史料には具体的に以下のような内容が含まれている。

  •  ①長野県労働運動史関係、社会党関係
  •  ②長野県農業関係の書籍
  •  ③長野県政に関わる文書(林県政関係:県嘱託時代)
  •  ④満州関係史料(鉄道などの丸秘文書も含む)
  •  ⑤絵画や書(林虎雄による日本画、労農党大山郁夫や社会党片山哲による書など)
  •  ⑥社会主義・共産主義関係書籍
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